◇石川啄木歌碑(本郷6-10-12)
歌碑があるかつての大栄館跡地のマンションは、本郷台地の西端にあって、マンションから西を向くと急坂を人々が前傾姿勢で上るのが見える。
マンション前に、歌碑がある。
「石川啄木由縁の宿
東海の小島の
磯の白砂に
我泣きぬれて
蟹とたわむる」
少し前の写真には、この歌碑の傍に、文京区教育委員会による説明板があったようだが、今は見当たらない。
石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)
石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の喜之床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
昭和56年 文京区教育委員会
父のごと秋はいかめし 母のごと秋はなつかし 家持たぬ児に
(明治41年9月14日作・蓋平館で)
石川啄木がここ大栄館(蓋平館)にいたのは、明治41年(1908)から明治42年、22,23歳の頃だった。
大栄館は、新築したばかりで、木の香も匂う崖上の西向きのへやから、富士山が見えるのを喜んだという。
彼は、1年ちょっとの間、3度の引っ越しをしているが、家賃を払えず、滞納したからだった。
引っ越し先がいずれも本郷界隈だったのは、金銭的援助をしてくれた金田一京助ら友人が本郷にいたためと思われる。
今や「啄木学」なる学問があるそうで、その研究によれば、啄木の借金は、今の金にして、約1400万円になるのだとか。
わずか3,4年の借金としては多額だが、その大半は、遊郭通いで消えたと云われている。
朝日新聞に勤めながらも生活苦から逃れられなかったのは、病気がちだったからでもあるが、夜の浅草通いにも原因があったようだ。
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