石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

130 上野公園の石造物(8)

2017-09-15 18:54:43 | 公園

「上野公園の石造物」、最終回の今回は、不忍池。

弁天島は、上野公園の中で、とりわけ石碑、石塔が多い。

弁天島に建碑するのは、名所を訪れる多くの人の目を意識してのことで、その目的は今もなお、成立している。

惜しむらくは、外国人が多く、彼らは石碑など見向きもしないこと。

しかし、見向きもしないのは、日本人も同じ。

立ち止まって読む人はほとんどいない。

特に漢文碑は敬遠されるようだ。

江戸時代であれ、明治時代であれ、施主をはじめ建碑の関係者は、碑文が白文でも市井の人に読解されうると考えていたはずである。

彼らに誤算があったとすれば、日本人の国語の読解力の低下がこれほど急速に進むとは思わなかったことだろう。

まるで第三者的な云いようで忸怩たるものがあるが、かく云う私も「読めない」一人。

白文など、まず、読む気が起らない。

もう一つの問題は、顕彰碑の当の「偉人」についての知識がないこと。

その「偉人」の名前を聞いたことも見たこともなければ、碑文を読む気にもならないのは当然だろう。

自らの無知を棚に上げて言い訳するようで、情けないが、これは、私だけではなく、現代人に共通した問題点だと思う。

であるならば、弁天島の白文の顕彰碑を取り上げても無意味だということになる。

ごもっともではあるが、では、白文を読み下し文にしたらどうか。

私には読み下す能力はないので、図書館で資料から探し出してみた。

と、いうことで弁天島の石碑、石塔の巻、スタート。

丁度池の蓮の開花時期で、カメラを向ける人が多い。

橋を渡って弁天島にわたると左右に石造物群が並んでいるのが、見える。

本堂に向かって右側の石碑群に向かう。

順番では2番目になるのだが、まずは「不忍池由来記」から。

由来は裏面に刻されている。

不忍池は忍ヶ丘に連なって都心随一の山水美を誇るばかりでなく、江戸以来相次いで大火大地震大戦などの災禍が起こるたびに避難の場所としても都民に慕われてきた。
大昔の武蔵野に深く食い込んでいた東京湾の入り江がたまたま一部だけ取り残されて、西暦紀元前数世紀ごろからこの池となり13世紀以来今の名で呼ばれるようになった。
1625年江戸幕府が、西の霊場比叡山に対照させて東叡山寛永寺を営むや、開祖慈眼大師天海大僧正はこの池を琵琶湖に見立て、竹生島なぞらえて新島を築かせ弁天堂を建てた。
この景観は江戸名所図絵の圧巻とされたが、20世紀に入ってからは博覧会場、競馬場に利用されて湖畔はますます賑わった。
1943年終戦後の激動期には、池の一部に稲が植えられ不忍田圃の異名がついた。
続いて全面干潟の知識を野球場新設の猛運動などに脅かされたが、上野観光連盟の前身鐘声会や地元有志が、郷土愛に燃え私財を投じて疾走した結果、昔ながらの風致を確保出来たばかりではなく、その上新たに水上音楽堂が設けられ、毎夏の納涼大会に興趣を増した。
なお、1964年アジア最初のオリンピックを結に周辺の文化諸施設も一段と整備され、探勝の外人客が、西独ハンブルグの都心を飾る名勝アルスター湖を連想して激賞するほど、著しく近代化された。

漢文ではないので、転載の必要はないのだが、とりあえず「不忍池」についての知識を得ておくのも有意義かと思って。

「不忍池由来碑」の手前は、「中根半僊(せん)碑」

私は知らないので、ネット検索してみた。

「半僊は、越後高田藩の医師。明治時代に活躍した書家でもあり、不忍池近くに居住していたことから、弁天島に碑を建てることになった」。

全文漢文で、本来なら書き下し文にすべきところだが、そこまでする必要はないと思い、取りやめ。

幕末から明治にかけての、医師であり、書家であることを知れば十分ではないか。

その左隣は「めがね之碑」。

碑の上部センターに丸眼鏡が刻されている。

「徳川家康使用」の日本最初の眼鏡と記されている。

眼鏡がはるかに海を越え、わが日本に渡来したのは、四百二十余年のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増え、文化、政治経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間業界先覚者の研鑽努力により今日の発展を見るに至ったことを回想、明治百年を記念してその功績を顕彰し慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にその碑を建立し感謝の念を新たにするものであります。」

