佐渡の天保の一揆は、別名、善兵衛騒動と呼ばれます。
義民中川善兵衛肖像(『近世の羽茂』より)
それほど義民中川善兵衛が、主人公として際立った一揆でした。
羽茂の気比神社に立つ「中川善兵衛追遠碑」は、明治16年の建立。
撰者円山葆(しげる)こと円山溟北は、明治期の佐渡教育会の父と呼ばれた学者。
天保の一揆の時は、江戸で遊学中でしたが、善兵衛と同時代人、碑文の撰者として最適格者だと云えるでしょう。
碑文は、1176字の長文の漢文。
善兵衛を中心に天保の一揆を詳述しています。
今回は、この「中川善兵衛追遠碑」(の書き下し文)をベースに天保の一揆を振り返ります。
「天保之初。海内大飢。吾州最甚。飢餓載路。(天保の初め、海内大いに飢え、吾が州最も甚だし。飢餓路に載(み)つ。)」
すべて事件には、その前兆があり、前史がある。
江戸三大飢饉の一つ、天保の飢饉は、天保4年(1833)から6年間、東北地方を襲った。
凶荒図録より
餓死者が相次ぎ、米価は上がり、各地で一揆や打ち毀しが頻発した。
佐渡も例外ではない。
例外ではないどころか、どこよりも早く、文政12年(1829)には、凶作がはじまっていた。
天保になっても凶作は続き、佐渡奉行所は年貢米を蔵からだして飢える島民に支給します。
これは幕府の意向に反することだったが、民生を安定させる選択肢が他になかったのです。
米価の変動は激しく、莫大な利益を手にした米屋は、値下げ要求に耳を貸さず庶民の怨みを買った。
「是の歳将軍新たに立ち、使を天下に分ちて、民の疾苦を問はしむ。使番木下内記等実に北国を巡視す。上山田村の民中川善兵衛之を聞き、蹶起して曰く、吾将に請ふ所有らんとすと」(以下書き下し文で)
天保9年(1838)、将軍となった徳川家慶は全国に巡見使を派遣する。
巡見使は、諸国の百姓の意見を聞くことが役目で「百姓共訴訟の事も候はば、少しも差控えず、訴状を以て申し出 候ように」(巡見先触れの御書付け)と苦情を申し出ることが推奨された。
HP島根県「巡見使道」より借用
だから中川善兵衛が巡見使に訴状を提出しようとしたのは自然の成り行きでした。
中川善兵衛は羽茂・上山田村の若名主で34歳。
彼は、村山村の神職豊後や畑野村四郎左衛門と相談の上、3月から4月にかけて新穂村や畑野村で場所を変えながら秘密の会合を開き、訴状の内容を協議し、最終的に200か村の調印をまとめます。
ここでちょっと寄り道。
これまで佐渡の義民史というと、舟崎文庫の『佐渡一国騒動記』が底本でした。伊藤治一『佐渡義民伝』や小松辰蔵『佐渡の義民』、田中圭一『天領佐渡』も『佐渡一国騒動記』をベースにしています。しかし、「『佐渡一国騒動記』は軍記本で講談と大差なく真実とは程遠い」と批判する向きが出てきます。『近世の羽茂ー羽茂町史第3巻』がそれ。
『近世羽茂』の執筆者が参考にしたのは、『幕府評定所記録』。取り調べでの善兵衛の発言の記録を重視しようとするものです。
200か村の調印をまとめるまでの会合日時と場所も両者では微妙に異なります。
佐渡一国騒動記 幕府評定所記録
最初の会合 3月8日 新穂山王社 3月15日 八幡村八幡社
二度目の会合 4月12日 瓜生屋大日坊 3月18日 加茂明神
三度目の会合 4月16日 横山村蔵王権現 3月21日 瓜生屋大日堂
四度目の会合 4月17日 後山村本光寺 3月25日 横山村蔵王権現
願書提出場所 新穂村 和泉村 (『近世の羽茂』P741より)
