「はいじょうけつ」と耳にして、それが何を意味するか分かる人はほとんどいないでしょう。
「盃状穴」という文字を見ても、その形状をイメージできる人は少ないはずです。
私は、写真を見て、初めて分かりました。
『岩槻史林』37号(20106)より
写真を見た場所は、浦和にある埼玉県立図書館。
郷土資料室で資料を探している時、ふと手にした『岩槻史林』に「盃状穴」はありました。
「盃状穴」とは、石造物の基礎台に掘り窪められた、さかずきのような穴を意味します。
『岩槻史林』によれば、「盃状穴」の命名者は、考古学者の国分直一氏。
昭和55年、山口県山口市で古墳時代の石棺にある穴を見つけ、「盃状穴」と命名したのだそうです。
形状を比較的正確に表現してはいますが、学者らしい無味乾燥で面白みに欠ける命名です。
『岩槻史林』は「盃状穴」シリーズを3回にわたり掲載、1回目で岩槻には55基の石造物に「盃状穴」があることを報告し、2,3回で若干の追加と春日部、大宮など周辺地域の調査結果を載せています。
他の自治体ではどうなのか、ラックにあるいくつかの紀要をパラパラめくってみたら、ありました。
志木市郷土史研究会の『郷土志木』(2010.1)に井上国夫「話題の石造物の盃状穴について」。
『蕨市立歴史民俗資料館紀要』(2011.3)の堀江清隆「石造物に見られる凹み再考」。
どうやら、埼玉県下では、数年前から「盃状穴」が一部の人たちの間で秘かなブームになってきていたようなのです。
ブームには、乗ってみたい。
それには、実物を見ておかなくては。
と、いうことで、早速、蕨市へ。
堀江氏の「石造物に見られる凹み再考」には、蕨市の凹み石マップがついていたからです。
ところで、堀江氏は「盃状穴」ではなく、「凹み石」と表現しています。
それは「盃状穴」ではカバーできない窪みがあるという 理由からのようです。
その具体例として堀江氏が挙げるのが、三蔵院(蕨市中央2-30)の手水石。
三蔵院の手水石 弘化3年(1846)
このV字型のすじ状の凹みは、盃状穴とは云えないでしょう。
だから私も「盃状穴」ではなく、「凹み」とか「凹み石」、「凹み穴」という言葉を使用することにします。。
もちろん、大半は盃状穴で、その典型例は、三学院(蕨市北町3-2)参道の子育て地蔵の台石。
三学院の子育て地蔵(元禄7年・1694)
大小40個もの穴が穿たれています。
ところで、石で叩いてこんな穴があくものだろうか。
私の、石仏先生K氏に訊いてみました。
K氏は『日本の石仏』に「石を知る」シリーズを連載する石の専門家です。
「石の中で一番硬いのはそこらに転がっている石。長い年月、転がって、転がって磨滅した石の芯だからすごく硬い。そうした石でコツコツ叩けば、こんな穴をあけるのは難しいことではない」という返事でした。
三学院には、台石のような平面だけでなく、垂直面にも凹み穴があります。
三学院の常夜燈(元禄14年・1701)
子育て地蔵前の2基の常夜燈の竿石には、凹みが多数見られます。
問題は、これらの穴を、誰が何の目的で穿ったかということ。
その推論のいくつかは後述しますが、結論的には、目的は不明ということのようです。
堀江氏の報告で、私の目を引いたのが次の一行。
「戸田市、鳩ケ谷市、板橋区、北区などでも同様な凹みがある石造物が残されている」。
この一行に触発されて、板橋区の凹み石を調べてみることにしました。
板橋区在住の石仏フリークとして、当然の反応でしょう。
調べたのは、区内の神社22、寺院21、地蔵堂、不動堂などの堂18、路傍の庚申塔14、馬頭観音9、弁財天2、道標3。
ただし、路傍の庚申塔、馬頭観音は区内に60基以上あるので、半分以下しか調べていません。
うち、凹み石があったのは、神社12、寺院11、堂4、路傍の庚申塔1。
1か所で複数基の凹み石がある寺社もあるので、総基数47。
この報告は、47基の凹みのある石造物の写真がメインです。
論文ではないので、石造物や凹み穴の寸法は、計測していません。
造立年は判明しているものは付記してありますが、大半は不明です。
調査に利用したのは、『いたばしまちあるきマップ』(板橋区くらしと観光課発行)。
『いたばしまちあるきマップ』は「板橋エリア」、「常盤台エリア」、「志村エリア」、「高島平エリア」、「赤塚エリア」の5地域に分かれているので、この報告もエリア別に分けてあります。
板橋区の凹み穴のある石造物
A 板橋エリア
http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27529_4.pdf
(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)
1、観明寺(板橋3-25)
本堂左手前にある宝筐印塔の塔身の下の基礎にかなり大きな凹みがいくつもある。
観明寺の宝筐印塔
凹みが掘られた事由の一つに「子供が野の草花を縁石に置き、道端の石でコツコツ叩きながらままごと遊びをした跡」(『しきふるさと史話』)があるが、この基礎の高さでは、子どもの仕業とは考えにくい。
凹みのある宝筐印塔は、板橋区では、この一例のみ。
2 智清寺(大和町37)
山門を入ると左に石仏群。
智清寺(大和町37)
小屋掛けの2体の地蔵のうち、左の大きな地蔵の台石に椀状の穴がある。
地蔵は8体あるのに、凹みがあるのはこの1体だけ。
理由があるのだろうが、推測の仕様もない。
これは他の寺社の場合も同様です。
本堂脇の墓地への通路左には、木下藤吉郎出世稲荷の幟がはためいている。
その社の脇に転がっている台石のような石造物にも凹みがあります。
木下藤吉郎出世稲荷 社の左に放置されたままの台石状石造物
大小17個の穴がある台石?
