人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

日本の人類学者37.永井昌文(Masafumi NAGAI)[1924-2001]

2012年10月07日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Masafuminagai

永井昌文(Masafumi NAGAI)[1924-2001][『日本民族・文化の生成』(1988)より改変して引用](以下、敬称略。)

 永井昌文は、1924年5月1日に鹿児島県で生まれました。父親の永井亀彦は、鹿児島県立第一中学校の博物学教師だったそうです。その後、鹿児島県立第一中学校・第七高等学校造士館理科乙類を卒業後、1945年4月に九州帝国大学医学部に入学します。元々は、京都大学理学部を志望していたらしいのですが、兄弟の死去により徴兵されにくい医者を選ぶよう親から懇願されてのことだったそうです。もし、生まれるのが1年遅ければあるいは終戦が1年早まっていれば別の人生を歩んだのかもしれません。
 永井昌文の転機は、すぐに訪れました。九州帝国大学医学部卒業後の1950年に、母校の医学部解剖学教室第2講座で金関丈夫[1897-1983]の助手に就任したのです。金関丈夫は、戦前から戦後にかけて台北帝国大学医学部解剖学教室教授に就任していましたが、1949年8月に内地に引き揚げ、1950年1月に九州大学医学部解剖学教室第2講座教授に就任していました。元々医学部志望ではなく、生物学志望だった永井昌文にとって、人類学や解剖学は魅力的に感じたのでしょう。この頃、永井昌文は師の金関丈夫と共に、発掘調査や生体計測を多く行っています。

 永井昌文が調査した主な遺跡は、以下の通りです。

  • 1953年10月:土井ヶ浜遺跡の第1次発掘調査
  • 1954年3月~4月:琉球波照間島の調査
  • 1954年9月:土井ヶ浜遺跡の第2次発掘調査
  • 1955年7月~8月:九学会奄美調査
  • 1955年9月:土井ヶ浜遺跡の第3次発掘調査
  • 1956年9月~10月:土井ヶ浜遺跡の第4次発掘調査
  • 1957年8月:土井ヶ浜遺跡の第5次発掘調査
  • 1958年8月~9月:広田遺跡の発掘調査
  • 1959年7月~8月:広田遺跡の発掘調査
  • 1961年12月~1962年1月:古浦遺跡の発掘調査
  • 1962年7月:吉母浜遺跡の発掘調査
  • 1962年8月:古浦遺跡の発掘調査
  • 1963年7月~8月:古浦遺跡の発掘調査
  • 1964年6月~7月:九州大学第3次八重山群島学術調査隊隊長として与那国島民の生体計測
  • 1965年3月:立岩堀田遺跡の第3次発掘調査
  • 1965年5月:山鹿貝塚の第2次発掘調査
  • 1968年10月~11月:山鹿貝塚の第3次発掘調査
  • 1970年8月:金隈遺跡の発掘調査
  • 1971年3月:中ノ浜遺跡の発掘調査
  • 1983年10月:土井ヶ浜遺跡の第8次発掘調査
  • 1984年10月:土井ヶ浜遺跡の第9次発掘調査
  • 1985年6月:土井ヶ浜遺跡の第10次発掘調査

 永井昌文は、1956年4月に「琉球波照間島々民の生体学的研究」により、母校の九州大学より医学博士号を取得しました。1956年10月には、金関丈夫の元で九州大学医学部助教授に昇任します。解剖学教室第2講座は、1960年4月に金関丈夫が鳥取大学医学部解剖学教室教授に転出し、1960年6月には山田英智が教授に就任しました。その後、1969年10月に山田英智が東京大学医学部解剖学教室教授に転出し、1970年8月に永井昌文が教授に昇任しています。

