今年の夏は、暑かった。
今、74歳。
ギラギラ照りつける太陽にひるんで、外出しなかった。
9月に入っても、気温は下がらない。
外出しないから、更新日が近付くけれどブログに載せる材料がない。
仕方ないから保存フアイルから材料を探すことにした。
選び出したのは、上の一枚。
石仏墓標の如意輪観音像。
私が秘かに「石仏ミス板橋」と呼んでいる美人だ。
彼女の居場所は、板橋区西台の「円福寺」。
「円福寺」は太田道灌開基の曹洞宗寺院です。
本堂に向かって左の通路わきの無縁仏群の中に彼女はいます。
最下段、前列右端が「ミス板橋」
身長50㎝、横幅28㎝。
耐久性に優れた小松石らしく、つい最近彫ったかのような保存状態。
まどろんでいるのか、思案中なのか、眼は閉じてはいるけれど、はちきれんばかりの若さがにじみ出ている。
ほとばしる若さを内に秘めて、その秘めた重さにじっと耐える、そんな風情があります。
柔らかいけれど、弾力ある頬。
石であることを忘れさせる皮膚感。
指で突けば、プクンと跳ね返ってきそう。
鼻筋の通った太い鼻。
意志が強そうです。
今にもしゃべりだしそうなおちょぼ口。
子どもの頃は、さぞやおしゃまでお転婆で、口をとがらせて大人をやりこめたに違いない。
なでやかな肩の線に、彼女の優しさを感じます。
頭の宝冠と額の白毫相を除けば、現代少女の彫像としても通用しそうです。
かぎりなく写実的で、かぎりなく美しく、かぎりなく安らかな・・・
大量生産品なので、類型的な像容が多い墓石仏ですが、中には造形の技を超えて見る者を魅惑する作品があります。
これは、その典型例でしょう。
彼女の命日は、享保19年12月18日。
江戸の石仏墓標は、元禄から享保年間にかけて、ひとつのピークを迎えます。
それは武門社会から町人経済社会へと江戸の町が変わって行くのと軌を一にするものでした。
江戸時代、墓には、身分制による厳しい不文律があった。
武家の墓は台石の上に石塔、石碑が立つ墓でしたが、町民の墓は地面に直か建ての一石墓しか許されなかったのです。
武家の墓 大円寺(文京区)
金持ちの町民たちは考える。
一石墓で武家墓を凌ぐにはどうするか。
仏像を彫った細工墓が、かくして流行することになるのです。
墓標仏として選ばれたのは、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、地蔵菩薩、観音菩薩など。
釈迦如来 宗慶寺(文京区) 阿弥陀如来 西門寺(足立区)
大日如来 円乗院(さいたま市) 地蔵菩薩 不動院(足立区)
聖観音菩薩 大秀寺(葛飾区)
女性の墓には観音さまが多いのですが、とりわけ人気があったのが如意輪観音でした。
円福寺(板橋区)
本来、仏様は中性的であるはずですが、、如意輪観音の姿態は女性的で、そこが好まれたのでしょうか。
女性が集う十九夜塔の主尊が如意輪観音であることも同じ理由でしょう。
女性的な造形であるだけに、墓石仏は、故人の面影が偲ばれがちで、哀切感がまつわりつくことになります。
では、彼女はどんな女性だったのか。
戒名は「妙寥禅定尼」。
同じ無縁仏群の中に、同一石工の手になると思われる享保19年の如意輪観音像がありますが、こちらは「理音智聲信女」。
曹洞宗の戒名としては、「禅定尼」は「信女」より位が高く、江戸時代では武家か武家に出入りしていた町人で、寺に多大な寄進をした旦那とその係累に許された位号でした。
信心深いことも要件の一つ。
江戸時代の板橋地方は、天領、大名領、旗本領、寺領が複雑に入り組んでいました。
西台は、天領でした。
米と野菜畑の純農村。
西台の代官屋敷に出入りする名主かその係累が、彼女の生家だったと思われます。
本来、仏には眉がない。
ですから石仏からこんなことを類推するのは邪道なのですが、彼女には黒々とした眉があるように見えます。
引き眉(眉を剃る)でないということは、未婚の16,17歳の女性を意味します。
