石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

12  謎の「烏八臼(ウハッキュウ)」

2011-09-01 09:44:41 | 墓標

今年、73歳。

この歳になると物事に動じなくなる。

感受性が鈍くなってきたからだろうか。

だが、先日は驚いた。

電車で娘にばったり出くわした。

娘といっても、大学生の息子がいるおばさんなのだが。

午後1時ころ、所沢から西武線で池袋に向かっていた。

吊革につかまっている後姿が似ているので、思わず声をかけた。

声をかけられた娘も、こんなところに父親がいるとは思わないから振り向きもしない。

三度めでやっと振り返った。

「え、どうして?」

二人してその奇遇に驚きあった。

 

実は、この日の午前中、もうひとつ、偶然の出会いがあった。

来迎二十五菩薩石像を見るために、武蔵村山市の「滝の入不動」へ行った。

その帰り道、「バス停長円寺」でバスを待つ間、石仏でも見ようかと「長円寺」へ寄ってみた。

        長円寺(武蔵村山市本町3)     「烏八臼」板碑型墓標

ありきたりの曹洞宗寺院だったが、本堂裏の墓地の入り口の3基の墓標を見て驚いた。

その上部に「烏八臼」が刻まれていたからである。

 

漫然と墓地を歩いていて、「烏八臼」に出会う確率は1万分の1よりも小さいだろう。

それほど珍しい出来事なのである。

都内23区を例にとれば、各区に「烏八臼」の墓のある寺は1,2か所。

1区に5基もあれば、多い方なのだ。

1基もない区が8区もある。

「烏八臼」は「ウハッキュウ」と読む。

墓標の戒名の上に「帰真」とか「帰元」などの文字があるが、「烏八臼」も戒名の上に刻まれている。

 

罪滅成仏の功徳を与える文字記号らしいのだが、その意味合いは判然としない。

『日本石仏事典』には9種類の字義が挙げられ、「烏八臼をたずねて」(関口渉)『日本の石仏』NO

115では、なんと19種類もの字義諸説が列挙されている。

そもそもなんで「烏」と「八」と「臼」なのか不明らしいのだから、お手上げである。

「烏八臼」は室町時代から江戸時代中期の墓標で、曹洞宗寺院の墓地に多く見られる。

「烏八臼」に関する江戸期の文献もあるというのに、今に至るも意味不明というのは、不思議なことと言わなければならない。

 「烏八臼」を知ったのは、『日本石仏事典』でだった。

本編ではなく、付録の部に記載されているから、編集部も自信がなかったのだろう。

字義を特定できないのでは、無理からぬことではあるが。

それでも「へえーっ、面白いことがあるんだ」と思った記憶がある。

初めて実物に出会ったのは、今年6月、町田市の「高蔵寺地蔵堂」でだった。

 

    高蔵寺地蔵堂境内             「烏八臼」の墓碑

ガイド本『新多摩石仏散歩』で「烏八臼」の墓標があることを予め知っていたので驚きはしなかったが、「初物」だったので感慨深いものがあった。

2度目は、野田市「宗英寺」墓地で。

 

 宗英寺の「烏八臼」双式板碑型墓標

7月のことだった。

参考ガイド『石仏見学会83「野田市・関宿城下の石仏」』(日本の石仏NO132)では、「烏八臼」に言及していない。

それなのに「烏八臼」墓標と分かったのは、ブログ「お地蔵さんの石仏あれこれ日記」を見ていたから。

「あれこれ日記」のブログ氏は、『日本の石仏』の「石仏の旅」と「石仏見学会」、それに『石仏地図手帖』のコースを歩いて、石仏写真を載せるのだが、「宗英寺」では「烏八臼」の双式板碑の写真を載せてある。

そこに「烏八臼」墓標があると分かっているのに、中々、見つけられない。

あとで気がついたのだが、「高蔵寺地蔵堂」の「烏八臼」は、「烏」が旁だった。

これが「烏八臼」のフオルムだと思い込んでいたようだ。

「宗英寺」の「烏八臼」は縦型で「八臼烏」の組み合わせだったので、見逃していたらしい。

「烏」と「八「と「臼」の組み合わせは、自在に変化するのだということを初めて知った。

そのことを再確認したのは、「大円寺」(東京・文京区)でだった。

4基の墓が並んでいる。

 

