現代は、情報化社会です。
無数の情報が、目と耳を通して、否応なく入ってきます。
だが、その大半はそのまま通り過ぎて、記憶にのこらない。
通り過ぎないで引っ掛かる情報は、衝撃的な内容であるか、自分の興味関心事であることが多い。
私にとって引っ掛かる情報の一つは、下の写真でした。
石仏めぐりを始めると石仏関連の資料を漁る機会が増えてきます。
すると、時々、この石仏写真にお目にかかることになる。
彫技は稚拙で、まるで素人の作品のようだが、ほのぼのとした温かみがある。
異常に大きい鼻が、ユーモラスな雰囲気を醸し出しているけれど、どんな宗教的意味があるのだろうか。
見る度に、気になっていました。
キャプションには、「鼻の大きな大日さま」と書いてある。
大日さまとは、大日如来のこと。
現つくば市を中心とする常総地方にだけ見られる石仏で、しかも江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)に流行り、すたれたものらしい。
だから「常総・寛永期大日石仏」と規定している人もいる。
流行は、地域的なものと時代的なものとがあるが、それが重なった極めて限定的な珍しい石仏だということになります。
そんな珍しいものならば、是非、見てみたい。
そう思いながらも、何年か、過ぎてしまいました。
灼熱の太陽が翳りを見せた9月下旬、思い切って出かけることにした。
行って、よかった。
そこには、魅惑的な大日ワールドがあったのです。
これは、その大日ワールドのレポートですが、レポートに入る前に確認しておきたいことがあります。
このブログの読者はわずかですが、その大半は私の友人たちです。
地蔵と観音の区別がつかない友人たちですから、大日如来といってもチンプンカンプンに違いない。
だから、簡単な大日如来講座。
大日如来は、弘法大師・空海が信奉した密教の根本尊です。
ややこしいのは、大日如来にはふたつのタイプがあること。
森羅万象を造り出す「智慧」を表す金剛界大日如来と森羅万象をやさしく包み込む「慈悲」を表す胎蔵界大日如来があるのです。
仏像としての、一番大きな違いは、印相(手指の組み方)。
金剛界大日如来は、右手の拳で左手の人差し指を握る智剣印。
一方、胎蔵界大日如来の印相は、法界定印。
組み合わせた4本の指の上で親指の先が触れ合う形です。
今回、私が巡った「鼻の大きな大日さま」は、なぜか、全部、胎蔵界大日如来でした。
では、本編「『鼻の大きな大日さま』日帰りツアー(つくば市)編」 へ。
①東狸穴公会堂(牛久市東狸穴町)
朝8時半、車で到着。
「つくば市と括っておいて、牛久市かよ」と批判の声が上がりそう。
でも、西へ200メートルでつくば市との市境。
大目に見てやってください。
本来なら地図上にピンニングして場所を示すべきなのですが、そんな「高等技術」は持ち合わせていないので、断念。
茨城県と千葉県には、寺や神社跡地を公民館や集会場、研修センターなどに利用する所が多い。
この公会堂は寺院跡か、石仏群がある。
東狸穴公会堂 玄関の向こうに石仏群が見える
その石仏群とはポツンと離れて、敷地の奥に、「鼻の大きな大日さま」がおわします。
石龕(せきがん)のつもりだろう、3枚の石板を組み合わせて大日さまを囲ってあるのだが、バランスが悪くて今にも崩れ落ちそうだ。
肝心の大日さまの像容がはっきりしない。
彫りが浅いせいか、それとも光量不足で暗いためか。
写真でもはっきりしないのは、撮影技術が下手なだけなのですが。
県道143号線に入り、北上する。
②から⑤までは県道沿いに点在しています。
②大井農村集落センター(つくば市大井)
広い敷地の奥の林の茂みの中に「鼻の大きな大日さま」はいらっしゃる。
スロープに横穴を掘り、コンクリート板で囲った石室の中に安置されている。
これは修験道の行者が捨身求菩提(しゃしんくぼて)の行を積むことにより、即身成仏するために土中に入定する形を象徴している、という人もいます。(*1)
浮き彫り石仏の頂上には、線彫りの天蓋がうっすらと見える。
頭上には宝冠ではなく、頭襟(ときん)。
鼻は獅子鼻だが、鼻翼が異常に広がっている。
(よく見えないが)胸に瓔珞、両肘を直角に曲げて法界定印を結んでいます。
問題は、なぜ、鼻が大きいのか。
しかし、この問題は、未だ、未解決のようです。
寺院とは無縁な民間信仰ですから、儀軌など無関係。
