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朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

ドイさん

2009-12-12 | 外国の風物
この方が、われらのガイド兼ドライバーの「ドイさん」。



 30年前に広島県から、この島に来たそうです。犬年とのこと、ほぼ62歳ですね。



外国で名所の見物もそれなりに良いのですが、地元の人たちの話を聞くのはもっと楽しいことです。

 彼のコメント集:

1.この島の観光バス会社の運転手を長年勤めてきて、数年前に退職した。
 1bis. 最近のバスドライバーは怠慢だ。バスの車体が汚れていてきたない。自分の頃は毎日きちんと洗車していたぞ。
 1ter. この島で、レンタカーか自家用車か見分けるのは簡単だ。[ライセンスプレート(ナンバープレート)で分かるンですか?] 汚れているのが自家用車だ。

2.日本語が話せる(英語も)、運転ができる、観光ガイドといつも一緒に仕事をしてきた経験がある。そこで独立して、日本語ガイド兼ドライバー(オーナー車)を開業した。

3.この仕事は副収入である。週3日しか働かない。

4.ゴルフを最大の趣味、生きがいとしている。ハンディはシングルで80以上たたくことはない。仕事に行かない日は、友人とゴルフをする。日本からもゴルフ仲間がしょっちゅう遊びに来る。

5.グリーンカードを取得するのは簡単である。米国人と結婚すればよい。

6.自分のワイフは米国人。娘は2人。結婚して、孫が4人。一番上は小学校3年で、クリスマスのサンタさんへのwish listには、昨年から「コンピュータ」と書いている。まだ早いだろうか。

7.孫にプレゼントやるために、働いているみたいなもんだ。

8.自宅あり、年金あり、自分名義の自動車は5台。少しの農業もやっている。ゴルフで鍛えているので、スリムだし健康だ。

9.娘の一人は、医者になるほどの知恵はなかったが看護婦学校に行って、ナースになった。今はパートで働いているが、週3日働いて月給は3000ドル(30万円)、フルならば5000ドルだ。米国では医療関係の給料は大変良い。

10.孫は5カ国の血が混じっている。娘も孫も日本語を聞くことはできるが、話せない。

11.ここ、ヒロは夏には雨が多いのであまり暑くならない、30度越えることは少ない。冬も寒くないし。

12.ハワイは物価は多少高い、全ての物資を舟で本土から運んでくるので、でも住みやすい。最近、大阪に行ったが日本に帰りたいとは思わない。





 どうですか。

 「たられば」の話しですが、もし広島で30年間バス運転手やっていたら、こんなに生きがいのある充実したハッピー人生がおくれたでしょうか。

 もちろん、ハワイのバス会社で真面目にきちんと仕事をしてきたことの成果です。
 ですが、ハワイでの日系バス運転手という「ニッチ」を見つけてそこでがんばってきた結果です。日本でもこんな成功物語が普通にうまれる国になってほしい。
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キラウェア火山

2009-12-11 | 外国の風物
ビッグアイランド、ハワイ島には高い山が沢山あります。最高峰は4205mのマウナケア、日本の天体望遠鏡「すばる」をはじめ各国の天体観測基地となっています。

 広大な噴火口を見ることのできるキラウェアに車で登りました。



 頂上の少し手前には、水蒸気を吹き上げる蒸気泉も散在しています。ただし風呂はありません。せめて、足湯くらい造って観光客にサービスすればぁ。


 
 頂上からカルデラの眺望です。あまりにも広すぎて想像したほどの迫力は、ありませんでした。ここでも標高は1200mあります。

 見晴らしのよい場所に火山博物館があります。リアルな溶岩や噴火写真、ハワイ民族の祖先到来画などの展示があり必見です。
 なかでも、地震計が数台稼動しており、現在の振動の様子をリアルタイムで伝えていました。もしも噴火の予兆があれば、地震観測で分かるそうです。以前の大爆発の時の記録も展示されていました。



 売店には、溶岩噴出のビデオが販売されていて、デモ映像が大変迫力ありました。



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錦市場(京都)

