石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

95 (番外編)軍産都市板橋の中核、二造(東京第二陸軍造兵廠)跡地を歩く

2015-01-16 07:01:35 | 史跡

石神井川にかかる「板橋」の近くに、行きつけの居酒屋がある。

戦前からの飲み屋で、客は地元の幼馴染ばかり。

よそ者の私は、話の輪に入れず、聞き役に回ることが多い。

先夕、話題が戦後の子供時代のことになった。

「この裏に憲兵隊の宿舎があって、その馬小屋に引揚者が住んでいた」とママ。

ママは、今年80歳。

ママというよりババが似つかわしい。

「今でも路地の入口に当時の門柱があるよ」と云うので、翌日、カメラを持って行って見た。

石柱の表面は不動産会社の看板が貼り付けてあって、「憲兵隊」の文字の有無は不明だが、裏面の性情から察するに、戦前のものと思われる。

  

憲兵隊宿舎があった区域に、それらしき痕跡は、当然のことながら、ない。

今年は、敗戦70周年。

70年も経てば、大抵のものは、姿を変えてしまう。

門柱だけでも残っていることが奇跡なのです。

板橋は、戦前、軍産都市だった。

敗戦後、軍需工場はカメラや時計などの「平和産業」に転じ、一時、陽の目を見たが、やがて斜陽化し、工場跡地はマンション用地となった。

板橋が軍産都市だったのは、東京第二陸軍造兵廠(以下、二造)が板橋にあったからです。

     火工廠板橋火薬製造所

二造は、銃器と火薬の製造所でした。

では、その二造跡地はどうなっているのか、敗戦70年後の今年、その痕跡を探して跡地を歩いてみよう、というのが、今回の趣旨。

石造物は若干あるが石仏は皆無なので、「石仏散歩」の番外編です。

 

二造を知らない人でも、加賀藩下屋敷なら御存じでしょう。

二造の前身・火薬製造所は、その加賀藩下屋敷跡地に、明治9年、開設されました。

①火薬を扱うので緩衝地帯を含めて広い土地が不可欠。

②動力源の水力が豊富にあること。

③水路、陸路ともアクセスに至便なこと。

人家がない広い土地に石神井川が流れる加賀藩下屋敷は、火薬製造の最適地でした。

 

今、「二造」の文字は、2か所で見られます。

うち1か所が、板橋西公園の圧磨機圧輪記念碑横の説明板。

分厚い輪っかが3つついたこの奇妙な機械が、すべてのことの始まりでした。

この圧磨機圧輪は、幕臣澤太郎左衛門がオランダに留学、火薬製造術を習得し、帰国にあたりベルギーより購入したもの。しかし、こと半ばで幕府は倒れ、計画は水泡に帰した。太郎左衛門自身も賊として捕らわれたが、新政府により放免され、この地で石神井川の水力を利用した火薬製造を始めた」。(説明板より)

榎本武揚らと函館で官軍に抵抗したにも拘らず、澤太郎左衛門は死罪を免れました。

そればかりか、政府軍の技術者として迎えられます。

彼の習得した技術が、いかに時代が渇望していたものだったか、ということでしょう。

ここが火薬製造所だったことを物語る石碑が、公園の隅にひっそりと立っています。

「招魂之碑」と刻された、明治35年7月24日の爆発火災事故殉死者の供養塔です。

翌日、7月25日の都新聞の記事。

「●火薬庫の火災(死傷者十数名)
 昨日午前十一時二十分ごろ北豊島郡板橋町大字下板橋なる陸軍火薬製造所製造工場より発火したるが爆発燃質物のみある處なれバその勢ひ凄まじく忽ちにして煉瓦造りの工場二棟と空室一棟とを焼き払ひ死者五名、所在不明一名、重傷者四名、軽傷者十余名を出したり。(中略)技手花出丈七は見当たらず所在不明なるも多分ハ焼死したるものならんと云ふ」。

7月27日の紙面に花出技師の続報あり。

所在不明なりし花出丈七技手は猛火に包まれ逃がるるに道なく構内音無川に首のみ水上に出し全身黒焦げとなりて死し居たりと云ふ」。(*音無川=石神井川)