鼻が大きくて一向に構わないのですが、大きくなくてはならなかった理由があるはずです。
③熊野神社(つくば市菅間)
大日さまを探すのに、一苦労。
一発で場所を特定できた人がいたら、「エライ!」と褒めてあげたい。
「鼻の大きな大日さま」は、石室で覆われることなく、野ざらしのまま座していらっしゃいます。
正面に木の幹、右前方に五輪塔があり、雑草と竹の葉が石仏の下三分の一を覆い隠していますが、彫りは深く像は明瞭です。
鼻の横幅が異常に広いのが特徴的か。
こうした素朴で、稚拙な彫技だけれど、どこか魅力的な石仏といえば、修那羅山安宮神社の石仏や加西市・羅漢寺の石仏群を思い出します。
修那羅山早宮神社の石仏たち
羅漢寺(加西市)の石仏たち
付和雷同、横並び思想の我が国にあって、こうした突出した個性、オリジナリティはどうして生まれたものなのか、不思議でなりません。
素朴で実直な農民の信仰にかけるほとばしるような思いが、彫技の巧拙を超えて、見る者に迫ってきます。
遥かなる古(いにしえ)の埴輪の持ち味と底流をともにする石造物であるようにも感じます。
④普賢院(つくば市羽成)
山門を入って本堂に向かって左に5基の石造物。
その中央、十九夜塔と馬頭観音文字碑に挟まれて、「鼻の大きな大日さま」がおわします。
近くの雑木林の中の石龕に納められていたものをここに移したのだという。
今は野ざらしだが、像容は明瞭で、右側には「寛永七年」の文字も読める。
18年前の資料でいささか古いのだが、それによれば、茨城県内の寛永期大日如来は
○胎蔵界大日如来 51基(うち鼻の大きなタイプ45基)
○金剛界大日如来 22基(うち鼻の高いタイプ5基)
○大日三尊像(金剛界大日如来、不動明王、隆三世明王) 10基
○種子大日如来 68基
注目すべきは、「鼻の大きな大日さま」は、寛永4年に初出し、寛永8年には終わっていること。(*2)
わずか5年の流行だったと知れば、なぜ、なぜ、なぜ、と疑問は湧くばかりです。
⑤大日塚(つくば市台町)
国道わきの歩道が山なりに盛り上がっている。
その頂点の奥の林に「鼻の大きな大日さま」が座しておられるます。
珍しく「大日如来」の立て看板。
「寛政五年辰戌九月五日」の添え書きも。
今から30年ほど前、地元の石仏愛好家によって「鼻の大きな大日さま」は注目され、世に喧伝されだします。
当時、何人かの人たちが、ばらばらに独自に調査、研究をしていました。
その中の一人、徳原聡行さんは、全くの石仏素人でした。
夏休みの宿題のテーマに「近所の石仏は、どう?」と子どもにアドバイス、一緒に回っている時に「鼻の大きな大日さま」に出会ったといいます。
子どもの宿題が終わった後も、徳原さんは調査、研究を熱心に続け『常総・寛永期の大日石仏』を刊行するまでになります。
ここ大日塚の石仏は、徳原さんが、子供と一緒に初めて出会った「鼻の大きな大日さま」でした。
石仏の向こうに4本の柱が所在なさげに立っています。
その中央には、平たい岩。
何か宗教行事の場なんだろうか。
市の教育委員会に訊いて見た。
かつてここには小さな社があったが、3.11地震で崩壊し、柱だけが残ったという返答でした。
「鼻の大きな大日さま」も倒れたはずだと云う。
と、なると誰かが立てなおしたことになる。
供えものの湯のみやペットボトルが多い。
今なお、信奉者がいるということだろうか。
時計を見たら12時10分。
大日塚近くの中華料理店で昼食。
午後は県道143号線から離れて、昼食をとった楼外楼横の道を北上します。
左に並行する形で谷田川が流れているのですが、ほとんど見えません。
⑥鹿島神社(つくば市小白硲)
急な石段を上ると正面に社殿。
その右横の大木の根元に、今にも崩れそうな石室。
中に原型をとどめない「鼻の大きな大日さま」がおわす。
エプロン状のグリーンは、コケだろう。
資料によると「鼻の大きな大日さま」の石材は黒雲母片岩だそうだが、この大日さまは違うのだろうか。
「大日如来」と刻す石碑が真新しいだけに、石仏との対比の落差が激しい。
⑦鹿島神社(大白硲)
鳥居の右にきっちりコンクリート材で組んだ石室がある。
保存体制はしっかりしているのだが、「鼻の大きな大日さま」の像一面にドロが塗られていて、像容がはっきり見えない。
悪質ないたずらです。
昭和初期まで、石室の前で村人たちは念仏をあげていたと言われています。
当時、石室の前はむしろが垂れ下がっていて中が見えないようになっていた。
