久しぶりに花園神社へ。
赤テントとかゴールデン街と聞くと花園神社を想い出す。
40年も50年も前のことです。
◇花園神社(新宿区新宿5)
花園神社には、芭蕉の句碑が2基あることになっている。
威徳稲荷の横にあるらしいのだが、両脇はトタン小屋の建設中で、音が騒々しく、句碑を読むなどという雰囲気ではない。
雰囲気だけではなく、トタン板が遮蔽して、1基は辛うじて読めるが、もう1基は左の一行が見えるだけ。
祭まで1か月もあるというのに、酉の市の準備が始まっていたのです。
パイプの支柱が何本も立っていて、無粋なムードの句碑は、
「春なれや 名もなき山の 朝かすみ はせを」
前書きに「南良(なら)ごえ」とある(のだそうだ)ように、貞享2年(1685)、伊勢から奈良に出る途中、名もなき山に薄霞がかかって、おもわず、春だなあと詠嘆した句(と解説にある)。
碑裏には、28人の句がびっしりと並んでいる(らしい)が、裏には回り込めないので、写真はない。
もう1基は、元々は「春なれや・・」の句碑の向かい側にあったのだが、今はすぐ灯籠を挟んで右側に立っている。
と、言っても句の下五でそれと判るだけで、句碑の全体は隠れて見えない。
「蓬莱に きかばや伊勢の 初たより はせを」
元禄7年(1694)元旦に深川芭蕉庵で詠んだ句。
元禄7年といえば、芭蕉の没年。
そう思えば、感慨もひとしおです。
「蓬莱」とは、三方に歯朶、海老、栗などを盛って、蓬莱山に見立てた正月の飾り物。
その蓬莱に伊勢神宮の神々しい正月の儀式を想い出し、伊勢からの初便りが待ち遠しいと読んだもの(という)。
建立したのは「内藤新宿惣旅籠中」。
花園神社は、内藤新宿の総鎮守でした。
花園神社から明治通りを北上、「東新宿駅」で大江戸線に乗り、「牛込柳町駅」で下車、地上に出たすぐ横が次の目的地。
◇日蓮宗・瑞光寺(新宿区原町2)
本堂の前、右の植え込みの中に句碑はある。
「百年((ももとせ)の 景色を庭の 落ち葉かな」
誰がいつ、何のために建てたのか、不明の句碑だとか。
でも、芭蕉がいつ、どこで詠んだかわ分かっている。
元禄4年(1691)10月、江戸に戻る途中、芭蕉は寝滋賀県彦根市の明照寺(めんじょうじ)を訪れた。
住職の李由が芭蕉の門弟だったからです。
寺の庭には落ち葉が降り積もり、その光景に、百年もの長い年月を感じて詠んだ句。
明照寺の当時のままという庭には、芭蕉の形見の檜笠を埋めた笠塚はあるが、肝心の句碑はなく、なぜか、新宿の瑞光寺にポツンと立っている、のです。
新宿区の次は渋谷区。
渋谷駅から300mのすぐ近くに芭蕉句碑がある。
◇御嶽神社(渋谷区渋1)
55年前、宮益坂は私の通勤路だった。
でも、御嶽神社は記憶にない。
奥まった上方にあったからだろうか。
坂に面して急な長い石段があって、上がると正面に本殿。
高いマンションビルに押しつぶされそうに建っている。
狛犬は、日本犬だとか。珍しい。
芭蕉句碑は、社務所の左の狭い空き地にある。
「眼にかかる 時や殊更 さ月不二」
豊島区の学習院大学にも同じ句碑があった。
「箱根の関を越えて」、詠んだ句で、「殊更」というのは、五月の雨の季節であきらめていたのに、思いがけない晴れ間で嬉しいことの強調(だそうです)。
宮益坂は「富士見坂」とも呼ばれ、富士山が良く見えた。
ちなみに都内の富士見坂は、23か所。
特に御嶽神社の境内からの眺望は良かった。
富士山を詠んだ句碑の建立地として最適地と建立されたのも当然か。
今では四方をビルに囲まれて、どっちが富士山かその方角さえも分からないことになっている。
渋谷駅近くの句碑としては、もう1か所ある。
◇金王八幡神社(渋谷区渋谷3)
訪れた日は、秋祭りの前日。
街角にテントが張られ、町会の人たちが準備に大わらわ。
神社の周囲も屋台の店が店開きで慌ただしい雰囲気だった。
広い境内で句碑を探すのは大変そうなので、社務所に直行。
「そこにあります」。
社務所のすぐそば、本殿の右に句碑はあった。
「しばらくは 花のうえなる 月夜かな」
社務所に戻って句碑建立の事由を尋ねた。
「江戸時代から名木として有名な金王桜があるからでしょう」。
見れば、句碑を包み込むように桜の枝が広がっている。
長州緋桜という種類で、一枝に一重と八重が混在する珍しい桜だとか。
渋谷区の指定天然記念物だそうだ。
桜満開の写真を無断借用して載せておきます。
渋谷区には、もう1基、芭蕉句碑がある。
荘厳寺がある渋谷区本町は、都庁舎の西、新宿区と中野区に挟まれて、「エッ、ここが渋谷区なの?」とついつぶやいてしまう、そんな場所である。
◇真言宗・荘厳寺(渋谷区本町2)
「荘厳寺」(しょうごんじ)は、私にとって懐かしい名前です。
私は8年前に石仏に興味を抱き始めるのだが、その初期のガイダンスの役目を果たしたのが、佐久間阿佐緒『江戸の石仏』、『東京の石仏』だった。
そして、その両方に「荘厳寺」の石仏がしばしば登場する。
ちなみに『東京の石仏』の1ページ目は、荘厳寺の聖観音像の写真です。
山門横に解説板がある。
墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の
暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履
という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなりあったと思われます。 渋谷区教育委員会
真言宗寺院らしく、境内には石造物が沢山ある。
庫裡の横に墓地への入口がある。
そんなに広くもない入口を何度か探し回るも句碑は見当たらない。
たまたま庫裡の裏口が開いていて、中に人の気配があるので、聞いてみた。
「解説板の書き方が間違っていてすみません」とわざわざ案内してくれたのは、本堂右手の植え込み。
容のいい自然石の句碑が立っている。
「暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履」
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