コンニャク閻魔の裏の旧坂を息も絶え絶えに上ると右手に碑はあった。
坂の上から下を臨む
◇三浦梧楼終焉之地碑(小石川2-20)
三浦梧楼なる人物を知らないので、ネット検索。
幕末生まれの長州藩士。明治時代の軍人、政治家だという。
てっきり明治か大正の建碑かと思ったが、なんと昭和57年(1982)の造立だった。
「町会設立への尽力と将軍の遺徳を偲んで」町会が碑を建てたと言うのだが、ピンとこないので、パス。
コンニャク閻魔の源覚寺まで戻り、寺の前から東へ。
白山通りを渡るとすぐ左に興善寺が見える。
◇杉風舎哀翁句碑(西片1-15-6 興善寺)
殺風景な境内の一画に2mを超す高さの句碑がある。
昏がたの空に遊や郭公
杉風舎 哀翁
裏面に
天保七丙甲歳仲春建之
杉山杉風(正保4・1647ー享保17・1732)は、日本橋の魚問屋の二代目で、芭蕉の高弟であり、スポンサー。
『奥の細道』の冒頭の一節、
「住める方は人に譲り杉風が別埜に移るに
草の戸も 墨替るぞと 雛の家」
の杉風の別埜は、採茶庵を指す。
採茶庵跡
深川芭蕉庵も杉風の魚問屋鯉屋の生簀の番屋を芭蕉に提供したものだった。
ところで杉風の号は「哀翁」ではなく、「蓑翁」ではなかったか。
この句碑が建てられたのは、天保七年、杉風が亡くなってから103年後のこと。
その頃は、杉風六世の宗端の時代で、宗端の号は「哀翁」だったことから、この句碑は、初代杉風ではなく、六世宗端のものだと考えられるという説があるのだそうだ。
一方、「哀翁」は芭蕉が杉風に与えた号とする説もある。
大病をして、耳が悪くなり、髪も抜けて、痩せた杉風を見て、芭蕉は「蓑翁」ではなく「哀翁」を別号にしたらどうかと勧めたというのです。
いずれにせよ、杉風の句碑がなぜ興善寺にあるのか、という疑問への答えは、ネット検索では見つけられませんでした。