石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-2-

2015-12-04 07:01:19 | 石仏めぐり

町内だから、日曜寺と智清寺は別として、板橋区内で私が足しげく通った寺と云えば、文殊院(仲宿)、東光寺(板橋4)、延命寺(志村2)、安養院(東新2)、乗蓮寺(赤塚5)、松月院(赤塚8)などか。

石仏撮影では、南蔵院(蓮沼町)、長徳寺(大原町)、常楽院(前野町)は外せないが、とりわけ円福寺(西台3)には魅力的な如意輪観音像が数多くおわします。

このブログ「No100石仏のある風景」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/6962990491edd8313e0f1ede19035789

でも書きましたが、私の石仏入門の手引き書は佐久間阿佐緒『東京の石仏』でした。

佐久間氏の石仏の評価ポイントは、彫像としての美しさ、可愛さにあります。

佐久間氏に感化されて、当初、「如意輪観音ミス板橋」探しに熱中したものです。

私が選んだ「如意輪観音ミス板橋」は、円福寺の無縁仏群にいらっしゃいます。

美人というよりは、おきゃんで小生意気な江戸っ娘という風情。

どんな女性だったのか、私の推測を「NO39My石仏ミス板橋」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/d5c117a3e324a4662fc41af6a5d11be6

で展開しています。

生前の彼女を知っていた石工が彫ったものではないか、との私の推測に、そんなことは決してありえないと私の石仏の先生・小松光衛さんが言下に否定されたことが記憶に残っています。

そして、円福寺には、「烏八臼(うはっきゅう)」でも何度か訪れました。

滅多に見ることのない烏八臼墓標が、ここ円福寺には東京都内で最も多くあると云われています。

烏八臼は「ウハッキュウ」と読み、戒名の上に彫られて、罪滅成仏の功徳を与える文字記号ですが、その意味合いははっきりせず、未だに10を超える字義解説があるくらいです。

「NO12謎の烏八臼」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/f2cc6b4f647adf4f93183e423cb0ab6d

をご覧ください。

美人の如意輪観音や烏八臼を探しに何度も円福寺へ行きながらも、そこに板橋区の指定、登録文化財があることに全く気付きませんでした。

昭和58年板橋区指定有形文化財の雲版と昭和60年に板橋区で登録された月待画像板碑。

円福寺へ行って、探すも見当たらない。

清掃中の作業員に訊く。

本堂にあって見られないが、レプリカなら板橋区立郷土資料館にあるとのこと。

早速、赤塚の郷土資料館へ。

板碑と雲版が隣り合って展示されています。

上部の肩左右からの切れ込みがあって、雲の形に似ているから「雲版」と呼ばれるらしい。

説明文を書き写しておく。

明徳二年銘雲版
  明徳二年(1391)青銅製 高さ37.7㎝ 幅35.5㎝ 撞座径(つきざけい)7㎝

 雲版は寺で食事や法要の開始を知らせるために木槌で敲く道具。円福寺の雲版は上部に懸け穴があり、下部中央に連座の撞き座がある。元々は武蔵野国高麗郡所在の寺にあったものと思われる。いつ頃円福寺に伝来したかは不明。この雲版には同寺開基の太田道灌が茶室で使用したとの伝承がある」

もともとは中国の楽器で、役所で人々を呼び集めるために使われたものらしい。日本には、鎌倉時代、禅宗とともに伝えられ、主に禅寺で使われてきたが、浄土宗や日蓮宗、あるいは茶室などでも使われてきたのだそうです。

月待画像板碑は、阿弥陀如来像が浮彫されたもの。

梵字板碑ばかりの中で、仏像線彫画像の板碑は極めて珍しい(とされる)。

線彫りの像はどうにか見えるが、下部の文字は読み取れない。

本来は縦書きなので、横書きは不自然だが、碑文は下記の通り。

                    光明遍照十万世界
 (日)                道秀宮犬女切▢弥
             足机     文明十七年乙巳
 (阿弥陀尊図像)    具      奉月待供養結集
             三前     霜月二十二日
 (月)                道乗弥五郎五郎三郎
                    念仏衆生摂取不捨

 

上部には、右に太陽、左に二十三夜の月が刻まれ、中央に蓮座に乗る阿弥陀如来が線彫されている。来迎の弥陀で、印は上品下生。像の下に燭台と香炉と花瓶を載せた三具足がある。

光明遍照の偈は、「観無量寿経」からのもの。

道秀、宮犬女、切口弥、道乗、弥五郎、五郎三郎の六人は、月待ちの講員。

この碑が造立された文明17年といえば、円福寺の開基者、太田道灌が存命していた。

なお、宮犬女は、女性の名前。

月待というのは、旧暦二十三夜などの晩、講員が月の出るまで念仏をあげ、詩歌を作り、飲食を使、月がのぼると心願の達成を祈る催しで、文明の当時には、太田道灌や連歌師宗祇などもこの会を催した。(『続 平成の遊暦雑記』から)

円福寺には、もう一つ、区指定の文化財がある。

境内に高くそびえる樹齢400年の高野槇。

円福寺が、川越からこの地に移転してきたとき、高野山から移植してきたと云われる霊木。

その霊木の下のケージには、孔雀が2羽いる。

お釈迦さまが蛇に襲われたとき、蛇を食べて助けたのが孔雀だったという仏話に従って飼っているとのこと。

≪続く≫