どちらかが捏造したとしても、片方を参考にしたのではないか、それほど 違うようでいて、よく似ている。両者の差異は、江戸での評定所取り調べまで続きます。しかもややこしいのは、このブログのベースにした円山溟北撰「中川善兵衛追遠碑」の内容も、この両者と異なります。石碑なので字数が制限され、省略部分があるにせよ、独自の内容もあって 捨てがたい。私には、どれが史実に即しているか判断する能力はないので、既定方針通り、「追遠碑」をベースにして進めてゆきます。
訴状は18か条からなり、三つに大別されます。
その第一は、税の二重課税の廃止。
例えば(第1条)五斗入り一俵で年貢を納める時、百石につき四石の口米(年貢米納入時に目減りした分を補う付加税)を別納させるのはは二重課税だ、など。
その二は、広恵倉の廃止。(注1)
その三は、奉行所が握っている許認可権を廃止して、他国出しの商売を自由にさせろという要求。
その四は、役人の不正。相変わらず賄賂が横行していると具体例を挙げる。
『佐渡義民伝』や『佐渡の義民』では、巡見使に訴状を手渡すことが、奉行所の役人の妨害で、いかに困難だったか記述されているが、「追遠碑」ではすんなり受け取ってもらえたようです。
北陸街道巡見使行列復元(出雲崎市)
「使者曰く、越訴は事重し、吾の専断するを得るの所に非ず。今姑(しばら)く封書を受けん。」
「明日相川の宿舎にきてくれ。いくつか質問もあるから」と云われ、善兵衛は相川へ行きます。しかし、門番は巡見使に取りつがない。取りつがないどころか、役人たちは善兵衛を逮捕しようとします。
「善兵衛曰く、公未だ情を知らざるのみ、さきに上使、封を受く而して令して使館に来たれと曰う、公焉んぞこれを阻むことを得んと」
この間、巡見使は相川を出発して小木に向かっていた。やっと逮捕を免れた善兵衛は、小木へと巡見使をおいかけます。善兵衛に従って宿舎の門外に集まった百姓たち300人余を、役人たちは道路の両側をふさいで、閉じ込めてしまう。
「黎明、使者、隙を窺ひ、将に船に上がらんとす。善兵衛纜(ともづな)をとりて命を請ふ。纜絶へ、沙に伏して号泣す。舟行くこと飛ぶが如し。幕政は凡そ訴ふる者を聴かず」。
「幕政凡訴者不聴」に撰者の怒りが込められている。
上使の裏切りに落胆し、号泣する善兵衛をさらに追い詰める出来事が・・・
役人が善兵衛を逮捕して相川に押送したのです。
善兵衛逮捕の報は島全体にあっという間に広がり、八幡野に集まった島民はおよそ1万人(『佐渡の義民』では7万)。
興奮した群衆は、相川に八幡野の情勢を通報した八幡村の名主の家を打ち毀します。
「皆謂ふ火を放ちて獄を毀し、善兵衛を奪ひ、贓吏を殺戮せよと。郡吏、正房(佐渡奉行鳥居正房)に説きて曰く、愚民蠢動す、是れ小事に非ず、姑(しばら)く善兵衛を出して之を紓(と)くに如かずと、乃ち放ち出だす」
釈放されて来た善兵衛に、八幡野では歓喜の声がこだまする。
誰ともなく、「奉行所と結託して利益をむさぼり、善兵衛逮捕に協力した小木の問屋は許せない」と声が上がる。
「そうだ、やっちまえ」、賛同する声が四方から飛び交う。
「善兵衛手を揮(ふ)って曰く、是れ乱民なり、敢て行くべからず」。
「手荒な事をすれば願い筋への差しさわりになる。是非止めてほしい」と善兵衛はみんなに懇願する。
しかし、興奮した群衆は善兵衛の頼みにも耳を貸そうとしない。
「お前様には迷惑はかけないから」と一斉に小木にむけて駆け出した。
「遂に隊を結びて四散し、民屋を発(あば)き、使館を毀ち、勢い極めて猖獗す」。
暴徒が向かったのは、大別して3種類。
小木問屋衆と米商人それに一揆に対しての非協力者。
打ち毀された小木の問屋は9軒。
奉行所に取り入り利益をむさぼるばかりか、善兵衛上訴を妨害し、逮捕に協力的だったから、まず一番に狙われた。
