今年(2012)のロンドン五輪は、メダルラッシュで日本中が沸いた。
中でも、女子レスリングは金が3個と気を吐いた。
48キロ級は、「新顔」小原日登美(31)が制した。
オリンピック初出場で、金メダルの快挙。
しかし、優勝は番狂わせでもフロックでもなかった。
なにしろ、世界選手権8回優勝の実力者だったからです。
世界的実力者なのに、オリンピック初出場だったのには、当然ながら、理由がある。
彼女のクラス、51キロ級はオリンピック種目からはずされていたからでした。
エントリーしたくても、できなかったわけです。
表彰台上の小原選手を見ていて、私は、木食弾誓を思い浮かべていました。
あなたは、木食弾誓をご存知ですか。
作仏聖の木食行道は知っているけれど、木食弾誓は聞いたことがない、という人が多いのではないでしょうか。
実績と名声のある木食弾誓の名前が世に知られていないのは、名僧列伝に彼がエントリーされていないからでした。
厳しい寺院統制下の江戸時代、寺に定住せず、乞食のような風態で遊行する山岳修行聖の弾誓は、体制外のアウトロー的存在でした。
しかし、実践的民間宗教者としての彼は、行く先々で民衆の熱狂的支持を得ていたカリスマだったのです。
弾誓上人像(箱根塔の峰・阿弥陀寺蔵)
今回を1回目とするシリーズは、木食弾誓とその後継者たちの足跡。
佐渡、信州、東京、伊勢原、箱根、京都を巡る予定です。
弾誓とその弟子たちは、作仏聖としても有名で、多くの石仏を遺したので「石仏散歩」の格好なテーマでもあります。
そして、私には、もう一つ、個人的な理由があります。
佐渡を故郷とする私は、弾誓開眼の地は佐渡、という一点に惹かれ、木食弾誓に興味を持ち始めました。
「木食弾誓をもっと知りたい」というのが、この企画の動機。
私が勉強するプロセスがシリーズとなってゆくことになります。
『弾誓上人絵詞伝(古知谷・阿弥陀寺)』によれば、木食弾誓は、天文20年(1551)、尾張国海部郡(あまべのこおり)で生まれました。
戦乱相次ぐ戦国時代末期のことです。
「開山弾誓上人は父なし。母は尾張の国海辺里の人なり」。
これが、絵詞伝の書き出しです。
父なし、とはいかなることか。
母なる女性は、ある夜、弥陀の三尊が六字名号の短冊を差し出す夢を見ます。
「汝是を呑べしと告させ給ふゆへにそのまま呑みしと見て夢は覚めたり。是よりして唯ならぬ身と成りぬ。やがて男子を生む。額に白毫相あり」。
父なしとは、処女懐胎だった!
キリスト生誕に酷似するこの逸話は、絵詞伝がいかに始祖弾誓を神格化するものであるかを物語っています。
幼名、弥釈(みしゃく)丸。
4歳の時の逸話も子ども離れしています。
「弥陀の三尊化して三の童子とあらはれ来たりて、阿弥陀の三字を口ずさみ小児(弾誓)をなぐさめ給ひけり。小児是より怠らすつねに阿弥陀、阿弥陀ととなへける」。
弾誓が生涯唱え続けた、この「あみだ、みだ、みだ」の三字名号は、後に大原念仏として世に広まって行きます。
ちなみに、大原は、弾誓終焉の地、京都古知谷阿弥陀寺の所在地。
9歳にして、出家を志し、12歳で自ら弾誓と名を改め、放浪の旅に出ます。
「美濃国の山奥に柴の庵を結び、一心不乱に称名を修行せらる。光陰速に移りゆきて程なく二十余回の春秋をわたる」。
そのあと諸国修行にでるのですが、詳細は不明。
運命の地、佐渡に渡ったのは天正18年(1590)、弾誓39歳のことでした。
後に佐渡・檀特山は木食行者たちの聖地として名を馳せますが、これは弾誓修行の地だったからです。
修験者による山岳修行は佐渡でも行われていましたが、本格的な山岳修行ならば、本州に候補地はいくらでもあるわけで、弾誓が、何故、佐渡に渡ったのかは不明のままです。