二造の正門があったと推測される東板橋体育館から西へ。

二造の周囲を時計回りで歩いてみよう。

東板橋体育館の道路の向こう側、特別老人ホーム寿栄園の隣が金沢小学校。

「金沢」小学校は、いわずもがな、加賀藩下屋敷に由来するもの。

この金沢小学校に陸軍の消火栓が残されています。

これは昔の消火栓です。昭和の始め頃につくられました。このあたりは、陸軍第二造兵廠というものがありました。星の印は陸軍のマークで、陸軍の人たちが火事を消すための設備として作ったのがこの消火栓です」(説明板より)

左に東板橋公園、右に加賀ガーデンを見ながら進むと四つ角に出る。

その角に所在無げに立つ鉄柱が、陸軍との境界柱だといわれています。

ボロボロになって、一見木材風だが、触ってみると鉄柱だと分かります。

同じように黄色にペイントした鉄柱があるが、こちらは只の車止め。

この四つ角をまっすぐ進むと50mほどで同じ鉄柱がある。

 右の電柱と塀に挟まれて鉄柱は、肩身狭く、縮こまって、ある。

黄色に塗ってないから見逃しそうだが、同じものだろう。

次の角を右折。

右が加賀2丁目、左、仲宿の間を進む。

右の塀の道路際にずんぐりした石柱がある。

近寄って、しゃがんで見る。

陸軍の軍の上半分までが見える。

ちゃんと全部読める境界石もある。

 

右は御影石。

陸軍まではかろぅじて読めるが・・・。

この辺りが、二造の西の境界線で、右側の古いコンクリート塀の内側の平屋は、将校用住宅だったらしい。

二造の跡地のほとんどは、企業、学校、研究所、公務員宿舎などになっていて、このあたりの個人住宅地は珍しい。

 北園女子会館を左折、道なりに進むと石神井川にぶつかる。

橋名は、御成橋。

将軍が鷹狩りに「御成り」になった橋だからです。

将軍吉宗は、板橋だけでも16回も鷹狩りに御成りになったのだとか。

御成橋ごしに帝京大学病院がそびえたっています。

この界隈は、この10年で激変、すっかり様変わりしました。

御成橋から稲荷台へ。

道の両側に広がる帝京学園の校庭には、今では想像できない「帝京山脈」が東西に走っていたのだとか。

 写真は『加賀五四自治会60周年記念誌』より借用

GHQの旧日本軍の返還施設としての現在地に昭和21年開校した当時「校舎は昔の兵舎を改装したもので、屋根の上を暗く細長くおおっている帝京山脈と呼ばれる土手の松山(造兵廠が人工で造った山)が東西に走り、いくえもあったそうです。北側は建物ごとに土手で囲まれ、多列の建物にはトンネルを通らなければ、行けない状態でした」(帝京中・高教諭 白石洋一『加賀の歴史と自治会60周年の軌跡』より)

 建物と建物をつなぐトンネル(『加賀五四自治会60周年記念誌』より)

緩やかな坂を上ってゆくと「稲荷台」の交差点。

左に、交通量が少ない割には二車線の、広い道路が走っています。

しかも環七にぶつかる手前で行き止まりという不思議な道です。

今度、調べて分かりました。

二造の電気鉄道跡地でした。

製品が火薬なので、蒸気機関車ではなく、電気鉄道だったのです。

二造での製造品を赤羽台の弾薬庫に輸送するための専用軌道でした。

二造跡地で、交通量に比較して立派な道路があったら、鉄道線路跡と思って間違いありません。

稲荷台から道なりに東へ。

東京家政大の手前にあるのは、財務省の官舎。

公務員宿舎が多いのも陸軍造兵廠跡地の特徴です。

下の写真は、昭和23年の東京家政大付属中、高校校舎。

   『加賀五四自治会60周年記念誌』より

兵舎をそっくり利用しているのが分かります。

東京家政大には、二造の赤レンガ建造物が、現在、3棟残されています。

    造形表現学科実習室

 

     生活科学研究室

天井板がなく屋根裏が見えるのは、爆発した場合、屋根が吹き飛ぶ構造になっているからだそうですが、授業中で、中へ入っての撮影はできませんでした。

建物の下の煉瓦が黒っぽいのは、爆発しても崩れない様に硬く焼いてあるから、とは、案内してくれた総務担当者の話。

東京家政大正門を出て、右折、すぐ信号のある十字路にぶつかります。

東方向が下の写真。

     この道路は、廠内電気鉄道軌道跡

手前左右のフェンスの下は埼京線、そこが北区との区境であり、戦前はここから向こうが一造(東京陸軍第一造兵廠)でした。

戦後民間に払い下げられた二造と違って、一造は米軍に接収されたままで、ベトナム戦争盛んなりし頃は、押しかけた全学連と機動隊との衝突で王子キャンプ周辺は騒然としていたものです。