これが何か、ご存じの方教えてください。
3 日曜寺(大和町42)
山門前に2基の凹みのある石碑が立っている。
日曜寺(大和町42)
左の1基は、禁制の碑。
禁制碑 (文化11年・1815)
「不許葷辛酒肉入門内」。
真言宗寺院で見かけるのは、珍しい。
その台石に穴がある。
実は、日曜寺は、我が家から100mくらいのご近所さん。
毎日、脇の道を通り、時には境内に入ることもあるのだが、この凹み穴には全く気付かなかった。
注意力散漫といえばそれまでだが、目が向くのは像容であり、刻文であって、台石は無視されるのが普通。
それが証拠に、1979年創刊、143号を重ねる『日本の石仏』でも凹み石の記事は一切見られない。
穴を穿つ行為は、単なる遊びではなく、民間信仰と関わりのあることにちがいありません。
そうした視点からの論及があってもよさそうなのに、とこれは外野からの感想です。
閑話休題。
右の石柱には「開運愛染明王」とある。
標柱・道標(寛政11年・1799)
これは、日曜寺の本尊が愛染明王だからです。
ここにも凹み穴が見られます。
標柱・道標(寛政11年・1799)
面白いのは、これが道標を兼ねていること。
左側面に「是より二丁日曜律寺」と刻されています。
元は旧中山道と愛染通りの角にあったものを昭和30年にここに移築したと『いたばしの金石文』(板橋区教育委員会)にあります。
お経なのか、呪文なのか、歌なのか、そうした言葉を発しながら石を叩く姿が、寺社の門前や境内ではなく、道端でも繰り広げられていたことになります。
4 氷川神社(双葉町43)
この神社もご近所さん。
氷川神社(双葉町43)
某国営テレビの「紅白歌合戦」が終わって、初詣に行くと既に長蛇の列。
年年参拝者が増えているようです。
境内にある4基の庚申塔のうち最も古いものの台座に凹みがある。
庚申塔(宝永7年・1710)
左側面に「右祢りま道」とあるから道標でもあったらしい。
訊いたら旧中山道と練馬道の分岐点にあったとのこと。
日曜寺の標石と同じく道端にあったことになります。
子どもが石を叩いて遊んでいたという古老の話が捨てがたくなる。
この庚申塔の真向かいにある手水石にもお椀穴があります。
手水石(元治元年・1864)
神社の凹みのある石造物としては、手水石が最も多いので、これから続々と登場することになります。
この氷川神社には、手水石が、もう1盤あります。
稲荷社への参道傍らに捨てられたように横たわっている。
寛政4年(1792)
縁は四辺に穴があいている。
水穴には、水ではなく、落ち葉がつまって溢れんばかり。
5 満福寺(中板橋29)
川越街道からちょっと入った場所にある万龍寺は境内がせまく、民家風の建物があるだけ。
万福寺(中板橋29)
門扉を開けて中に入ると右に石仏群。
左から享保3年(1718)、正徳3年(1713)、享保7年(1722)
六地蔵の中の3体の台石に凹み穴がある。
上の2枚は、3体の地蔵の台石と台石をまたいで撮った写真。
土が入り、草が生えて、その上、落ち葉が塞いでいるので分かりにくいが、凹み穴なのです。
B 常盤台エリア
http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27635_2.pdf
1 轡神社(仲町46)
戦前は、近郷近在はもとより全国から参詣者があり賑わったと資料にあるのが、うそみたいなこじんまりとした神社。
轡神社(仲町46)
小児の百日咳に霊験あらたかと云う。
凹みのある石造物にここの狛犬を挙げるのは、問題があるかも知れません。
大正9年(1920)
というのは、穴は開いていないからです。
しかし、穴を埋めたと思われる痕跡はあるのです。
狛犬の台座に見える緑の修理の跡
グリーンに見える個所は、セメントで穴を塞いだ跡ではないか、そう私には見えるのですが。
もし、これが凹み穴だとすれば、重要なヒントが浮かびあがってきます。
建立が大正9年ですから、その頃まで穴を開ける風習が残っていたことになるからです。