「それより佐渡の国に渡り給ひ、相川の市に入り、水を汲薪をこり、貧しき家に助をなし、唯いつとなく打しめりて念仏し明し暮し給ひける」。
下働きをする弾誓(『弾誓上人絵詞伝 浄発願寺本)』
相川が金山として栄えるのは、慶長になってからで、天正の頃は貧しい僻村だったはずです。
貧しい村の貧しい家での下働きは、これも遊行者の修行でした。
その後、人々の勧めで、相川の峠の南、河原田の、 浄土宗常念寺に入り、ここで得度、遊行僧から正式の坊主になります。
常念寺(佐渡市河原田)
しかし、法衣を身につけても、彼の本質は変わりません。
堕落した同輩の寺僧たちを軽蔑の目で見ていたに違いありません。
「寺僧の輩にくみ嫌ふこと甚し。これによりて又(相川の)市町に帰り、諸人の捨し食物を拾ひて命をつぐよすがとし、ひたすらに念仏修行し給へり」。
そして,翌天正19年(1591)冬、弾誓は相川を後にして、海岸沿いに北に向かいます。
木綿の単衣に数珠をかけ、乞食僧と見間違うばかりの弾誓に、吹雪と白い波花が叩きつけたことでしょう。
身体を左に倒すように、風に身体を預けながら歩いたはずです。
たどり着いたのは、岩屋口。
岩屋口の集落と行く手を阻む岬の岩壁
大岩壁がそそり立って、海沿いの道はここで遮断されていました。
岩壁の下には、二つの岩窟。
岩壁前の墓地の左と右に洞窟がある
弾誓はこの岩窟を冬の拠点として、6年の苦行に励むことになります。
岩窟の高さは、二つとも約6m。
海岸からは100m。
浜辺に押し寄せる波音が洞に反響して、思いもしない大きな音でザザーンと耳を打つ。
古来、洞窟の向こうの闇は、黄泉の国だと信じられてきました。
弾誓は、あの世を身近に感じながら、念仏に明けくれていたことになります。
春になれば、岩屋口の背後の山に居を構えました。
その名も「山居の池」。
佐渡の人でも訪れたことのある人はごくわずかの、人里離れた山中にポツンとある池です。
その池から尾根伝いに10キロ南の「檀特山」までが彼の修行地でした。
尾根伝いに毎日、檀特山と山居池の間を一本足の足駄で往復していたという言い伝えが残っていますが、これは箱根・塔の峰の阿弥陀寺と伊勢原・一の沢浄発願寺の間を毎日行き来していたとの伝説とそっくりです。
「山居」は、「山にこもって修行する」意であり、「檀特山」はインドの修行地の名前です。
両方とも、弾誓が修行したから付けられた地名だと言われていますが、そんなことはない、弘法大師によって開かれたのだという人もいます。
檀特山の仙人滝には「大同二空海」の五文字が岩壁に彫ってあるのだそうです。
空海開基の寺は佐渡にいくつかありますが、いずれも大同2年(807)開基ですから、不思議に岩壁の五文字と符合します。
ところで、檀特山は、佐渡の原始林地帯として有名です。
新潟大学農学部の保有林として保護され、入山が禁止されていたのですが、近年、解放され、佐渡のニュー観光スポットとして脚光を浴びるようになりました。
原始林ですから、弾誓の頃と山の感じは変わっていないはずです。
檀特山には、弾誓が再建したお堂がありました。
しかし、昭和42年の台風で崩壊し、今はありません。
大正14年、お堂を訪れた人の記録があります。
「堂は天をさす老杉に囲まれて建つ。堂の左側には苔に朽ち、雨露に痩せて殆ど原形をとどめぬ石地蔵が百基、石塊のごとく散在している。苔は天然の古色を帯び、水は清澄にして氷の如く、古雅静寂さながらの仙境である。上人が此の絶対清浄の冷気に浸って、心の浄化信心の深化を願った処だと思へば尊くも又なつかしい」(若林甫舟)