2009-12-10 | 油彩水彩画、雑誌の表紙
四条通の北側に平行して錦小路通がある。
 狭い街路の両側には魚介、青果、漬物、麩、だし巻卵、菓子など食材の店が並ぶ。
 師走も押し詰まると、正月の食材を買い求めるお客で混雑する。(ITUジャーナル December 2009)


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火山の島

2009-12-09 | 外国の風物
ハワイ島に行ってみたくなりました。

 具体的な行き方を調べてこなかったので、ワイキキで旅行社のパンフレットを二三集めて検討しました。日帰りの価格は結構異なります。HISが一番高く350ドル、ハワイジャパンツアー社(HJT)が安くて240ドル(税、チップ、1食込み)。英語でのツアーでは180ドル~のエイジェントもあったのですが、それは税・サ・送迎別だと予想され、だとするとHJTとトントンの感じです。



この価格差をどうやって実現しているか、興味があります。

 1.まずツアー受付・申し込みの場所。HISは、ワイキキ銀座の一等地にあるオシャレなショッピングモールの2階に広々としたロービーがあり、若くてきれいな女性が数人カウンターに並んでいました。少し安い(299ドル)の「地球の歩き方」オフィスは、DFS(最大規模免税品店)タワーの9階で普通の事務所の部屋。この格安旅行社HJTはシャビーな古ぼけた低層ビルの2階。ただしロケーションは大変良く日本人観光客のほぼ100%が一度は足を運ぶDFSのまん前で、分かりやすい。

 2.離島までの航空運賃。いわゆる団体割引契約でしょうが。使用している航空会社は、「Go!」という新興のLCCでした。LCCとは、ローコスト・コスト・キャリア(運送社)のこと。従来の航空会社の高コスト構造を徹底的に見直して、低価格を実現しています。おかげで、空港ではチェックインの担当者は1名だけ。受付カウンターには多数のお客が行列しています。もう一人社員はいましたが別の仕事をしていて長蛇の列になっても手伝いません。機内ではソフトドリンクを含め全て有料、ただし空港売店なみの価格でした。(脚注参照)

3.現地のガイド兼ドライバー。ハワイ島の観光バス会社で運転手を定年退職した日本人男性を出来高払いで契約していました。大手観光会社のツアーは人数が多いので、どうしても地元大手バス会社のバスと専門ガイドなります。単純計算では、大きなバスで大量処理のほうが客一人当たりのコストは安いと思います。実際は、観光客数には季節性など変動要素が多いので柔軟性のある独立系企業(個人)契約が低コストになるのかもしれません。大手のコストを下回る価格で契約しているのでしょう。そのあたりのお話しは、後日。

4.おみやげ物屋からのコミッション。これはガイドのチップになるようです。ですが、われらのガイドさんは地元名産店に連れて行きますが、それ以上の販売促進トークはしませんでした。

5.HIS価格は利益率が相当に大きい設定ではないか。HISなど大手(?、この会社もついに大手になった)は、日本でのパックツアー販売時の料金を見かけ上低く抑えるため基本パックでは往復運賃とホテル代だけにして、やたらと「現地オプション」を増やして追加料金を獲得しようとしている。そのため、実質の利益はオプション料金にかぶせられているのでしょう。
 価格差の最も大きな理由は、これかもしれません。



飛行機は1時間以上遅れて出発。小型機です。CAは制服を支給されていません。  低空飛行なので、眼下に途中通過の島がよく見えました。50分程度で到着。

 ガイド・ドライバーの「ドイさん」がお出迎え。
 わがグループは、奈良県からのカップルさんとボクの3名だけでした。到着が遅れたため、名所見物を一つパスして、かつて地元特産であった砂糖を活用したチコレート工場・直営販売店へ。町おこしの典型例ですね。ガラス越しに見える工場では、頭に防塵キャップをかぶった日系おばさんたちが働いていました。