HP 八戸市博物館より借用
各村々の米屋も襲撃された。
相次ぐ飢饉での米価高騰は彼らに莫大な利益をもたらした。
前浜から羽茂の7か村9軒の米屋がやられた。
佐渡の天保の一揆が、前の寛延、明和の一揆と違うのは、打ち毀しをともなったことにある。
寛延や明和の一揆は、寛延の越訴、明和の強訴とした方がいいかもしれない。
折しも暴風での高波を避け、小木港に避難していた船300艘。
打ち毀しの惨状を目の当たりにした船頭は、逃げるようにシケの海に漕ぎ出していきます。
佐渡の一揆は、こうして港々に伝わり、かくして「変、江戸に聞こゆ」。
前年、大坂での大塩平八郎の乱は、記憶に新しい。
事件の拡大を怖れた幕府は、篠山佐渡奉行を帰任させるにあたり、高田藩兵500人を同行させ、鎮圧にかかる。
「是に於て、善兵衛再び逮捕に就く。並びに其の党六人、皆獄に下る」
善兵衛とともに逮捕されたのは、村山村の神職・宮岡豊後、上山田村・助左衛門、畑本郷村・四郎左衛門、同・李左衛門、加茂村・半左衛門の5人。
「己亥 江戸に押送す。獄に在ること七日にして、七人皆痩死す。嗚呼 奇怪なるかな」(*宮岡豊後は相川で獄中死)
翌天保10年、裁判を江戸評定所に移すことになり、一同は4月3日、伝馬町に入牢した。
牢屋敷跡地の大安楽寺(小伝馬町)
打ち毀し各所のリーダー12人を含め、百姓18人は4月15日に伝馬町から品川溜りに移され、1週間を経ずしてほぼ全員が病死する。
病死というのは評定所の記録で、「奇怪なる」この連続変死は、巷間、毒殺によるものと云われている。
寛延の一揆では2人、明和の一揆では1人だった義民の犠牲者は、天保の一揆で、一挙に19人を数えた。
しかし、天保11年(1842)、新任佐渡奉行川路聖謨が言い渡した判決では、獄門は善兵衛、死罪は宮岡豊後の2人だけ。
残りは遠島から所払いまで軽重さまざまなれど、その判決を生きて受けた者は一人としていなかった。
役人側は、奉行鳥井正房が御役御免になった。
「奉行正房免に坐す。余は皆無罪と云ふ。甚だしき乎」。
そして、撰者・円山溟北は、かく悼む。
「善兵衛身を以て国に殉(したが)ひ、反って煽動者の誤まる所と為り、徒らに獄中に死す。悲しいかな善兵衛の死、今を距ること殆ど五十年。民の思慕、猶ほ昨日の如し」。
以上、天保の一揆の顛末記は終わり。
参考図書によって、日時と場所、人物がいろいろと食い違い、どれが真実に近いか判断不可能。
今回ベースにした「中川善兵衛追遠碑」の記述も信頼できるかどうかわからない。
そのつもりで読んでいただきたい。
食い違いは細部にあって、大筋では差異は少ない。
だからストーリーは、大体こんなものでしょう。
事件の流れにばかりとらわれて肝心の石碑、石塔をないがしろにしてきた感があるので、話をもとに戻そう。
天保の一揆関連の石碑といえば、中川善兵衛、法名光明院普観長善居士につきるでしょう。
彼の墓は、上山田村の通称「善兵衛平」にある。
覆い屋の下にある供養塔は、天保の一揆から50年後の明治20年に建立された。
中央に、光明院普観長善居士(善兵衛)、右に源保只正(宮岡豊後)、左に指月院稱国茂雄居士(大倉助左衛門)が刻されている。
大倉助左衛門は上山田の人。
訴状を清書しただけなのに、品川溜で「病死」した。
この善兵衛平には、寛延と明和の義民碑もある。
中央に、明和一揆の権大僧都法印憲盛、右に忍誉蓮心居士(太郎右衛門)、左に釈涼敬(椎泊村・弥次右衛門)と寛延の犠牲者二人の供養塔。
天保の一揆の3年前、天保6年建立だから、善兵衛は施主の中心メンバーだったのではないか。
5年後、自ら同じ運命をたどることになろうとは、つゆ思わずに・・・
