近年、外国人観光客は増える一方だが、彼らの人気スポットの一つが京都の伏見稲荷。
朱色の千本鳥居が強烈な異国情緒を放つらしい。
稲荷神社は全国に展開していて、中にはミニ千本鳥居がある神社もある。
上野公園の花園稲荷神社もその一つ。
千本鳥居ならぬ「百本鳥居」があって、カメラを構える外国人が後を絶たない。
最近は「パワースポット」なる言葉が流行っている。
この花園稲荷は縁結びのパワースポットとして、特に未婚の女性に人気が高いのだそうだ。
絵馬が掛かっている。
定番の「〇〇さんと結婚できますように」が多いが、「運命の人、小泉進次郎さんと結婚できますように」と書いた絵馬がある。
政治家は、大変だな、ってつくづく思う。
英語や中国語、ハングルの絵馬が、外国人観光客の増加を反映している。
神社本殿の前に通路が伸び、その左に鳥居が見える。
鉄柵の扉があるが、中へ入れそうなので、入ってみる。
突き当りの壁に「穴稲荷」の説明板がある。
「正しくは忍岡稲荷と云い花園稲荷の旧跡である。左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ケ岡の狐の住処を失った事をあわれみ一洞を造りその上に祠を建てて祀ったものと云われている」
突き当りの祠が説明された穴稲荷のようだ。
この穴稲荷の洞窟には、もう1か所横穴が掘られていて、ここが奥の院。
鉄柵でふさがれて、中を覗いても暗くて何も見えないが、資料によると石碑が1基、収められているという。
非公開なので誰も見ることはできないのだが、幸い資料が手元にあるので、転載しておく。
「東叡山中、西岸の池の辺、昔、一祠あり、伝えて曰く、稲荷神宮と。ただその跡あり。宮社廃絶す。予、霊夢により、まさに再興せんとしていわく、すなわち巌窟の中に、新たに金銅の神体を納め、かつ宮祠を造り、もつて当山の擁護に擬す。霊神に祈りていわく
天下清平 仏法安寧
諸願如意 永劫妙霊
時承応甲午三年(1654)仲冬十一月吉日 権僧正法印晃海」 (原文は漢文)
古宇田亮宣『上野公園およびその周辺の諸銘碑』より
穴稲荷の中から外を見た風景
花園稲荷神社を出て左へ。
「精養軒」にぶつかるが、そのレストランに向かって左の崖上に「時の鐘」がある。
「花の雲 鐘は上野か浅草か」芭蕉
芭蕉の有名な句の、「上野」の鐘はまさにこの鐘を指す。
実は「上野の鐘」は二つあって、もう一つは寛永寺本堂前にあった。
こちらは法要用の鐘で、幕末の上野戦争で寛永寺が砲火に包まれた時、焼失した。
時の鐘は、2時間おきに時報を告げていたが、今は、朝夕6時と正午の三回、昔ながらの音を響かせている。
鐘の銘は
「東叡山大銅鍾
天明七丁未歳八月(1787)
一切衆生 悉有仏性
如来常在 無有変易」
経文は涅槃経から撰んだ2句。
鐘に近寄れないので、経文や菊花紋の写真はない。
上野公園に大仏があることを知らない人が多い。
しかもその大仏の売り文句は、「顔をなでることができる」。
大仏といえば、誰もが、奈良や鎌倉の大仏を思い浮かべることだろうから、「顔をなでられるって、どういうこと?」といぶかるに違いない。
行ってみれば分かるが、大仏の顔だけがある。
かつてこの地は、越後村上藩主の屋敷だった。
寛永寺草創の直後、藩主は屋敷内に大仏を建立する。
火災や地震で何度も倒壊したが、その都度再建されてきた。
しかし、関東大震災で首が落下した際は、資金が集まらず再建されなかった。
そうこうするうちに昭和15年(1940年)、胴体部分が軍需金属として軍に供出されることになり、結果として、大仏は頭だけを残すことになった。
売店を覗く、と「合格祈願」のお守りだらけ。
「もうこれ以上、落ちることはない」からと、受験生に人気が高いのだそうだが、私には、浪人にしか祈願資格がないように思える。
「もうこれ以上落ちることはない」ということは、一度以上落ちた人の言葉だから。
大仏からの戻り路、お地蔵さんが立っている。
上野公園で唯一のお地蔵さんではないか。
地蔵の背面にも台石にも文字は見られないので、由緒は不明だが、対面の宝篋印塔は、対照的に文字があふれている。
関良雪という新人深い画家の懇願を受けて、彼の死後、この地に宝篋印塔を建て、陀羅尼を安置した経緯が刻されている。
資金提供者に関良雪の妻浄因の名前がある。
珍しいのではないか。
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