米軍に接収され、自衛隊に引き継がれたため、一造の建造物は、二造に比べて、状態良く保存されています。

一造本部だった中央公園文化センターや銃砲製造所だった、通称「赤レンガ図書館」の区立中央図書館はその典型例です。

 

   一造本部だった中央公園文化センター(北区)

 銃砲製造所跡の北区立中央図書館(赤レンガ図書館)

十字路を南へ坂を下りる。

右は、愛生園。

左は、クリーニングの白洋舎。

反対側に回ると分かりますが、この白洋舎の建物は異様に低い。

車の高さからもその低さが分かります。

これは、一造の建物をそのまま使用しているから。

火薬を取り扱う一造の建物は、地面を掘り下げ、土塁に囲われた形になっていました。

右の茂みが土塁の残骸でしょうか。

隣のアパートの外階段から俯瞰すると、全体の沈み込みが分かります。

 

 隣の「愛世会」にも兵舎が残っています。

白壁なのは、レンガをセメント補強してあるから(と思う)。

周辺に転がっている廃棄物も年代ものが多い。

愛世会といえば、一造の遺構、長いコンクリート壁を撮りたかったが、遅かった。

コンクリート壁は取り壊され、仮のフェンスになっている。

こうして、昔の景色と匂いは、いつの間にか、なにげなく取り壊され、なくなって行くのです。

 

愛世会の前、道路を挟んで石神井川側にある理化学研究所にも、二造の赤レンガがある。

100年近く経っているのだろうが、補修がきちんとなされていて、綻びがない。

理研といえば、去年春、一人の女性研究員が、国民に期待を持たせ、やがて失望させた。

この赤レンガは、そうしたスポットライトとは無縁な研究所のように見える。

だが意外にも、スポットライトが当たった時代があったのです。

日本で最初のサイクロトロンを完成させた仁科芳雄博士が疎開先から移転してきたのが、この赤レンガ。

仁科博士を慕って日参していた湯川秀樹、朝永振一郎両博士もこの赤レンガに研究室を構えます。

二人のノーベル物理学賞受賞者を輩出した研究室が板橋にある!

もっと積極的にPRしたらいいのに、と思うのですが。

 