寛延の太郎右衛門、明和の遍照坊智専、天保の中川善兵衛の3人だと、中央は遍照坊智専が占めるケースが最も多い。
時代順で2番目だからでもあるが、百姓の身代わりになった犠牲者のイメージが強いからだろうか。
寛延の一揆では、義民それぞれの顕彰碑が村にあるが、明和の一揆では、法印憲盛、天保の一揆では、善兵衛の石碑ばかりで、他の義民の供養塔はほとんど見かけない。
天保の一揆では、加茂村の後藤半左衛門の供養碑が例外的な存在。
加茂歌代の開発センターは、その昔、お堂だったのでしょう。
センター前には10数基の石碑が並んでいる
が、玉垣で囲われ、ひときわ手厚く保護されているのが、半左衛門供養塔。
右から2番目、玉垣の中におわすのが「一国義民後藤半左衛門殿碑」
半左衛門の人となりを『佐渡の義民』は次のように述べている。
少し長いが引用しておきます。
「半左衛門に加茂郡一国惣代を依頼すべく訪問した善兵衛は、大小を腰にさして武士に変装、わざと麦畑を踏みつけて歩いた。これを見た半左衛門は『そこを通るは犬か猫か』と叱咤した。『侍に向かって犬猫とは無礼千万』と善兵衛が云うと「百姓が汗水流して作った麦を踏みあるくのは、犬猫同然ではないか」と答えた。『しからば道の草をなぜ刈らぬ。道は道らしくするものだ』との悪罵には『去年からの不作で百姓は生きてゆくのがやっと。道の手入れなどやっていられない。侍の癖に百姓の難儀を知らぬのか、まぬけめ』と怒鳴り返した。善兵衛は感激しながらも『不届きもの、覚悟せよ』と刀に手をかける。少しも恐れることなく『勝手にせよ』とあぐらをかく半左衛門に『半左衛門殿、失礼した』と身分を明かし陳謝して、一国惣代になってくれるよう心から頼んだ」。
江戸の牢中で「病死」した時、半左衛門61歳。死後告げられた罪名は遠島だった。
法名、一以貫通居士。
佐渡の一揆を、(上)寛延の一揆、(中)明和の一揆、(下)天保の一揆と3回に分けて見てきた。
栗野江・城が平の一国義民殿に祀られている義民は、23人。(慶長の一揆は外して)
しかし、何度も言うが、寛延の一揆を例外として、明和、天保の一揆では、法印憲盛と善兵衛以外の義民供養塔は極めて少ない。
では、彼らの名前や戒名はどこにもないかというとそんなことはないのです。
義民合同供養塔とも言うべき石塔にその名が刻されています。
合同とはいえ23人全員ではなく、その人数と人選はバラバラで、村や建立年によって異なっている。
写真フアイルにある義民合同供養塔を並べておきます。
刻されているのは誰なのか、肝心の法名が判読できない碑面が多いので、ここに書き出すつもりだが、縦書きの碑文を横書きにするのは、なんとなく座りが悪い。
そこで、祝勇吉さんの労作『佐渡島内石仏・石塔集大成』から祝さん作成の手書き碑面を写真にして載せておきます。
碑文の右側のフリガナは、祝さんがつけたもの。
〇常信寺(東二宮)
平屋の民家風で見逃すところだった。
背後の墓地で寺だと分かった。
左端に顔を出しているのが、佐渡最高峰の金北山。
ここらあたりが金北山が見える西の限界地点か。
義民合同供養塔を探すが、見つからない。
無住だから訊きたくても人がいない。
困り果てていたら、なんのことはない、墓地の入口に放置されていた。
合同供養塔というので「大きい」と思い込んでいたのが、災いした。
70㎝くらいの自然石で、白いコケがスポットライトのように見える。
参考のために、一国義民殿に祀られている義民26人の名前と法名一覧を載せておく。
◆慶長の義民(慶長8年(1603)
新穂村 半次郎
北方村 豊四郎
羽茂村 勘兵衛(臼井氏)