轡神社近くの専称院前の小屋掛け地蔵菩薩の台石もあやしい。
専称院前の地蔵(安永8年・1779)
下の写真は、地蔵に向かって左側の台石を上から撮ったもの。
台石の上にべったりとセメト状のものが塗られているようです。
この地蔵は旧川越街道と子易道の分岐点にあったものです。
こういう穿鑿を始めるときりがない。
穴でないものは全て排除したほうがいいのかもしれません。
2 西光寺(大谷口2-3)
凹みのある墓標が、ここ西光寺にある。
西光寺(大谷口2-3) 百観音巡礼塔・墓標(天明元年・1781)
板橋区では、この1基のみ。
ただし、墓標ではあるが、観音百霊場巡礼塔でもあります。
墓標には凹み穴はないというのは、それなりの決りがあったからだろう。
石仏ならなんでも、穴を開けてよいということではなさそうだ。
3 氷川神社(大谷口上町89)
神社の石造物で、凹み穴が多いのは、手水石と力石。
「岩槻の盃状穴」の調査では、全数55基の内、22神社に、手水石13、力石15と、この二つが断然多い。
板橋区は、それほど多くはないが、手水石は6神社に6、1堂に1の計7盤、力石は7神社に7個ある。
大谷口の氷川神社には、手水石と力石の両方に凹みがみられます。
天保8年(1837)
4 長命寺(東山町48)
環七と川越街道の交差点角に寺はある。
墓地への通路右側に石仏群。
その手前3体の地蔵、それぞれの台座に凹みがあります。
地蔵菩薩 (享保5年・1720) 左の地蔵の台石
地蔵菩薩(正徳5年・1715)
地蔵菩薩(宝永8年・1711)
地蔵の銘に「長福寺」とあるので、宝永年間より前に、なんらかの理由で寺名が変更されて「長命寺」になったものと思われます。
5 氷川神社(東新町2-16)
板橋区内には氷川神社が7社ある。
その内の1社。
氷川神社(東新町2-16)
広い境内の片隅にある資料館前に力石が6個。
一番手前の力石に凹みがあるが、やや小さい。
しかし、奥の列の真ん中の石の凹みは明らかです。
E 高島平エリア
http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27637_4.pdf
本来なら次回「凹み穴のある石造物(東京・板橋その2)」に載せるべき「高島平エリア」ですが、その2の容量が大きくなりすぎるようので、変更して、こちらに追加しておきます。
高島平には、寺社はわずか。
凹み石があるのは、蓮根の氷川神社1社だけです。
1 氷川神社(蓮根2-6)
鳥居をくぐると左に石のベンチがある。
江戸時代には何て呼んだのだろうか。
ベンチは、ボコボコと穴が開いていて、いかにも座り心地が悪そう。
御嶽社を祀る溶岩塚には、力石が5個はめ込まれています。
その1個に凹みがあるが、穴は一つだけ。
3盤ある手水石の内、2盤に凹み穴があります。
写真左の手水石には、お椀状穴に加えてすじ状の掘り込みがあります。
高島エリアの凹み穴のある石造物は、これで全部。
「志村エリア」、「赤塚エリア」は次回、12月16日にUPします。
それまで、回り損ねた石造物探索をして、少しでも完成度を高めるつもりです。
参考図書
○岩槻市林NO37(2010.6)
NO38(2011.6)
NO39(2012.6)
○郷土志木39号(2010.1)
○蕨市立歴史民俗資料館紀要(2011.3)
○いたばしの石造文化財その1「庚申塔」(平成7年)
○いたばしの石造文化財その4「石仏」(平成7年)
○いたばしの金石文(昭和60年)
○板橋の史跡を尋ねる(平成14年)
凹み石ですが、「最御崎寺」に行った時にも同様のものを見かけました。そこにある「鐘石」には具体的な伝説が残っていました。それはその石を別の石で叩くとその音が鐘のように響き、地の底(死者や先祖のいる霊界)迄その音が伝わるというものです。
今でも鐘石の上には無数の石が置かれており、その上も盃状穴だらけです。
すくなくとも最御崎寺 の辺りでは直接声をかけられない先祖への情報伝達手段としてとらえられていたようです。
メッセージさせていただきました。
ありがとうございました。