石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物ー5-(船橋市「京成中山駅」-「京成西船橋駅」)

2016-12-01 06:29:22 | 街道

法華経寺の参道から国道14号(千葉街道=成田街道)に出て、左折。

100mも行かないで稲荷神社入口の看板がある。

◇稲荷神社(船橋市本中山1-2-16)

週末の祭礼の準備で氏子が10人ほど忙しそうに動いている。

境内裏の「狐塚」は、大正5年、京成線が船橋まで延長したことで、電車に轢かれて死んだ狐の霊を慰めるものだそうです。

死を悼んでというより、祟りを怖れてのことでしょうか。

柵の向こうに線路が見えます。

◇日蓮宗宝珠山多聞寺(船橋市東中山15-13)

新しい慈母観音以外、これといった石造物はない。

説明板があり、「昔、日蓮聖人が船出をしていった二子ケ浦という由緒ある地に建立された寺」と書いてある。

山門から見下ろすと国道の向こうに池が見える。

しかし、この池は「双子藤の池」で、「双子浦の池」は100mほど東にある。

◇二子浦の池(東中山1-330-2)

柵の向こうは雑草がはびこって、全景は見えないが、大した広さでないことは判る。

日蓮が鎌倉へここから船出をした、というが、現状からは想像もできない。

ここから先は海だったのだろうか。

文化7年(1810)の『葛飾志略』には「昔はここから行徳の堀江村まで渡し舟があり、また鎌倉まで出勤する武士の船路であった」と書かれている。

その鎌倉への船上で、富木常忍は日蓮と会った、ということになります。

◇路傍の庚申塔(東中山1-5)

羽黒神社への道の角に庚申塔が立っている。

庚申塔の右側に「日月は水明の如し」、左に「能く諸の幽明を除く」と刻まれています。

造立は、文政六年(1823)。

台石にいくつもの盃状穴を見つけて、嬉しくなる。

成田街道沿いでは、これが2か所目。(*1か所目は、「126成田街道の石造物ー3-」の胡録神社の項をご覧ください)

◇浄土宗・薬王山東明寺(東中山1-1-8)

門前の石塔に掘られた「行基菩薩作 部田(へた)薬師如来」は、本尊。

墓地に寛文4年(1664)の地蔵墓標がある。

やがて道は、中山競馬場への道と交差する。

交差点を過ぎると葛飾神社が左に。

◇葛飾神社(西船5-3-8)

この神社は、大正5年(1916)、西船6丁目の葛羅の井付近から移転してきた。

移転後の御神体は、熊野大神など3神ですが、移転前は葛羅の井そのものがご神体でした。

道標が2基ある。

1基は「是よりかつしか大明神」と刻んだ角柱。

もう1基は高い円柱で「一郡惣社葛飾大明神道/従是一町余」と刻されています。

この道標は、千葉街道にあったものをここに移転してきたもの。

神社の東隣は、勝間多公園。

◇勝間田公園(西船5-2)

勝間田公園は、その昔、勝間田の池という溜池でした。

昭和44年(1969)、池は埋め立てられますが、公園の隅に池の痕跡を残しています。

句碑と歌碑が1基ずつ。

まず句碑から。

「秋刀魚焼く 羅漢のごとき 吾が貌みよ」。

俳人・田中牛次郎は『千葉日報』の選者。

自然石の歌碑には

「しげやまの尾根をはひゆく
 雲見れば晴れたるかたに
 移りつつあり 松平」

家人・松平公平は、県立船橋高校の教諭。

勝間田公園のすぐ東、京成西船駅に向かう道の三叉路に石造物が囲われてある。

◇路傍の庚申塔と道標(西船4-16-8)

中央の庚申塔は寛政12年(1800)に造立。

台石に「是よりかまかや道」と彫られています。

これは燈籠だろうか。

下に三猿がいるので、庚申塔でもあるようだ。

細長い角柱には「無線電信所道」とあり、大正6年、行田に建てられた無線電信所への道標。

この無線電信所から、真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」が打電されました。

ここから国道14号を離れて、北上、葛羅の井へ。

途中、京成線を渡った先にある宝成寺に立ち寄る。

◇曹洞宗・茂春山宝成(ほうじょう)寺(西船6-2-30)

本堂に向かって左に石造物群。

地蔵立像の手、指が大きい。

地元の石工の作品か。

一方、無縁塔の中央奥に坐す如意輪観音や地蔵は江戸石工の手になるものと思われる。

墓地にある巨大な墓石は、当地栗原地方の藩主成瀬家の墓で、千葉県最大。

宝成寺の「成」は、成瀬からとったものという。

 

宝成寺からさらに北上すると右手の大木の下にあるのが、葛羅の井。

◇葛羅の井(西船6-174-1)

先に取り上げた葛飾神宮は、かつてここにあった。

葛飾大明神の御神体は、遊水池そのもの。

今はまるで個人の庭先にあるかのように見える。

どんな日照りでも枯れず、井戸さらいをすれば必ず雨が降るので「雨乞いの井戸」とも呼ばれました。

寛延2年(1749)の『葛飾記』には、次のように書かれています。

「神社は大社ではない。社地は唐竹の藪である。藪の中に葛の井という井戸があり、この水を飲めば瘧(マラリアの類)はたちどころに癒えるという。また、俗にこの井は、竜宮まで抜け透っているという」。

池の辺にひざ丈くらいの石塔があって、「葛羅之井」と彫られています。

側面の碑文は蜀山人が書いたもの。

原文は漢文だが、書き下し文は次の通り。

「下総の勝鹿(葛飾)、郷は栗原に隷(つ)く、神は瓊杵(にぎ)を祀り、地は醴泉(れいせん)、を出す。豊姫が鑑とする所は、神龍の淵なり。大旱にも涸れず、湛えてこれ円(まどか)なり。名づけて葛羅という。たえざること連綿たり」。

永井荷風が、昭和21年(1946)から市川や八幡に住んでいたことは、先述しましたが、この辺りも荷風の散歩道で、彼が『葛飾土産』でここ葛羅の井を紹介したため、顧みられることなく、放置されていた名所が甦った、と船橋市教委の説明板にはあります。

作家の文章の一行が名所を蘇らす、なんて、昔の作家の影響力の大きさに驚いてしまいます。

次回更新日は、12月06日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 


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