◆寛延の義民 寛延2年(1749)
A-1 辰巳村 太郎右衛門(本間氏) 「忍誉蓮心居士」宝暦2-7-18
A-2 椎泊村 弥次右衛門(緒方氏) 「釈涼敬」宝暦2-7-18
A-3 椎泊村 七左エ門(本間氏)
A-4 川茂村 弥曽右衛門(風間氏)
A-5 吉岡村 七郎左エ門(永井氏) 「真密院浄戒法子」明和2-4-5
A-6 新保村 佐久右衛門(本間氏) 「浄覚俊明庵主」宝暦9-10-15
A-8 泉村 九兵衛(久保氏) 「即應浄心沙弥」安永8-6-14
◆明和の義民 明和4年(1767)
B-1 長谷村 智専(遍照坊) 「権大僧都法院憲盛」明和7-3-21
B-2 畑野村 文左エ門(熊谷氏)
B-3 畑野村 藤右衛門(本間氏)
B-4 畑野村 六郎右衛門
B-5 小倉村 重左エ門(中村氏)
B-6 小倉村 重次郎(中村氏)
B-7 後山村 助左エ門(羽二生氏)
B-8 舟代村 五郎右衛門(後藤氏)
B-9 瓜生屋村 仲右衛門(本間氏)
◆天保の義民 天保9年(1838)
C-1 上山田村 善兵衛(中川氏) 「光明院普観長善居士」天保10-4-23
C-2 上山田村 助左エ門(大倉氏)「指月院稱国茂雄居士」
C-3 村山村 豊後(宮岡氏) 「源保忠正」天保10-2-24
C-4 畑野村 四郎左衛門(後藤氏) 「一国院園観居士」天保10-4-24
C-5 畑野村 李左衛門(中川氏) 「本有院光栄居士」天保10-5-3
C-6 加茂村 半左衛門(後藤氏) 「一以貫通居士」天保10-8-17
〇地蔵堂(河崎)
晃照寺への坂入口の群碑の中に義民合同供養碑がある。
碑面に8人の法名、台石に8人の名前が刻されている。
〇大光寺(豊田)
境内にも墓地にもない。
諦めて車に乗ろうとしたら、目の前にあった。
寺からちょっと離れて、道に面して、囲いの中に堂々と立っている。
上段横に右から「一国義民」、その下2段上下に7人ずつ14人。
上段中央は、法印憲盛、下段中央は中川善兵衛。
〇地蔵院(滝平)
地蔵院の石仏群は、いい。
参道石段入口に立つ2本の石柱に坐す十一面観音(左)と地蔵(右)が素晴らしい。
その左に並ぶ石仏群の中に私の大好きな3猿庚申塔がある。
義民合同供養塔もこの石仏群の中にある。
上段に4人、下段に各霊位の両脇に5人ずつ10人、計14柱の法名が読める。
上段の指月院稱国英雄居士は、上山田村の大倉助左衛門。
太郎兵衛よりも椎泊村の弥次右衛門が上位にあるのも珍しい。
どんな理由があるのだろうか。
〇阿弥陀堂(山寺)
石碑、石塔を探し求める旅は、私にとって新しい佐渡との出会いの旅でもあります。
車で随分あちらこちら走り回った気がするが、佐渡は奥深い。
まだまだ、初めての土地にぶつかったりします。
山寺もその一つ。
赤泊から東光寺に向かう旧殿様道にあるのだが、今は県道65号真野赤泊線ばかり利用するから、つい初めての道になってしまう。
東光寺から海岸に向けてどんどん下ってゆく。
どこかで訊かないと赤泊に行ってしまうぞ、と車を停める。
運よく、向こうから人が歩いて来る。
「阿弥陀堂はどこですか」と訊いたら「ついてこいっちゃ」。
なんと阿弥陀堂は、運のいいことに、その人の家の後ろにあったのです。
阿弥陀堂への道の右側に宝篋印塔と並んでこれまた大きな供養塔。
最上段に「佐渡 殉国 義民 追慕 之碑」と右から縦書きで2文字ずつ5行。
その下に片岡太郎右衛門と椎泊弥次右衛門、中央に遍照坊智専、左に中川善兵衛の4人の名前。
大きい碑なのに4人だけなのは、その下にそれぞれの略歴があるから。
ちなみに、中川善兵衛の略歴は下記の通り。