 町おこしに協力する意味もあり、ブラックチョコレート小箱を3個購入。



 次は、もうランチです。

 名物「ロコモコ」を、その発祥の店(ヒロ市、CAFE100)に行って購入してもらいました(観光コースにセットされた一食分)。
 要するに、バンバーガーどんぶり、下は白いごはん、グレービーソースが甘辛くて特長ありました。この町に移民してきて、当時サトウキビ労働に従事した日本人一世が作り出した食事です。いまや、ハワイ全体の名物となりました。




食後は、「虹の滝」へ。時間が遅いので太陽の位置が高くなり、普通の観覧場所からは虹は見えませんでした。でも、左手の丘の上に行き、滝が流れ落ちるところの近くまでいき、見下ろすと、わずかに虹色を見ることができました。ハッピー!!

 このあたりは、野生のマンゴーの巨木が至るところに生えていました。時期が違うのか、その実は成っていませんが。
 


きれいな花、名前はオヒアレフアでした。キラウエア火山の山頂付近にて。



====

注記: LCC (Low Cost Carrier) 米国国内の航空規制緩和、オープン・スカイ政策がきっかけで勃興した新興航空会社。空港ビル以外の営業カウンターは置いていないことが多く、電話かインターネットで予約する。運賃は、時々刻々変化する。お客の都合の良い予約時期(例、1週間前から3日前)が高い。空席まちは安い。キャンセルや変更の罰金は高い。最近は、大手航空も同様に予約タイミングにセンシティヴな料金制度を導入している。
 日本にも弱小の独立系航空会社は出来ているが、規模が小さすぎて、とても大手と本格的に価格競争できるLCCとはいえない。しかも採算が取れる大都市空港は発着枠がない。それで意図的かどうか別にして、外資参入を拒んでいる。
 しかし遠からず、外国のLCCが沢山やってくる。オーストラリアからはすでに1社日本に参入した。


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学会2

2009-12-08 | 社会貢献(仕事)
国際的な大きな学会の開催のひとつの例として進行状況を少々紹介します。

 チュートリアル(教育活動)や各種委員会がまず初日に始まり、第2日目に公式な開会式がありました。その冒頭のセッションです。通例、基調講演(Keynote)と呼ばれます。

 

 論文発表者にとって学会の目的は、自分の論文発表が承認され論文集に掲載されることです。そのことが「研究業績」となるからです。発表論文に基づいた討論は当然重要ですが、画期的な大論文は極めて少ないのが現実だし、発表時点では価値がよくわからないことがほとんどです。

 キーノート講演のように、自分の(狭い)専門分野とは異なる総括セッションには参加する学会員は必ずしも多くありません。

 このセッションでは、講演者(パネラー)が10~20分程度の短い講演をした後、壇上に椅子を並べて一堂に会し討論を行いました。この形式を「パネルディスカッション」と言います。今回のパネラーは、アジア(韓国、台湾)の最大手情報通信企業のCEO(社長に相当)と米国の大手企業CEOでした。
 


一番左側がモデレータ、元はイギリス大手企業の技術担当役員でしたが、2年前に中国の新興企業で大手メーカーのCTOに就任したと紹介されました。

 このような議論をリードする役割の司会者を「モデレータ」と言います。
 この方は、適切な質問を投げかけてパネラの刺激的な発言を引き出し、聴衆をひきつける力にとても優れていました。さすがに、討論にたけた英国人です。



 あまりにも広い会場だったので、討論のフェーズになると、聴講者全員を起立させて、フロア右半分・前方の椅子に移動させました。ですから、壇上のパネラーとの距離感が一挙に縮まりました。

^^^^^^

次の話題は、公式昼食会で「アワードランチョン」。表彰式を含む昼食会です。

 慶応大学の青山先生も受賞されました(次の写真)。おめでとうございます。



 表彰セッションが終了して直ぐに、メインテーブルにお祝いに駆けつけました。

 実は上の写真の左端(会長)と右端(表彰委員長)の方も、私も個人的はよく知っている人でした。

 こちらから押しかけて、記憶を呼び戻してもらい握手してきました。むかしNY留学時代の研究者サークルの方と、1980年代に東京でこれと同等な会議を開催したとき、専門委員会で企画担当の日米双方のカウンターパートでした。
 やあやあ、といって、私も含めて4人で記念のスナップを撮影しました。



