石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

130上野公園の石造物(5)

2017-08-15 08:59:47 | 公園

右に上野大仏、左に時の鐘を見て進む。

突き当りを右折すると眼前に巨大な灯籠が現れる。

「お化け灯籠」です。

高さ約7m、胴回り3.6m。

大きいから「お化け灯籠」というのだが、いや、実際にお化けが出るのだという説もある。

落語家の三遊亭金馬が『うえの春秋』で紹介している説で、落語家らしい語り口を損なわないために、原文をそのまま引き写しておきます。

その頃徳川家へおべっかを使うには、十万石以上の大名でないと石灯籠は納められない。この佐久間さん(佐久間大善享平朝臣勝之)はわずか1万八千石。「そんな民主主義に反する事のあるべきや」と無理をして、その人たちより特別大きいものを納めたので、切腹仰せつけられ、有難くお受けして相果てたが、地獄へ行ってつくづく考えると有り難くない。夜な夜なこの灯籠の影へ化けて出て、通る人をポン引きのような手まねぎをしたので一名「お化け灯籠」。(須賀利夫『うえの春秋』P360)

 

お化け灯籠から左に目を移すと「上野東照宮」の大鳥居が目に入る。

「上野東照宮」は、寛永4年(1627)、藤堂高虎が僧天海と相談して、庶民が参詣できる権現さまをとこの地に創設した。

この大鳥居は、厩橋(高崎)藩主酒井雅楽頭源朝臣忠世が寛永10年に寄進したものだが、左の柱の背面に「奉再建之 享保十九年(1734) 酒井雅楽頭源朝臣忠知」の文字がある。

100年後に大鳥居はなぜ再建されたのか、大河原久弥『上野繁盛史』では、「故あって一時地中に埋められ、再び元の位置に建てられた」としか書いてなく、その理由は不明のままです。

ここで再び登場するのが、三遊亭金馬師匠。

なんと、鳥居は島流しになっていたというのです。

4月17日が東照宮のご命日で、代々の将軍がお成りになった。霊廟の入口の鳥居が十年間佐渡へ島流しになった問題の鳥居で、将軍お成りの前日、この鳥居のツカが落ちた。何か謀反があるのではないかと石屋を取り調べたが証拠はなく、無罪。ではこの鳥居が悪いというので遠島にされ、寛永十年に許されて元のところへ戻ってきた。鳥居を納めた人は、落語「三味線栗毛」で有名な「酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)」。ウタが乗る馬だからと持ち馬を三味線栗毛と名付けた。洒落た殿様である」。須賀利夫『うえの春秋』P360)

私の田舎は佐渡だが、東照宮の鳥居が流されてきた、なんて聞いたことがない。

果たしてそうした史実はあったのだろうか。

 

今回のタイトルは「上野公園の石造物」だが、石造物が沢山あるわけでもなく、石造物以外のものも取り上げてきた。

タイトルに偽りあり、でいささか後ろめたいが、ここ上野東照宮に限っては、胸を張って威張っていられる。

なにしろ石灯籠が280基もあるからです。

この280基もの石灯籠は、三代将軍家光が本殿を造営替えした慶安4年(1651)、全国の大名から寄進されたもの。

竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名、奉納年月日が刻されている。

石灯籠の火袋が黒ずんでいるのは、関東大震災で落ちた火袋を、避難民がかまど代わりにして煮炊きしたからだといわれている。

上野戦争や東京大空襲の戦禍を免れているので、火災の跡でないことは確か。

 

竈代わり説は、信ぴょう性が高そうだ。

石灯籠280基のうち、25基は元々大阪建国寺にあったもの。

大阪に幕府の睨みをきかせるために、天満に東照宮が建てられ、その別当として、建国寺が設けられます。

幕末、徳川嫌いの大阪人により、東照宮と建国寺はめちゃくちゃに荒らされるのですが、その事態に胸を痛めていた有志が石灯籠100基のうち25基を上野東照宮に送ってきたのでした。

池の端からの石段を上がっての参道左に建つ「重建石灯」碑にその経緯が刻されている。

 

