前回の「芭蕉庵史跡展望庭園」は、芭蕉記念館の分館だった。
本館は、ここから北へ3,4分の所にある。
◇芭蕉記念館(江東区常盤1-6)
銅板葺きの屋根は、俳人笠に見立てたものと聞いたので、それが分かる写真を撮りたいが、引きの距離が短すぎてちゃんと撮れない。
館内の撮影は禁止。
抗議するつもりはないが、石の蛙まで撮影禁止なのは、解せない。
撮ったら悪影響がある、とでも言うのだろうか。
仕方ないから、カメラは専ら狭い庭園の句碑に向けられる。
庭に入るとすぐ左に自然石の句碑。
「草の戸に 住み替わる代ぞ ひなの家」
「住める方は人に譲り」、「おくのほそ道」へと旅立つ前に、芭蕉が詠んだ句。
芭蕉の命日の昭和59年10月12日に建てられた。
揮ごうは、その当時の江東区長。
狭い庭に道しるべがあり、「左 芭蕉庵」とある。
左の石段を上ると昔の芭蕉庵を模した小さな庵があって
中に芭蕉の石の座像。
なぜか栗がイガに包まれたまま置かれていた。
その小庵の前に立つのが、
「ふる池や 蛙飛びこむ 水の音」
要津寺に残る江戸中期の書家三井親和の書を模写し、昭和30年6月、芭蕉稲荷神社に建立したものを、昭和56年、この地に移したのだとか。
持参資料によれば、庭内にもう1基「川上とこの川しもや月の友」があるはずだが、見当たらない。
館内に戻り、受付の人に訊いて分かった。
模造芭蕉庵の右奥、塀に寄りかかるようにある小碑がそれだった。
これまでの2基がそれ相応の大きさだったので、てっきり同じ大きさのものと思い込んでいたので、見逃していた。
昭和31年、芭蕉庵復旧の際に建てられ、昭和56年4月、ここに移された。
芭蕉祈念館別館史跡展望庭園入口の句碑と同じだが、芭蕉句碑の重複は避けられないようだ。
「古池や・・・」は、都内23区で8基もある。
芭蕉は「蕉風俳諧」で多くの人たちに多大な影響を与えた。
逆に、芭蕉自身が影響を受けた人といえば、仏頂禅師があげられる。
師は常陸・鹿島の根本寺の住職だった。
根本寺(茨城県鹿嶋市)
根本寺の寺領をめぐり鹿島神宮といさかいが起り、幕府の裁定を仰ぐべく、折しも江戸に滞在していた。
その滞在先の臨川寺が、芭蕉庵から近く、仏頂禅師に心酔した芭蕉は、毎日のように参禅し、教えを請うたと云われている。
禅の教えが、芭蕉の精神と作句にどのような影響を与えたのか、それは私の能力を超えることで知りえないが、「遁世」とか「漂泊」とか、芭蕉について回る言葉は、禅的なものと無縁ではなかろうと思う。
◇臨済宗・臨川寺(江東区清澄3)
清澄通りに面してある臨川寺は、芭蕉寺と呼ばれたが、震災と空襲の2度の災害で、芭蕉に関わる寺宝を焼失、今は狭い庭地に模刻の「芭蕉由緒の碑」と「墨直しの碑」を残すのみ。
句碑はない。
「芭蕉由緒の碑文」の原文は
「仰此臨川寺は昔仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧跡也、その頃はせを翁ここの深川に世を遁れて朝暮に往来ありし参禅の道場也とぞ。しかるに翁先立ちて卒し賜ひければ、禅師みずから筆を染てその位牌を立置れたる因縁を以て、わが玄武先師延享のはじめ洛東双林寺の墨なわしを移して年々三月その会式を営み、且梅花仏の鑑塔を造立して東国に伝燈をかかげ賜ひしその発願の趣意を石に勤して、永く成巧の朽ざらん事を更に誌すものならんや」
芭蕉は、深川で14年間暮らしていた。
だから、都内23区の中で、芭蕉句碑の数は、江東区が断然多い。
以下、ランダムに句碑を見てゆこう。
◇曹洞宗・長慶寺(江東区森下2-22)
資料によれば
「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」
の句碑があるはずだが、「芭蕉翁桃青居士」の墓らしきものがあるだけで、句碑はない。
何処にあるのか住職に訊こうと庫裡の戸を開けたら、秋の彼岸の墓参の檀徒でごったがえしている。
あわただしく小走りに通り過ぎる法衣の男に声をかけたら住職だった。
「確かに昔はあったのですが、震災や戦災で失くなってしまったんです」とのこと。
昔の写真が、柵に掛けられている。
「芭蕉翁桃青居士」の墓石が所々欠け落ちているのが分かる。
どうやら句碑は、当初からなかったらしい。
芭蕉の歯と真筆の「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」の短冊をこの墓に埋めたのだそうだ。
隣に其角や嵐雪の碑もあったらしいが、いずれも被災して消失してしまったという。
地下鉄「森下駅」から「清澄白河駅」へ。
駅を出るとすぐそばに清澄庭園がある。
◇清澄庭園(清澄3-3)
今は都立庭園だが、前身は岩崎家、その前は紀伊国屋文左衛門の邸地だった。
全国の庭石があることでも有名で、佐渡出身の私としては、佐渡の赤玉石があるか気にかかる。
ちゃんとあった。
芭蕉の句碑は、庭園の奥の芝生広場にある。
高さ1メートル、幅2メートルの巨大な、ゆったりした自然石に
「古池や 蛙飛びこむ水の音 はせを」
と刻されている。
解説パネルがある。
「当庭園より北北西400メートル程の所に深川芭蕉庵跡があります。松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、門人杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享3年(1685)の春、詠まれています。
この碑は、昭和9年に其角堂九代目晋水湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いをしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあるというわけではありません。」
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の石碑は、深川江戸資料館にもある。
◇深川江戸資料館(東京都江東区白河1)
深川の長屋の再現コーナーの一角にポツンと句碑がある。
解説パネルによれば、割烹「はせ甚」が寄託したもので、刻銘がないので、制作年代や製作理由は不明だが、彫りの形からかなり古いものと見受けられるとのこと。
再び、仙台堀川沿いの採茶庵に戻る。
ここから南岸の川沿いの道は、清澄橋まて俳句散歩道になっている。
句は、もちろん、芭蕉の句。
10mおきに18句が並んでいる。
さくらの咲く頃は、素敵だろう。
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