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ダイアモンドヘッド 頂上

2009-12-07 | 外国の風物
狭くて暗いトンネルを100メートルくらい行くと、その先にまた直線で急勾配の階段があり、さらに螺旋階段を2階ぶん上ると、



 砲撃統制所であったフロアーに着きました。
 敵からの攻撃に耐えられるよう分厚い鉄筋コンクリートで固められています。日本海軍の真珠湾攻撃は奇襲だったので、結局、砲撃コントロールには一度も使ったことがないわけです。




 観測や測定のための細い窓が開いています。ここから外に出て、今度は海側を登ります。下は断崖絶壁でした。 


 
 これが最後の階段でした。




 頂上からの景色です。
 まさに絶景。




 東側の景色は、こんな感じです。
 もう夕日のため、クレーターの内側(茶色の土地のところ)は影になっていました。



多少、急いで登って来たので、料金ゲートから40分くらいだったかな。 
 ボクの後から何人も登ってきています。やっぱり、6時sharpの門限は建前なんでしょうね。
 ボクは、ちゃんと10分前に出場しました。

 バス亭まで降りていく途中で、真正面に満月が昇り始めました。



 写真では手前が真っ暗ですが、実際は、まだ十分に明るい状態でした。

 麓のバス亭でベンチにかけていると、後から数人が下山してきました。その内、やや年配の白人夫婦が、バスのトランスファー(乗換用に乗車時にドライバーが発行する)を手に持ってなにやら話していました。本来、この券は、2.25ドルの島内均一料金を払ってどこかで別の路線に乗換えるとき、2時間以内有効のはず。
 話しかけると、「そう、そうなんだけれど、この券の表示(切り取り場所)では午後8時までOKだ。昨日も使ったけれど、ドライバーはそんな時刻の記録までは検査しない、ただ手元にぶら下げてあるプラスティックバッグに放り込めと言うだけ」と教えてくれました。

 バスが来て、乗ってみると実際そのとおり。
 市内からここまで、なんと2.25ドルで往復できました! トロリーだと往復30ドルかかるところでした。(限定便だと往復10ドル)

 バスの中でも、隣に座ってそのご夫婦と話しました。日本にも何度か来たことがあり、東京、京都も知っていました。ご本人たちは、元はスコットランド人で、30年前にニュージーランドに移住し機械技師の仕事を続け、数年前に引退したとのこと。
 NZのトレッキングルート、NZの郵便・通信事業の極端な民営化のこと、スコッツのウイスキー(と、マダム・サッチャによる強引な日本の輸入関税引き下げ要求)などを話しているうちに、暗くなったワイキキに到着しました。
 ...NZは、まだ、行ったことなし。
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そうだ、ダイアモンドヘッド 登ろう!

2009-12-06 | 外国の風物
その日は、朝一番から7:45開始の基調講演に出席し、質問の時間では真っ先に手を上げて質問させてもらいました。次のセッションも出席と質問。この日の昼食は、「アワードランチョン」といって、功績のあった会員を表彰する昼食会にも参加しました。そのあたりの話しはまた後日。

 天気も良いことなので、ふとダイアモンドヘッドに登れるかなと思いました。街で無料配布しているパンフレットを見ると、「ワイキキトロリー」の一つのコースにダイアモンドヘッド登山口に行くものがありました。
 急遽ホテルに戻って、荷物を置き多少の準備、ペットボトルに水を入れて着替えのTシャツなどをナップサックに入れて出かけました。

 ところが、30分以上も所定の街角で待ってもトロリーは来ません。パンフレットを読み直すと、なんと午後2時55分DFSビル発が最終。もう4時近い。・・これではアウト!!

