牛久城は牛久沼に三方を囲まれた天然の要塞です。もともと沼地だから水攻めも成らず、城側の湖畔は優良な農耕地なので兵糧攻めもまかりならない。水はいくらでもある。沼を船で攻めれば、高台から火矢で狙い撃ちされる。すごい城だったようです。これは本丸に続く城内道。左へカーブしながら上ると本丸の広場へ出ます。
本丸跡です。湖からは30mくらいの標高差になります。
本丸と二の丸の間の空堀。ここに敵が辿りついても、上から矢の雨が降り注ぎます。また登り着いても長槍や煮え湯を浴びせられて上までは辿りつけなかったでしょう。
広い二の丸。本丸の倍以上あります。10000坪くらい。でも出入りできる場所は右上に見えている一箇所だけだったようです。たぶん地下道などで本丸や三の丸に繋がっていたのでしょう。
二の丸から出てくる道。ここしか出入りできない。
腰郭と呼ばれる本丸や二の丸の外の部分。たぶん兵士達のたまり場だったのでしょう。
三の丸へ続く道。
三の丸
三の丸の外には旗本屋敷が・・・^^
お城の図面
図面にある明神塚古墳。
石垣が残っていないから琵琶湖周辺に残る城跡とは様子が違うかもしれないが、この辺りから東北にかけてはこのような山城が多かったようだ。以前は竹が生え茂っていて見通しが悪かったが、市も本格的にこの遺跡を残す気になったようだ。全体像が見えてくると、江戸城の中心部を凌ぐ巨大で堅牢な城郭であったことが見えてくる。ちなみに、この城は関が原の後に江戸幕府によって廃城となったらしい。残しておくには危険な立地だったのかもしれない。ちなみに三方を囲む対岸の龍ヶ崎は伊達政宗の支配地であった。
あちらは牛久城中の枝垂れ桜です。
本丸跡です。湖からは30mくらいの標高差になります。
本丸と二の丸の間の空堀。ここに敵が辿りついても、上から矢の雨が降り注ぎます。また登り着いても長槍や煮え湯を浴びせられて上までは辿りつけなかったでしょう。
広い二の丸。本丸の倍以上あります。10000坪くらい。でも出入りできる場所は右上に見えている一箇所だけだったようです。たぶん地下道などで本丸や三の丸に繋がっていたのでしょう。
二の丸から出てくる道。ここしか出入りできない。
腰郭と呼ばれる本丸や二の丸の外の部分。たぶん兵士達のたまり場だったのでしょう。
三の丸へ続く道。
三の丸
三の丸の外には旗本屋敷が・・・^^
お城の図面
図面にある明神塚古墳。
石垣が残っていないから琵琶湖周辺に残る城跡とは様子が違うかもしれないが、この辺りから東北にかけてはこのような山城が多かったようだ。以前は竹が生え茂っていて見通しが悪かったが、市も本格的にこの遺跡を残す気になったようだ。全体像が見えてくると、江戸城の中心部を凌ぐ巨大で堅牢な城郭であったことが見えてくる。ちなみに、この城は関が原の後に江戸幕府によって廃城となったらしい。残しておくには危険な立地だったのかもしれない。ちなみに三方を囲む対岸の龍ヶ崎は伊達政宗の支配地であった。
あちらは牛久城中の枝垂れ桜です。
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