慈眼大師が家康にめがねを紹介したのだろうか。

多分「慈眼」の眼が眼鏡と関係があるから、選んだものと思われる。

なんとも薄弱な建立地理由だ。

 

その左隣の歌碑と「利行碑」は、一対で成立するもの。

歌碑は、長谷川「利行」の歌。

人知れず 朽ちも果つべき身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 川の流れを 光りてすべる 

日本のゴッホとうたわれた長谷川利行は、昭和15年(1940)、三河島駅近くで行倒れ、板橋の養育院に収容された。

この年の10月、利行は胃癌で亡くなるのだが、生前、病院から友人に出したハガキが残っている。これが哀しい。

「養育院第五病室ニ胃癌ノ手術デ居リマス。午前中ニ一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモヨロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル。動けナイノデス)。市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシャウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テクダサイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折クダサイ。死別トシテ」。

ネットには利行の絵も多くアップされている。

うち1点を転載しておく。

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上記の石碑群は、碑面を読むのが、いかにも容易そうだが、実は、露店のテントの後方にあって、接近するのは難しい。

下の写真で白テントの後方に石碑群はある。

本堂に向かって右側の石碑は見終わったので、今度は、左だが、その前に本堂前の琵琶碑を見てみたい。

本堂へ上る階段左、1メートルの石台の上に、高さ2メートルの青銅製琵琶碑が、本堂の軒に接っせんばかりにそびえている。

正面には「献納銅像琵琶干不忍池弁財天女詞縁由」と刻され、台座に「琴三講(山岡鉄舟筆)」とある。

背面は「第二世田中久重鋳造、岡三慶撰文、今井桃門書」と読める。

碑文は、以下の通り。(漢文を読み下し文にしてある)

夫れおもんみれば、大弁天女王菩薩は、一切の智恵、技術、威神等を具足したまい、諸人の請求するところ、しかもみな成就せしむ。あるいは智慧を求むる者には聡明ならしめ、弁財を求むる者には爽利ならしむ。災厄にかかるものには消殄(けしほろぼす)せしむ。貧窮を愁える者には財福を与え、芸術を求むる者には精巧ならしむ。位官をねがう者には尊貴ならしめ、名称を求むる者には帰響せしむ。出離を求むる者には解脱を得しめ、また諸看属を聞持すれば天妓楽を奏す。その所信に来詣すれば常に擁護せらる。ここに某等、父祖の世業に従い、音曲器、常に天女の恩力を蒙ること久し。つとに同業者と協力し、一面の琵琶を祠前に鋳造し、もって天女の洪恩に報ぜんと欲す。今すでに成る。幸いにこれを接受したまい、某同業者および同信者、子孫縄々、家門繁栄、福履円美、しこうして諸災なく、横(かたわら)共に無上正等菩薩を成ぜんことを、至祷、敬って白(もう)す
        明治十九年九月発願 琴三講社 正四位山岡鉄太郎 謹書」

弁財天は技芸の神とは聞いていたが、これほどあらゆる願いを成就させてくれるものとは知らなかった。 

 

 

 


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1 コメント

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昔も読めないのでは? (梶 文彦)
2017-09-22 15:18:08
今は読めない人が多い・・・と書かれていますが、今ほど識字率は高くなかったと思いますし、それなりにあった識字者でも大半の庶民には難しすぎて読めなかったでしょうから、読解力という点では、今も昔も同じような状況ではないでしょうか? 碑で検証されている人も、当時も知られない人とだったと思います。だからこそ、知ってほしいと碑を建てたのではないかと思います。利行の句など、しみじみいいですね。
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