記録では、享保18年、19年と疫病が猛威をふるったとあります。
疱瘡(天然痘)にかかって死亡したのか。
あるいは麻疹(はしか)が悪化して老咳(結核)になったのでしょうか。
戒名に「寥」の文字があります。
若い娘の前に洋々とと広がっていた未来が、思いがけない病で、突然、閉じてしまう。
残された親の切なく、侘しい心が「寥」に込められているように思えます。
当時、石仏墓標は全部既製品でした。
同一石工の作品と思われる2体は、顔を除いてほぼ似通っています。
「円福寺」に出入りの石屋が、たまたま亡くなった娘を知っていて、既製品の顔を彫り直した。
肖像があまりに似ているので、両親は驚いた。
私の想像は、膨らむばかりです。
美人というよりも、顔立ちのはっきりした、しゃしゃきした物言いの、17歳の名主の娘。
おきゃんで、おしゃまな小娘から脱皮したばかりの小粋で、信心深い若い女性でもあります。
私が、「石仏のミス板橋」と勝手に認定する女性像は、まとめれば、こんなところでしょうか。
愛嬌はこぼれてへらぬ宝也
(こぼれるばかりの愛嬌は、いくら振りまいても減ることのない娘の宝)
うちわではにくらしい程たたかれず
(夏の夕、ひやかす男をうちわでたたいて怒ってみせる娘は猫にしゃべる)
くどかれて娘は猫にものを言い
(「いやだねえ、三毛、こんな人」。恥じらいが清らかな媚態になっている)
抱いた子にたたかせてみる惚れた人
子をだけば男にものが言い安し
(面と向かっては何も言えなくても近所の子を抱いていれば気がおおきくなる、が)
借りた子に乳(ち)をさがされてちぢむなり
そうした娘にも好きな男ができる。
白状をむすめは乳母にしてもらひ
(好いた男のことなど親に話せない。お嬢様の窮状を救うのは、百戦錬磨の乳母)
そして、めでたく縁談へと。
はだかでといへば娘はをかしがり
(「支度はいらないからはだかで来て」と仲人。「はだか」という言葉に過敏に反応する若い娘の羞恥心が初々しい)
柳樽ちいさい恋はけちらかし
(柳樽は結納に贈る酒樽。あれやこれや、ままごとじみた恋もあったけれど・・・)
「石仏ミス板橋」もこうした道を歩むはずだった。だが、病がすべてを狂わせた。
死んでから親は添わせてやりたがり
今は、墓石仏として「円福寺」におわすのだが、なにしろ曹洞宗寺院だから
あいそうのわるい石碑を禅は建て
(酒気帯びで寺へ入ってはいかんと「不許葷酒入山門」の石碑が門前に立っている)
円福寺山門前
私は今、某カルチャーセンターの「石仏めぐり」の講座を受講しています。
その講師のKさんは、日本石仏協会の古参幹部で板橋の歴史にも詳しい専門家です。
「石仏ミス板橋」の人物像のヒントを得たいと思い、時間を割いてもらいお会いしました。
Kさんは穏やかな人柄ですから、頭から拒絶するなどということはないのですが、私の求めにやんわりとNOと云うのです。
「石仏に魅せられたからと云って、抒情的な情念で石仏との交流を図ろうとする石仏愛好家が多いけれど、史実を無視したそうしたアプローチは無意味だからやめたほうがいい」。
「石仏に故人の面影を探すなんていうことは、徒労だ。大量生産の既製品の石仏に特定の個人の肖像があるはずがない」。
「あなたは、円福寺に出入りの石屋がたまたま名主の娘を知っていたからと想像するけれど、当時、この広い板橋に石屋はたった3軒しかなかった。蕨の石屋が板橋に入り込んでいたぐらいで、石屋が故人を知っていたなどと想像するのには無理がある」。
正しい意見に反論の余地はありません。
ありがたい助言に謝意を表して別れました。
にもかかわらず、このブログ「My石仏ミス板橋」を書いたのは、急きょ変更して締め切りに間に合う他のテーマが見当たらなかったからです。
だから、せめてタイトルを変えたい。
「妄想?!My石仏ミス板橋」。
川柳は『江戸川柳を楽しむ』神田忙人・朝日選書より
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