石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

117 東京都板橋区の馬頭観音(1)ー板橋エリアー

2015-12-20 08:14:20 | 馬頭観音

今回(2015年12月後半)は、板橋区の馬頭観音を巡ります。

区内の馬頭観音の数は、約60基。

個人所有で、屋敷内にあるものもあって、全部はもちろん回れませんが・・・

板橋区が無料配布している「いたばしまちあるきマップ」に従って「板橋エリア」、「常盤台エリア」、「志村エリア」、「「赤塚・高島平エリア」の地区ごとに分けて紹介してゆきます。

参考資料は『板橋と馬』。

去年、板橋区立郷土資料館が行った特別展「板橋と馬」のカタログですが、資料写真なども借用します。

それと、板橋区教委『板橋の石造文化財その四 石仏』も。

では、まず、「板橋エリア」から。

◆東光寺(板橋4-13)

どこの寺でも、寺の境内にある馬頭観音の大半は、区画整理や開発によって行き場を失ったもの、と考えてよさそうです。

 『石仏』によれば、これは板橋駅踏切横にあったものだとか。

造立年は不明ですが、文字馬頭観音の大半は明治以降ですから、多分これも同じではないでしょうか。

東光寺にはもう1基あって、こちらは昭和2年造立。

どこにあったものかは判りません。

昭和2年は、まだまだ輸送力のかなりの部分を馬が担っている時代でした。

 

◆路傍(板橋2-58)

享保19年造立の板橋で4番目に古い馬頭観音。

その頃は、ここは往来の激しい通りでした。

「板橋間道」(別名高田道)と旧川越街道とが交差する四辻だったからです。

下は、5年前の写真。

祠の場所だけ、フエンスの外側になっている。

フエンスが出来る前は、馬頭観音をないがしろにする工事関係者糾弾の立て看板があったように記憶する。

そうした地元の人たちの「過激な」行動がなければ、この馬頭観音は廃棄処分されていたかも知れない。

馬頭観音を廃棄しながら、日本の近代都市は拡大してきたのです。 

と、ここまで書いて所用で池袋へ出かけた。

健康のため歩いて。

区役所を過ぎて、ふと四辻の馬頭観音を思い出していつもの場所に寄って見た。

ところが、見当たらないのです。

あきらめて池袋に向かったのですが、どうしても納得がいかない。

再び戻って、今度は探す範囲を広げました。

すると、ありました。

かってあった場所から100mほど東、道路と道路の間、フエンスで囲まれた安全な場所に移されていました。

供花が新しいから商店街の人たちがお参りを欠かさないのでしょう。

◆遍照寺(仲宿40)

板橋と馬と云えば、宿場の継立馬を外すわけにはいかないでしょう。

遍照寺は、その継立馬のつなぎ場でした。

境内に立つ板橋区教委の説明板の一部を紹介します。

境内は、宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬がつながれていた。境内に祀られる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである」

遍照寺は、現在、本堂の新築準備中で、石仏群の場所も移動している。

馬頭観音は4基もある。

馬つなぎ場だったから4基も、と思わせるが、宿場に関係するのは1基だけ、3基は明治のもの。

寛政十年ものの正面には、「天下泰平 国土安全」に「宿内安全」があるのが、いかにも宿場らしい。

台石には「当宿 平尾 馬持中」とある。

板橋宿は、上宿、仲宿、平尾宿に分かれていた。

平尾の地名は、今、「平尾交番」に残るだけ。

石造物としては、日曜寺の石柱とこの馬頭観音に「平尾」があるだけで、貴重品なのです。

文字碑3基のうち、大正2年造立のものは「鹿毛馬 瀬川 外斃馬」と刻されています。

馬頭観音の文字もありません。

瀬川という馬の墓標でしょうか。

馬頭観音と書いてはあるものの、飼い馬の墓であるケースは非常に多いのですが、馬の名前だけの墓標は極めて珍しいと云えます。

なお、説明板の駅馬模型というのは、下の写真。

        板橋区立郷土資料館『板橋と馬』より

遍照寺に保存されていましたが、今では、区立郷土資料館に移されています。

ここで『板橋と馬』から「街道における馬」の一部を転載しておきます。

慶長7年(1602)に中山道で伝馬制が定められ、板橋宿の常備人馬は寛永15年(1638)に50人50疋となりました。伝馬制に伴い、周辺地域も助郷として、人馬の供給の手助けをしております。助郷とは、交通量が多く人馬の支給が困難になった場合に、近隣の村々に出役させることです。そして、街道を行き交う馬には、運ぶ荷物の重さなどで本馬・乗掛・軽尻と呼び名が異なりました。本馬は、人は載せず荷物だけを運び、重さは40貫(1貫=約3キロ)まで、乗掛は、人を一人載せて荷物は20貫、軽尻は、人一人に手荷物5貫目まででした。このように積載重量が規定されていたため、馬が運送している荷物が過重でないかを取り締まる役が設置されます。それが貫目改所です。中山道内では、板橋宿と洗馬宿の2か所に設置され、通行する馬に載せた荷物の重さを検問しました

◆智清寺(大和町37)

本堂に向かって左の石仏群の中にある。

右側面に「祠堂 金三円 建主 鈴木岩次郎」とあるから、どこかで祠に入っていたらしい。

金三円というから、明治以降の造立と見て、差し支えなさそう。

路傍(仲町32 金子方)

金子家の生垣の一部に覆屋をおき、中に馬頭観音を安置している。

砂岩だからか、崩れ方が激しいが、顔が三面あることだけは分かるので、辛うじて馬頭観音だと推測できます。

 


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