愛誠病院の前、金沢橋を渡ると右手に加賀公園が見えてきます。

小高くなっているのは、加賀下屋敷の築山だったから。

       築山から金沢橋を見る

下屋敷地図にも「大山」と記されている。

下屋敷の面積は、約22万坪。

江戸最大の大名下屋敷でした。

加賀公園の南i西側にある板谷公園あたりは、兼六園に似せた池泉回遊大名庭園になっていて、大山は庭園を俯瞰して愛でる場所でした。

    昔の回遊庭園跡地の板谷公園

二造の中にありながら江戸時代のままの姿かたちを保ってきた築山ですが、一か所、いかにも二造の跡地らしい遺構があります。

加賀公園西側の小山の中腹にあるレンガの構築物。

その壁の厚さに注目ください。

これが何の遺構なのか、即答できる人は、現在の日本人では、ほぼ皆無でしょう。

傍らの説明板には「弾道検査管(爆速測定管)の標的」と書いてあります。

弾丸を意図的に当てる、その壁だから厚くしてあったのです

精度が要求される銃火器は、品質検査が不可欠です。

試作の段階では、何度も試射が繰り返されます。

ここは、生産工場ではなく、試験場の一部でした。

加賀公園に接して西側には、野口研究所がありますが、フェンス越しにみえる敷地には、一抱えはあるコンクリート製の円管が伸びています。

これが、多分、弾道検査管でしょう。

この弾道検査管から10m南よりに場所を移すと、ここからは、道のような、しかし、道ではない細長い空地が真っ直ぐ西へ延びているのが見えます。

説明板には「電気軌道(トロッコ)線路敷跡」とあります。

このブログでも何回か触れてきた電気軌道ですが、こうした分かりやすい跡地かあるとは。

 西側から見た電気軌道(トロッコ)跡

弾道検査管といい、トロッコ線路跡といい、こうした二造の遺構は野口研究所が意識的に保存しているとしか思えません。

研究所内に入れないので、確かなことは分かりませんが、外から見るだけでも、現在でも使用されている二造建築物がいくつもあることが伺えます。

 ここでクイズ。

「遵」は、なんと読みますか。

遵守の遵だから音読みなら「じゅん」だが、訓だと「したがう」。

野口遵(したがう)氏は、化学肥料で財をなし、昭和16年、私財を投じて野口研究所を横浜に開設します。

ところが昭和20年の敗戦直後、研究所は進駐軍に接収されます。

移転先の候補地が、加賀の現在地でした。

二造の跡地だから、国有地。

大蔵省は、一時使用のレンタルとして、適正な貸付先を模索中でした。

適正な、とは、学校や企業、研究所などで個人住宅は対象外。

手を挙げたのが、野口研究所をはじめ、渡辺学園、理化学研究所、愛世会、資生堂、帝京学園など。

国有地で大蔵省所轄とはいえ、その上に君臨するGHQの許可がなくては、すべてことは始まらない時代。

GHQ宛の二造跡地転用申請書類があるか、東京都公文書館で探してみた。

保存されているマイクロフィルムに、二造の跡地利用に関する文書があった。

しかも大量に。

申請先は、GHQ(総司令部)ではなく、その下部組織の「東京神奈川軍政部東京分遣隊」になっている。

申請書は、東京都渉外部経由で軍政部に提出されたので、英文と和文の2通から成る。

たとえば、野口研究所の申請書はこうだ。

To:Commanding Officer,Yokyo-Kanagawa Military Government District Tokyo Detachment.

Through:Liaison Officer,Tokyo Metroporitan Government.

From:Tokyo Juridical Foudational Person Noguchi Research Institute.

Subject:Application for conversion 0f former military installation.

以下、申請内容は和文を転載。

弊研究所はすでに日本政府から1946年1月18日付を以て一時使用の許可を得ている旧陸軍の第二東京造兵廠板橋製造所の一部の転換をお願ひする。お願ひの理由は下記の通りである。

⑴ 我々は右の施設(主として建物)を我々の本来の事業である化学工業研究のため使用する。
⑵ 右施設は旧造兵廠の化学研究所として建設され使用されて来たものであるからなんらの変更整備を加へるこ
  となく使用することが出来る。
⑶ 我々の研究機関は1943年横浜に開設されたが1946年5月現地連合軍によって接収されたので以来前記場所で
  我々の研究活動を行ってきた。今日に到るまで他に適切な場所を見出すことが出来ない。
⑷ 現在われわれが遂行している研究は我国化学工業の復興に貢献し日本が現在直面している国民生活の危機を
  克服することを目的としている。上記の目的の為我々は以下述べるやうに肥料食料並に輸出品等の研究に特
  別の努力をしている。
  (中略)
我々は少なくとも我々が自分で新しい研究所を建築することが出来るやうな時が来る迄上記の施設をできるだけ長く使用することを必要とする。我々は我々自身の研究用の器具類を所有しているから前と同様に研究を続けることが可能である。すでに造兵廠に属していた機械器具の殆ど全ては賠償の為持ち去られている。

上記のやうな事情を汲まれて何卒我々の申請を認可賜るやうお願ひする。

                  財団法人 野口研究所
                      
常務理事 田代三郎 

和文申請書には日付がないが、英文には「April 26 1947」のスタンプが押してある。

同様な申請は、5月にもなされ、この時には東京都渉外部長による「肥料食品に対する研究は我国現状に鑑み極めて重要なるものである故何卒特別の御詮議を賜りたい」との推薦状が添付されている。

二造跡地に今もある学校、企業、研究所からも同様な申請が相次いで提出され、いずれも許可された。

申請者は旧軍の施設をそのまま使用してきたが、施設や機械はやがて老朽化する。

再開発したいが、国有地のレンタルのままでは難しいからと今度は払下げの要求へ。

同時に緑地帯指定の地目指定変更運動も活発化して、二造跡地は、目を見張るような変容を遂げて現在に至るのです。

   

再び 加賀公園に戻る。

公園の南、板橋5中は、工科学校の跡地です。

 境界石は学校グランドのフェンスと電柱に挟まれてある

5中の南東隅には、「陸軍省」の境界石がある。

ここから東板橋体育館へ行くと、二造の外縁を時計回りに一周してきたことになる。

 

 ≪参考図書≫

〇板橋区教委『写真は語る』平成6年

〇加賀五四自治会『加賀の歴史と自治会60周年の軌跡』平成21年

〇板橋区教委『板橋区域旧軍施設関連文書目録』平成19年

〇佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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