 永井昌文の研究は、多くの発掘報告書に掲載されています。主な論文や報告書は、以下の通りです。

  • 永井昌文(1954)「琉球波照間島々民の生体学的研究」『人類学研究』、1:304-322
  • 永井昌文(1961)「古代九州人の風習的抜歯」『福岡医学雑誌』、52(8):554-558
  • 永井昌文(1970)「金隈人骨について」『金隈遺跡第一次調査概報』、pp.26-29
  • 永井昌文(1972)「人骨とその埋蔵状態」『山鹿貝塚』、pp.55-63
  • 永井昌文(1976)「人骨・貝輪」『スダレ遺跡』、pp.38-39
  • 永井昌文(1977)「人骨」『立岩遺蹟』、pp.380-382
  • 永井昌文(1984)「中ノ浜遺跡出土の人骨について」『史跡中ノ浜遺跡』、pp.43-48
  • 金関丈夫・永井昌文・佐野 一(1960)「山口県豊浦郡豊浦町土井ヶ浜遺跡出土弥生式時代人頭骨について」『人類学研究』、7(附):1-36
  • Brace, C. L. & Nagai, M.(1982) Japanese tooth size: Past and present, "American Journal of Physical Anthropology", 59: 399-411
  • 中橋孝博・永井昌文(1985)「山口県下関市吉母浜遺跡出土人骨」『吉母浜遺跡』、pp.154-225
  • 中橋孝博・永井昌文(1986)「保存不良骨の性判定(英文)」『人類学雑誌』、第105漢第3号、pp.289-305
  • 中橋孝博・永井昌文(1987)「福岡県志摩町新町遺跡出土の縄文・弥生移行期の人骨」『新町遺跡』、pp.87-105
  • 中橋孝博・土肥直美・永井昌文(1985)「金隈遺跡出土の弥生時代人骨」『史跡・金隈遺跡』、pp.43-145

 人類学史にも残る、著名な遺跡の発掘報告書を記載していることが特筆されます。また、立岩遺跡や金隈遺跡を発掘した際に、貝製の腕輪に興味をいだき、実験を繰り返してそれが定説であった日本に広く分布するテングニシ製ではなく、南方にしかみられないゴホウラ製であることも突きとめています。博物学の父親の影響を受け、生物学者を目指した解剖学者兼人類学者の見せ所でした。

 永井昌文は、1986年11月2日~3日にかけて開催された、第40回日本人類学会・日本民族学会連合大会では、大会会長を務めました。1988年3月に、九州大学を定年退官すると同年4月には福岡県立看護学校校長に就任しています。また、1993年から1996年にかけて福岡医科歯科技術専門学校校長(現・博多メディカル専門学校)も務めました。

 永井昌文の定年退官時には、定年退官の記念論文集と古人骨資料の集成が掲載された『日本民族・文化の生成』という大著が出版されています。この大著には、師の金関丈夫や永井昌文が長年収集した古人骨の詳細な計測値が部位毎に掲載されており、人類学界に貴重なデータを提供しました。

Kyushuuniv1988_2

『日本民族・文化の生成』表紙(*画像をクリックすると、拡大します。) 

 永井昌文は、2001年10月3日に77年の生涯を閉じました。師の金関丈夫と出会い、古人骨の収集と分析に捧げた一生だと言えるでしょう。2000年の冬には九州大学総合研究博物館の設立祝賀会に車椅子と酸素ボンベという姿で会場に現れ、師の金関丈夫と自らが収集した古人骨が医学部から博物館に移管されることを見届けたことが、弟子の中橋孝博により紹介されています。なお、在職中の弟子として、田中良之・土肥直美・中橋孝博・船越公威等(アイウエオ順)を育てています。

*永井昌文に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 中橋孝博(2002)「永井昌文先生を偲ぶ」『Anhropological Science: Japanese Series』, Vol.110・No.1, pp.5-7
  • 永井昌文教授退官記念論文集刊行会(1988)「Ⅲ.永井昌文教授略年譜・研究業績目録」『日本民族・文化の生成』, pp.845-855

最新の画像もっと見る