恐らく誰一人として、今回のテーマに興味を持たないだろう、と思います。
なにしろ、板橋区の特定地域の寺社と石仏めぐり。
これといって価値のある石造物があるわけでもなく、ただひたすら普通でありふれたものばかりなのです。
それなのに何故?
答えは単純、窮余の一策だからです。
これといったテーマが思い浮かばない。
締め切りは迫る。
さあ、困った。
手近ででっち上げるとしたら、近所の石仏巡りしかない。
で、「板橋区の西台、中台の寺社と石仏めぐり」というわけ。
「御用とお急ぎでない方」だけ、お付き合いください。
西台、中台の「台」は、台地のことです。
台地だから、そこよりも低い低地があるわけで、その間には必ず坂がある。
坂道だらけの石仏巡りか、嫌だなと思いながら、東武東上線上板橋駅から東に向って出発。
「上板橋」は、我が青春時代のホームグランド。
大学の寮が、カミイタ(上板)にあった。
寮とは名ばかり、陸軍の軍馬の馬房を改造したバラックで、馬房の間仕切りはそのまま、床板を張って畳を敷いた8畳に4人が入居。
押入れがないから布団は敷きっぱなし。
入寮してひと月ほどしたら、集団赤痢が発生した。
同室の2人が都立豊島病院に隔離入院したが、私ともう一人は罹らなかった。
消毒液の刺激臭で、夜、寝られなかった記憶がある。
今から60年前の事です。
寮の跡地は、現在「平和公園」というとぼけた名前の公園になっています。
平和公園の北側に走るのが富士見通り。
その富士見通りを西に行くと岐路にぶつかり、そこに庚申塔があります。
◇新田前庚申塔(板橋区若木1-7)
新田と云うから、かつては一面の田んぼだったのでしょう。
そんな光景を想像できないほど周囲の景観が激変する中、ひとり庚申塔だけが往時を偲ばせています。
建てたのは、中臺村新田講中拾人。
ちょっと珍しいのは、道標を兼ねていること。
右は西台、左は下練馬方面。
下練馬宿からは「大山道」と呼ばれ、参詣者が往き来するので「道者街道」と呼ばれていました。
岐路を右へ。
環八陸橋を渡り、突き当たりを右折して進むと二股にまた庚申塔がある。
◇耳だれ庚申塔(板橋区西台4-9)
立派な笠つき青面金剛像だったらしいのだが、今はその面影もない。
資料によれば、側面に「嘉永七甲寅年正月 願主 内田弥市右衛門」とあるという。
庚申塔の背後に柄杓が奉納されている。
この庚申さまの効用は中耳炎だそうで、祈って治ると柄杓に穴をあけて奉納するのだとか。
柄杓があるのだから、中耳炎が治った人がいることになる。
≪続く≫
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