石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-3-

2015-12-08 04:32:48 | 石仏めぐり

円福寺の塀沿いに徳丸方向へ。

最初の道を右へ下ると法蔵庵に着く。

谷越えに円福寺が見える。

◇法蔵庵(板橋区西台3-35)

無住の寺のようだが、資料によると昔から円福寺持ちだという。

門前に六地蔵(造立享保6年ー14年)と青面金剛庚申塔。

正徳6年(1716)造立の青面金剛は彫りが深く、日月、二鶏、三猿がくっきり。

足下の鬼の尻の割れ目が生々しい。

右側に「武州豊嶋郡西台郷田端村講中」とある。

法蔵庵から緩やかな坂道を下ってゆくと右に急な石段があり、その上に京徳観音堂がある。

◇京徳観音堂(板橋区西台3-53-26)

「京徳」とは優美だが、この辺りの小字名だったとか。

観音堂に掛かる鰐口には「教徳寺」と刻されている。

廃寺となった教徳寺に代わって、現在は、円福寺がお堂を管理している。

「教徳」は、参道の急な石段わきの地蔵の刻銘「西台村教徳念仏講中」にもある。

人間くさい地蔵の顔だが、首がとれて、別な顔をのっけたものか。

この地蔵尊より10m先の覆屋に2基の庚申塔と馬頭観音1基がある。

小さい庚申塔は風化が激しく、読み取れるのは、「願主福太郎」だけ。

青面金剛陽刻の方は、宝永四年(1707)造立、台石の銘「西台京徳村庚申講中」からこの辺りは、京徳村だったことが判る。

文化十五年(1818)造立の馬頭観音には「施主荻野万吉」の文字。

この界隈は、坂道だらけ。

万吉さんちの馬は、難儀の一生を送ったに違いない。

 

38段の石段を上る。

本堂に向かって左側に、右から小堂、覆屋、無縁墓群が並んでいる。

 

小堂の中の石仏は、薬師如来。

その昔、「目の薬師」として人気があり、「め」の絵馬が堂を覆うように掛けられていたらしいのだが、今は一枚もない。

西台4の「耳だれ庚申塔」に祈願達成の柄杓が奉納されているのとは、対照的だ。

 堂横の覆屋に立つのは、馬頭観音。

馬頭観音は、屋根があって辛うじて雨露をしのげているが、その隣の、人間様の無縁墓は野ざらし。

この放置されたかのような石造物群に、板橋区の登録文化財が4基もある。

まず奥列にせせこましく並ぶ2基の宝篋印塔がそれ。

造立、延文6年(1361)は、板橋区で2番目に古い宝篋印塔となる。

南北朝時代、この地を支配していた豪族の遺品ではないかと推測されているらしい。

向こう側の、宝珠が欠けているものには「逆修 性阿弥陀佛」の銘が、手前のものには「逆修道用」の刻文がある。

両方とも延文六年七月十三日と記されている。

残りの登録文化財は、武士の墓2基。

2列目の右端に「源姓井上氏帯刀正昭墓」。

 

前列左端に「井上右京正員之墓」。

二人は父子で、父正昭の父、井上正就は、家光に将軍を譲り、西の丸から幕政を仕切っていた秀忠を補佐する老中の一人。

 江戸城殿中での刃傷事件としては、浅野内匠頭が吉良上野介を切り付けた「忠臣蔵」が有名だが、その70年前にも同様な殿中刀傷事件があって、老中正就は切りつけられた被害者。

寛永5年(1628)のことだった。

当時、テレビのワイドショーがあれば、一週間ぶっとおしでトップニュースとして放送され、視聴率を稼いだに違いない。

それほどのスキャンダルだった。

『徳川大猷院殿御実記巻十二』での事件の記述は「十日目付豊島刑部少輔信満西城において遺恨あるよしいひて不慮に宿老井上主計頭正就を刺殺す。小十人番士青木久左衛門義精駆来て刑部少輔をいだきとめしが、其の身も深手負て営中にて死す。(略)豊島が正就を怨みけるは、婚約異変の事よりといへり」。

「婚約異変の事」というのは、老中井上正就の息子の縁談話のもつれを指す。

殿中で切り付けた豊島明重は、正就の息子と大坂町奉行の娘との縁談の仲人を務めることになっていた。

しかし、進んでいたこの縁組を正就が一方的に破棄したことで、事件は起きた。

破棄したのは、大奥の実力者春日の局から、出羽山形二十万石城主鳥居忠政の娘と縁組するようにとの「上意」があったからだったが、仲人役の豊島は「小身の大坂町奉行より、大身の山形城主に目がくらんだ」と怨みを抱き刀傷に及んだというもの。

家光の時代、武勲や戦功での取り立てはなくなり、家格がものをいうようになっていた。

中級旗本の大坂町奉行より、譜代大名の鳥居山形城主との縁組を正就が優先するのは、お家のことを考えれば当然のことだった。

そして、豊島明重にとっても、老中井上家との縁組の仲人を務めることは、家格をあげるチャンスでもあった。

時代が色濃く反映した事件ということになる。

殿中刀傷事件の主人公井上老中の息子と孫の墓が、なぜ、京徳観音堂にあるかは不明だという。

≪続く≫

 


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