「天保ノ変災我州最モ甚シク餓死スル者多シ 上山田村善兵衛意ヲ決シ同志ト計リ宝暦以来ノ時弊十八ケ条ヲ具し幕吏ニ訴フ 遂ニ捕ヘラレテ江戸ニ押送リセラレ天保十年四月二十三日獄に死ス」
「明42年9月建設 山寺郷中外有志者」とあり、珍しく石工名が刻まれている。
「石工 大字滝平 和泉幸吉」
〇養禅寺(赤泊・新保)
山寺から南へ走り出す。
すぐ海岸線に出る。
右折して小木方向へ。
新保の養禅寺にも義民合同供養塔がある。
上段に3人、中段6人、下段5人の計14人の法名が刻されている。
上段は、右から善兵衛、遍照坊智専、椎泊村弥次右衛門の3人。
太郎右衛門ではなく、弥次右衛門であるのが、珍しい。
珍しいと云えば、碑面の右側「天下泰平」の下の「昆虫退散」。
虫供養百万遍念仏を思い出させる4文字です。
そういえばこの地域は今でも百万遍念仏が行われているようです。
供養塔の前に広がっているのは、越佐海峡。
佐渡とはいえ国中ばかり回っていると島であることを忘れてしまう。
久しぶりの海に島であることを再確認。
(注1)広恵倉(こうえそう)は、佐渡奉行所の地役人田中従太郎の建白により設置された。その目的は、①米価が安い時米を買い置き、高い時売って得た利益で貧民を救済する。広恵倉設立のため、百姓も一石52文の出金をする。②とめどなく進行する窮乏化を防ぐには、他国品を買うばかりで、増大する一方の金銀の流出をストップしなければならない。そのためには、他国との交易が不可欠だが、他国商品を特定商人に買わせることによって、他国商人の横暴を抑え、他国商品販売の主導権を佐渡側に奪回しなければならない。
広恵倉は、ほんの初期の間、田中従太郎の理想通りに機能し、運営されるが、やがて島民の期待を裏切るようになる。文政11年(1828)の不作に、奉行所は、広恵倉の米を買って年貢を納めるよう、百姓を指導する。広恵倉があることが、年貢納入を強制することとなった。悪いことに、広恵倉に売った時は、1俵5斗2升入りだったものが、払い米の1俵は4斗6升でしかなかった。百姓たちが怒るのも無理はない。
また、特定商人に他国との交易権を認めたことは、自由に商売することを妨げることになり、不平不満が続出する。
天保一国騒動の判決で、幕府評定所は、二重課税については認めなかったが、広恵倉についてはその機能停止を命じた。以降、広恵倉は、公的金貸し機関と堕して行く。島の商品流通は混迷を深め、他国に販売する商品の規格は崩れ、値段は下落した。佐渡の商品は信用を失い、他国で売れにくくなった。島民の生活は、困窮の度合いを深めていくことになる。(田中圭一『天領佐渡』より丸ごと流用)
≪参考図書≫
〇『近世の羽茂―羽茂町史第3巻ー』羽茂町 平成5年
〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年
〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年
〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985
〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年
〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年
〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年
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