石造物ではないが、青銅灯籠も50基ほどある。

奉献は、石灯籠と同じ東照宮社殿落慶の日、慶安4年4月17日。

灯籠だから照明用と思うが、神事、法会を執行するときの浄火を目的とするもの。

上から、宝珠、笠、火袋、中台、竿、基壇と重なっている。

青銅灯籠奉献者は以下の25人。

徳川頼宣(紀州)、徳川頼房(水戸)、徳川光義(尾州)、伊達忠宗(仙台)、松平光通(越前)、池田光仲(因州)、浅野光晟(芸州)、松平民部大輔(防長二州)、藤堂高次(伊勢)、森長継(美作)、細川六麿(肥後)、保科正之(会津)、黒田忠之(筑前)、池田光政(備前)、井伊直孝(近江)、前田利家(加賀)、松平直政(出雲)、松平光長(越後)、島津光久(薩摩)、佐竹義隆(出羽)、蜂須賀忠英(阿波)、有馬忠頼(築後)、上杉実勝(奥州)、松平忠義(土佐)、鍋島勝茂(肥前)

一人、一対で計50基になる。

基壇の獅子が鋳物師によって異なり、面白い。

 

本殿前に絵馬が重なるようにかけられている。

英語あり、ドイツ語あり、中国語あり、国際色豊かだが、日本の神様だからか、外国人も日本語で書く人が多い。

日本語で書いたからからと云って「日本の女子と付き合えるように」という台湾人の願いを権現様は聞き届けてくれるとは思えないが。

 

 参道の行き止まり、本殿前の右側に句碑が3基。

川柳もあるようだ。

手前から

乱世を汲まむ 汲む友あまたあり 三柳

盃を挙げて 天下は廻りもち 周魚

富貴には 遠し年々 牡丹見る 鉄之介

句碑の後ろは、動物園で、五重塔がそびえている。

五重塔は、国の重要文化財。

寛永16年(1639)に建立され、上野戦争、関東大震災、東京大空襲の災禍にもあわず、、江戸初期の建築様式を今に伝えています。

東照宮所属の五重塔は、明治の神仏分離令で破壊される運命にあったものを、当時の宮司の機転で、寛永寺所属として申請、取り壊しを免れます。(現地説明板より)

下の写真は、動物園に入って、撮ったもの。

動物園に五重塔があるとは知らなかった。

知らないといえば、動物園には、この地に下屋敷があり、上野東照宮の別当寒松寺を創建した藤堂竹虎の墓があることは、ほとんど知られていない。

戦争中餓死した動物の慰霊塔の背後にめぐらされた柵の上にちらっと見える五輪塔がそれ。

柵の間から見るとその数の多さに驚く。

周囲が賑やかなだけに、隔離され、忘れられた遺跡の孤立感が際立っている。

動物園を出て、東進すると右手の空き地奥に「グラント将軍植樹碑」がある。

アメリカ大統領を辞めたばかりのグラント将軍は、明治12年(1879)来日した。

ここ上野公園での歓迎会で、将軍は、ローソン檜を、夫人は泰山木を記念に植えた。

約140年後、2本の記念樹は大木となっているというが、植物に無知、無関心の私には、どれがその記念樹なのか、特定できない。

グラント将軍植樹碑を背に北上、大噴水の左の木陰に説明板があって、「寛永寺根本中堂跡」と読める。

江戸時代、言上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一体を、俗に「竹の台」と呼ぶ。

そこには回廊がめぐらされ、勅額門を入ると根本中堂が建っていた。根本中堂は寛永寺の中核的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。(中略)

中堂前両側には、比叡山延暦寺中堂から根分けの竹が植えられ、「竹の台」と呼ばれた。慶応4年(1868)、5月15日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。(台東区教育委員会)」

木立に一人、老人がポツネンと座している。

浮浪者だろうか。

1990年代、この辺りはブルーテントが密集していたのを想い出す。

問題が多発するから行政はテント村を排除したのだが、私はブルーシート村のある上野公園が好きだ。 

 

ボードワン博士像と刻されているが、ボードウインが正しいらしい。

上野公園生みの親としてられている。

上野戦争で荒廃しきった上野山に大学病院建設計画が持ち上がり、現地視察に来たオランダ軍医のボードウイン博士は、病院よりも公園建設を熱心に勧めた。

いまは、イケメンの青年像だが、11年前建て替えられる前は、中年の外国人像だった。

この中年男性は、ボードウイン博士の弟で、建像に用いられた写真が間違っていたのだという。

この話を聞いて、私が不思議でならないのは、「誰がその間違いにきづいたのだろうか」という疑問。

そして、150年前の人物像が兄弟の取り間違えだからと分かって、銅像を建て直す人たちがいることにも驚く。

 

 

 


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