石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

117 東京都板橋区の馬頭観音(3)ー常盤台エリアー

2015-12-26 07:11:36 | 馬頭観音

◇路傍(上板橋2-53)

三叉路の道のど真ん中にでんと観音堂が立っている。

車の往来に邪魔になるからと、よくぞ撤去されなかったものだと感心する。

道路の左側は、練馬区。

ここは板橋の西のはずれ。

旧川越街道の下練馬宿から北に入った三叉路で、お堂の中の馬頭観音2基は、いずれも道標を兼ねています。

馬頭観音碑の前に2頭の馬型がある。

身体は農耕馬だが、駆けているようだ。

奥の石碑の右側は、文化十二年(1815)造立で、右側面に「戸田渡しみち」と刻されています。

左は、陰刻の「馬頭観音」文字塔。

右側面に「右いたばし道」、左側面に「左戸田道」とあると資料には載っています。

 

◇路傍(常盤台3-14)

立派な小堂。

馬頭観音は、長年、野ざらしされていたらしい。

像容が崩れている。

元々は常盤台3-1の前野道の角にあったという。

 

 ◇個人敷地内(南常盤台1-26-5河原家)

工事用トラックのミラーの下に見えるのが馬頭観音。

家の改築に合わせて、石仏も造像し直したらしく、真新しい。

持参した『板橋の史跡を訪ねる』(平成14年版)では、「像陽は完全に風化し、右側に『天保八酉八月十七日』左に『河原善右衛門』の文字がかろうじて読める」とある。

同じ資料によれば、加賀藩の死んだ馬の供養に建てられたもので、かつては環七通りに面していたという。

◇個人敷地内(南常盤台2-36 大村家

新しいと云えば、大村家脇の馬頭観音の祠も新しい。

とは云ってもこれは4年前の写真。

祠は新しくても、中の馬頭観音は昔のまま。

明治24年造立の文字碑です。

◇路傍(東山町37)

こちらは、珍しく軍馬の供養塔。

昭和18年(1943)、国策に従い手放した愛馬の霊供養のため、飼主の新井金太郎氏が建てたものです。

◇長命寺(東山町48)

飼い馬の像容は概ね温和な表情と決まっているが、そうでなければ、儀軌とおりの憤怒相であることが普通です。

この像は、寺の境内にあるので、多分、個人の馬の墓ではないでしょう。

にもかかわらず、とびきり柔和な像容。

頭上に「馬」の文字がなければ、馬頭観音とは思えません。

好事家の議論の対象となる一躯です。

◇安養院(東新町2-30)

 安養院は、板橋区きっての名刹。

紅葉が美しいので、これは、おまけカット。

台地の墓地入口に村中から持ち込まれた石造物が群を成している。

持参資料には、馬頭観音は8基あることになっているが、3基しか見当たらない。

納得がいかないまま、3基を紹介します。

造立、安永五年(1776)。

正面に「天下泰平 国土安全」とある。

天下国家のことを託されては、馬頭観音も大変だなあ。

文化元年(1804)造立。

願主に3人の名前がある。

馬と3人の関係が気になる。

自然石に3面の馬頭尊。

嘉永六年(1853)、小野沢権右衛門によって建てられた。

頭でっかちでバランスは悪いが、見ごたえある馬頭観音です。

◇上板橋宿場馬つなぎ場跡(大山町57)

馬頭観音に直接は関係ないが、宿場の馬つなぎ場跡があるので、紹介する。

今は、近隣界隈の人たちから篤い信仰を寄せられている「お福地蔵」は、江戸時代、上板橋宿の馬つなぎ場でした。

◇路傍(大谷口1-16

2基の石塔が打ち捨てられたようにひっそりと肩を寄せ合っている。

ブルーのごみネットの右端下にあるのが、それ。

左が馬頭観音だが、右は何か。

「右あらいやくし道」と彫られているので、道標を兼ねているのは分かるが、板橋教委『石仏』にも載っていないので、不明。

それにしても扱いのずさんさが目立つ。

でも、廃棄されないで存続していることを喜ばなければならないのかもしれない。

◇個人屋敷内(向原1 M家)

M家の屋敷内にあるので、撮影許可をいただこうとインタホーンを押すが、応答がない。

玄関の脇に馬頭観音がおわすので、パチリ。

無許可なので躊躇しながら掲載します。

ごめんなさい。

M家の飼い馬の供養塔ということです。

 

 

 



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