 気を取り直して別の方法を考えました。タクシーならば当然OKですが。
 でも、市バスでも登山口の近くまで行けると分かり、路線番号を調べてそれを待って、どうにか乗れました。この時点ですでに4時過ぎ。



モニュメントの標識のあるバス停に到着。

 大雑把な地図を頼りに、ここからハイキング開始です。まずは外輪山を越えるため、海とは反対の側にある自動車道路を登りました。歩き始めて約10分で自動車トンネルが出現。



 トンネルを抜けると、クレータ、つまり昔の噴火口です。今は、全部が軍の基地です。数百メータ行くと州立公園管理局の料金所があって、1ドル(1名)の入場料が必要です。

 「ゲートの閉鎖は午後6時。頂上の往復には約1時間半かかります。入場しますか?」
 この時、午後4時45分でした。
 「はい、下りは走って帰ってきます」と答えました。どうせ、ある程度はさば読んでるだろうし。



最初のうち、なだらかな散歩道で舗装もされていました。周りの木々は海岸などの植生とは異なり、半乾燥の縮れたようなものばかり。外輪山の外側で水分が雨となり、そこを越えると風が乾燥して吹き降ろすようです。



 徐々に狭くて急な土の坂道となりました。ついには、急な階段です。
 



 途中で、元気の良い小学生くらいの男の子に追い抜かれました。慎重に足元をよく見ながら登っていくと...





 とうとう、こんなトンネルが現れました。(つづく)

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クリスマス デコレーション

2009-12-05 | 外国の風物
12月に入ると、街中がクリスマスの飾り付けで一杯になりました。

 ワイキキトロリーという、サンフランシスコのケーブルカーを真似た形のバスがワイキキの中心街をいつも走っています。JCBカード保持者は、無料でアラモアナ・ショッピングセンターまで乗車できます(ピンクライン)。
 街の全体を概観するために乗ってみました。



 機関車トーマスの電気自動車が大活躍。
 


 乗れるのは子供だけ。親は後ろをついて歩きます。
 カランカランと機関車の鐘がなり、出発。



 真っ赤なTシャツを来た係りのおばちゃんたちが、手をたたきならがら歌を歌って、ショッピングモールの中を巡行します。



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ワイキキビーチ

2009-12-04 | 外国の風物
まずは、ワイキキのビーチです。
 この巨大ホテルのプール。ほとんどが白人のカップルか家族です。

 アジア人客は、このホテルではほとんどが日本人。ロビーや宴会フロア(朝食会場)での会話からの推察ですが。
 プールサイドには、少しは日本の新婚さんがいるかもしれませんが、多くの日本からのお客さんは観光バスで島内ツアーに出発の模様。




 2~3000人規模の学会開催中ですが、それ以外の観光客のほうが多く泊まっているようです。学会参加者は、役職者、米国企業からの出席者以外は、エコノミーなホテルに泊まっているのでしょう。

 ビーチを少し歩いてみました。

 正面遠くには、ダイアモンドヘッド山が見えます。




 師走、12月、クリスマス休暇前ではありますが、表通は多くの人で賑わっています。



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学会の予稿集

2009-12-03 | 社会貢献(仕事)
ハワイの風物紹介の前に、国際学会運営の進化を少々。



 これまで、日本で開催された国際学会の事務局を数回担当してきました。
 最初は、30年くらい前でした。京都で開催され、約2,000人の参加者があり80%くらいが外国からの参加者でした。
 当時は、まだ日本には、国際コンヴェンション専門業者は存在していなくて、旅行・ホテル・バスの手配以外は全て手づくリでした。(脚注へ)

 会議登録作業は、想像以上の煩雑さで、十分に準備はしたつもりでしたが、前日の夕方には長蛇の列ができ、事務局長を務めていた某大手企業研究所の幹部氏は、(遠来の外国参加者を待たせることを恥と感じたようで)怒って自分の配下の人員を急遽手伝わせました。しかしその事は、後で大変な手戻りを発生させたのです。つまり事前に打ち合わせもしていない人が適当に処理したので、だれに何を渡したのか不明、登録料金の総計と資料配布の参加者数が一致しないなど。 