  大円寺(文京区)墓地の「烏八臼」墓標

同一家系の墓標で、右から、慶長、五輪塔の次が寛文、左端が延宝に造立されている。

右端の慶長十五年の墓は、「烏八臼」墓標としては都内最古と目されているらしい。

 

  慶長十五年の「烏八臼」墓標

卍の下に縦に「八臼烏」と刻まれている。

ところが寛永と延宝の墓標の「烏八臼」は横型で「烏」が旁に変わっている。

寛文のは「旧」で延宝は「臼」になっている。

 

    寛文期の「烏八臼」        延宝期の「烏八臼」

江戸時代の初期だから、時代風潮は保守的で、先例が重視された。

ましてや墓標である。

恣意な創意工夫は忌避されたはずである。

慶長年間の先祖の墓に「八臼烏」と縦に組み合わせているものを、寛永になって、何故、横型に変えたのであろうか。

推測するのだが、「烏」、「八」、「臼」の三要素があれば、その組み合わせは自由、罪滅成仏の功徳は不変という言い伝えがあったのではないか。

「烏八臼」が不定形記号となった、これが理由である。(と、思う)

 

不定形記号だから、縦型には、「八」の他に「烏」を冠にするものと「臼」を冠にするものがある。

 

   福昌寺(渋谷区)       松林寺(杉並区)

横型では、「烏」が偏になっているのもある。

 

  円福寺(板橋区)

「八」は変わりようがないが、「烏」と「臼」は変幻自在。

いろいろなパターンが見られる。

 

「烏八臼」墓標のある寺は『日本石仏事典』、「ウハッキュウを考える」金子弘『日本の石仏』NO41ほか一連の金子氏の報告、「烏八臼をたずねて」関口渉『日本の石仏』NO115に記載されている。

僕は板橋区民だが、関口氏によれば、都内で「烏八臼」が一番多い地区は板橋区の48基だそうで、これには意表をつかれた。

都内最多寺院として挙げられた「円福寺」には何度も足を運んでいる。

見栄えのする石仏が多いから、ついつい写真を撮りに行くことになる。

たが、「烏八臼」には気付かなかった。

当時は「烏八臼」そのものを知らなかったのだから、無理もないが。

早速、写真フアイルをチェック。

上部に「烏八臼」が刻まれている石仏が確かに2,3点ある。

早速、「円福寺」に行ってみた。

無縁塔に多数の「烏八臼」を確認。

 

 円福寺(板橋区)                

石仏墓標が多いのが特徴か。

庫裏へ行って住職に訊いた。

しかし、「烏八臼については、何も分からない」という返事。

金子氏や関口氏から問い合わせの電話か手紙があったか聞いたが、そういう記憶はないとのこと。

となると、「板橋区では3か所47基」という記載内容は、板橋区のすべての墓地を歩き回った上での結論ということになる。

これはもうとんでもない労苦の産物と言うほかない。

板橋区だけではなく、東京都内は勿論、関東一円の寺院を網羅しているようだから、その調査の具体像は想像することもできない。

ところで、「烏八臼」の所在地については、ある偏った特徴があるようだ。

板橋区では、「円福寺」に44基、同じ赤塚の「上赤塚観音堂」に2基、「松月院」に1基、計47基となっている。

 

赤塚観音堂の「烏八臼」庚申塔(左) 松月院(板橋区)の「烏八臼」墓標(左)

1か所にドンと多数の「烏八臼」が存在し、周囲の2か所に1-2基ずつあるという図式は、板橋区と境界を隣り合わせの戸田市でも見られるのだ。

戸田市では、市の西部、美女木の「妙厳寺」に44基、近くの「安養寺」と「徳養寺」に1-2基ずつあって、板橋区とまったく同じ形になっている。

 

 妙厳寺(戸田市美女木)には44基の「烏八臼」

 

 徳称寺(戸田市美女)の「烏八臼」 安養院(戸田市美女木)の無縁塔

80基もある行田市の「天洲寺」に行った時も、近くの曹洞宗寺院「清善寺」にも寄って探して見た。

案の定、1基あった。

 

「烏八臼」80基の天洲寺(行田市) 清善寺(行田市)の「烏八臼」五輪塔

なぜ、こんなに濃淡があるのか、理由は不明だが、「烏八臼」そのものの全体像が謎に包まれているのだから、仕方がない。

石仏めぐりに、もう一点、注意を払うべき視点ができたようだ。

いつか、続編を書ければいいなと思っている。

 

 

 

 

 

 

 


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