「中をのぞくと夜うなされる」と子どもは大人に脅されたという。
のぞいただけでうなされるのだから、ドロなんか塗ったりすれば、ただでは済まないだろう。
ドロ塗り犯人の事後報告を、是非、聞いてみたいものだ。
北上してきた進路を、ここで東に転換。
県道19号と国道408号の中間の島を目指す。
⑧稲荷神社(つくば市島)
3.11地震の影響は、⑤大日塚で見てきたが、それでも「鼻の大きな大日さま」は、立て直されていた。
だが、ここ稲荷神社では、倒れた当時のまま、放置されています。
お陰で、大日さまが座している蓮華座とその下の鋸紋模様がよく見られはするのですが。
仰向けに横たわる大日さまのお顔は、悲しみに満ちているように私には見えます。
⑨研修センター(つくば市西岡)
研修センターの奥に5基の石造物。
中央が「鼻の大きな大日さま」。
他の場所でもそうだが、中央に位置して当然と村人たちは思っているようだ。
保存状態がいい。
右側の「寛永八年」の文字や上部の天蓋、下部の鋸歯模様がよく見える。
しかし、日月は見えない。
資料によれば、「鼻の大きな大日さま」は、造立時の早い順から並べると24番までは、みな、日月が上部に刻されているという。
ところが、寛永六年(1629)2月から、突然、日月は消えてしまうのだそうだ。(*2)
この大日さまは、寛永八年だから、日月はないということになる。
⑩般若寺(土浦市宍塚)
最後に、つくば市を離れて、今度は土浦市へ。
般若寺の本堂右手、鐘楼のある一角に、ひときわ大きな「鼻の大きな大日さま」がゆったりと座していらっしゃる。
これまで見てきた9基の「鼻の大きな大日さま」の高さは、おしなべて60㎝-80㎝だった。
それに比べて、ここの大日さまは139㎝とほぼ倍の大きさ。
日月もある。
刻字は読めないが、資料には「寛永五年辰戌拾一月十五日」とある。
あと3カ月すると、日月はなくなるのだから、入れるべきかどうか、激論があったのではなかろうか。
これも資料からだが、「奉御湯殿山参詣」とも刻字されているとのこと。
「鼻の大きな大日さま」は湯殿山信仰と深い関わりがあると考えられているらしいのだが、これはその関係を物語る文字と言えるのかも知れない。
時刻は午後4時。
雨が降り出したので引き揚げることに。
途中、大日さまとは無関係な寺社にも立ち寄って、石仏を撮ったため少し遅くなった。
「鼻の大きな大日さま」だけなら、もっと短時間に回れるはずです。
持参した資料やガイドは、30年前から20年前のもの。
その後の新しい発見や解明された謎などについては、まったく知らないので、今になればトンチンカンなことを書いているかもしれません。
今後、新しいデータを入手したら、随時、書きなおして行くつもりです。
わずか10基の「鼻の大きな大日さま」を駆け足で巡っただけですが、最後まで残った疑問は「もしかしたら、同一石工の作品ではないか」というもの。
狭い範囲で5年間という限られた期間なら、同一石工もありうるのではないか、専門家の意見を聞いてみたいものです。
参考文献
「茨城県谷田部町周辺の胎蔵界大日石仏」佐藤不二也(『日本の石仏』17号、1981.3)
「筑波地方の大日と子安信仰」(『日本の石仏』21号、1982.3)
「茨城県南西部の石仏」佐藤不二也(『日本の石仏』64号、1992.12)
「筑波山麓に観る十界修行の大日如来」山本力(『日本の石仏』73号、1995.3)*1
「寛永の大日石仏を追って十五年」徳原聡行(『日本の石仏』73号、1995.3)*2
石仏に特化した貴重なblogさんです。ありがとうございます。
鼻を主張しているのは暗にスサノオ命を表しているのではないでしょうか。熊野神社におわすのを拝見して確信のように感じました。
これらの大日如来像は鼻が大きいというのが大きな特徴ですが、それ以前に失礼ながら像そのものがやや稚拙な印象を受けるという大きな特徴から見て、石仏を彫る専門家の手ではないと思うのです。
他にも大日以外の像もあります。
共通点は同じ種類の石で板碑状であること、さらにかなりの割合で別の石で囲ってあったり穴の中にあるものが多く、これは古墳の石室に関係があるものと思うのです。
盗掘された古墳の石室を再現しているのではないかと考えています。
ちなみにこの石仏群の中には見たり触ったりすると祟られると言われるものもあります。仏様なのに見てはいけないというのは盗掘への謝罪的な意味を感じます。