 現在は、ほとんどの参加者はインターネットで事前登録し、登録料もカードで支払っているので、コンピュータとソフトウェア支援により当日の作業は極めてスムーズとなりました。しかもコンヴェンション運営の専門業者が出来ているので、ほとんどお任せで開催できます。もっとも、数十人までの小規模な国際会議はいまでも手作りですが、そのほうが参加者への気配りが行き届くので好ましいです。

 さて、発表論文の予稿集のことです。
 以前は、審査をパスした論文は、指定の原稿用紙に英文タイプにて清書して事務局に国際郵便で発送します(「カメラレディ」原稿と言いました)。それを受け取った事務局は目次や表紙を作成して紙にオフセット印刷します。
 大きい学会ですと、電話帳サイズの予稿集(プロシーディングス)が数冊に分かれました。持って帰るのもとても重くて大変でした。

 予稿集は、数年前からCDに収容されて配布されるようになりました。カメラレディ原稿も、紙にタイプするのではなくてPDF形式で作成してインターネットで事務局に送信するようになりました。

 今回は、ついに、USBメモリ(フラッシュ・メモリ)に収容して配布されました。



 上の写真で、紙のプログラムの上の乗っているものが、USBメモリーです。この中に、目次、主催者の挨拶、セッション構成、予稿論文集などが収まっています。
 電子化して便利な点は、重量が軽くなったことだけではありません。検索が容易になり、著者名、組織名称、技術用語のキーワードなどで目的の論文やセッションが、たちどころに探しだせます。



 例えば、論文はこんな形でPCのディスプレイに現れます。プリントすることも出来ます。



 会場には、無線LANが設備されていて、参加者のほとんどがノートPCを持ってきていて発表を聞きながら、参考資料を検索したりしています。中には、仕事や私用のeメールをダウンロードして、それに返事を書いている人もいます。

 グローバルにネットワークが利用できるので、現在は、論文審査をする委員の作業効率も格段に向上しました。
 国際委員会の議論は、ほとんどがeメールと時々の電話会議で済んでしまいます。しかし、年に1度か2度は顔を合わせる「オフラインミーティング」が必要です。今回のような、この学会の旗艦会合(Flagship)では、論文セッションと平行して、学会内の各種委員会や、ワークショップ(臨時の討論会)、チュートリアル(先端の話題の解説、教育講演会)、ボランティア会議のミーティングが開催されています。

 本当に、ネットワークのグローバル化の威力はすごいと思います。
 現時点でも、こうやって、エコノミーなホテルの部屋からでもほとんど無料で写真やメールを送受信したり、ブログを更新できるのですから。

====
脚注:その国際学会は、1976年の秋に京都国際会館で開催し、前日には京都ホテル(現京都ホテルオークラ)で登録受付を開始しました。当時は、インターネットも、国際ファックス、PC、国際クレジットカード受付もありません。
 
 コンピュータは研究所のものを臨時に使用してソフトを手作りで組み込んで登録リストの記録と集計に使用しましたが、それは東京での作業の支援でした。前日や当日の登録処理はは、事前の記録プリントの帳票、何種類かの手書き伝票の準備で乗り切りました。事前登録のない飛び込み登録の外国人も多くて、混乱しました。事前の登録料は国際間銀行為替で受け取っるのですが、送金元(特に企業名での送金)には参加者個人を特定するのに手間がかかります。共産国などの方は、外貨送金、持ち出しの制限もありました。

 京都ホテルでの前日登録には、予想の2,3倍の参加者が来場したので、行列ができたこともさることながら、予稿集(紙の印刷で3、4分冊)やそれを入れるバッグも不足しました。その分は当日のために国際会館に運送してあったのです。急遽、タクシーを飛ばして取りに行きました。

 ある米国の研究者の場合は、クレジットカードだけでドルの現金もほとんど持参してきませんでした。日本が米国の州のひとつくらいの感覚だったのでしょう。そのカード(VISAか、Amexか)の日本支店に電話してキャッシングの方法を教えてもらいました。その場所が京都の中心部にあることが分かったので、事務局に支給されていたタクシー券を渡してそこまで行ってもらいました。その方はセッション議長という重要な役職者だったので。
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