堂の天井には80枚の板が嵌められているが、2枚欠けていたという。
その理由が面白い。
「一説には、寒中、上人の三山(金北山、金剛山、檀特山)日登(毎日上る)を疑う村民の不信をとく為内二枚を持って下山したという」(若林甫舟)
弾誓の逸話として、秀逸ではないか。
次のような伝説もある。
「寒中の三山詣りを聞いた若者が、行者とはいえ老人が登れるのだから俺にできないはずはないだろうと思い、連れて行ってくれと上人に頼んだ。しぶしぶ承知した上人は、連れて行ってやるが、必ずわしの足跡を踏んでついて来るようにと云った。上人の一本歯の足駄の跡を踏みながら苦も無く登ることができた若者は、足跡を踏まずとも登れるだろうと上人に先行して歩きだした。ところが雪の中に足が落ち込んでどうしても歩けない。あわてて上人の足跡を踏んで無事、下山。改めて上人の法力に驚いたという」。
上人賛歌の絵詞伝と違って、これは地元の言い伝えですから、信憑性が高い。
山岳修験者の超人的能力に疑いを抱く村人がいて、結局、納得させられるストーリーが多い。
ただし、ここに登場する上人が、弾誓なのか、その弟子たちなのか、判然としないのが惜しまれます。
ところで、弾誓の木食行とはいかなるものだったのか。
修験道では、精進が第一。
血の穢れのある生臭ものを食べないばかりでなく、人間が栽培した穀類も口にしない。
木の実や草、きのこ、海藻などを煮炊きせず、塩味を付けず食すのです。
食べていいのは、アケビ、山ブドウ、胡桃、栗、トチ、松茸、なめ茸、蓮根、つくし、せり、うど、蕨、ぜんまいなど。
岩屋口の岩窟は海に近いので、海藻類や貝類なども弾誓は食べたと思われます。
現代人には想像もできない行為ですが、こうした苦行をすることで人間を超えた能力を有し、未来を予測し、病気を治し、雨を降らせることができるようになると信じられていたからでした。
生身の身体でありながら、神仏の能力を持つ、即身成仏、即身成神が目的でした。
神や仏が生身の人間に慿くためには、穢れや罪が払われていなければならない。
そのためにも、木食行は不可欠な修行でした。
そして、ついに6年の苦行の末、弾誓にも神が慿衣する時がやってきます。
滝に打たれていると、春日、住吉、熊野、八幡、大神宮の5社の神が現れ、弾誓の背骨を割って、凡骨(弾誓の骨)の代わりに神骨を入れる、換骨の儀式を執り行うというのです。
「五社の神、形をあらはし出給ひ、汝に神道の秘奥を授くべし。去ながら凡骨では成がたし。今換骨の法をなさんとて、(中略)上人の背筋を裁割凡血を出し給ふ。此とき五社の神、異口同音に神道の奥義を授け給ふ」。
換骨の儀礼(中央はだかの男が弾誓、取り囲む五社の神々) 『弾誓上人絵詞伝』浄発願寺本)
現身は死んで、この時、弾誓は神として再生したのでした。
「生き神さまなんて、そんなこと信じられない」。
そう思うのは自然なことです。
私たちは、西洋近代合理主義を信奉して生きているのですから、合理的でないことは受け入れられない。
しかし、宗教の世界に合理的論理を超える何かがあることも事実です。
たとえば、キリスト教における「ヨハネの黙示録」。
神の啓示なるものは、非合理そのものです。
弾誓の換骨の儀式の真偽を云々するのではなく、生き神さまとなった弾誓を敬う人たちが大勢いたという事実に、私たちは目を向けるべきでしょう。
厳しい修行を積めば、生きながらえて神になり、仏になることがありうる、と人々が信じていた時代があったことを認めなければなりません。
弾誓蔵(浄発願寺)
話は戻って、弾誓「死と再生」のドラマ第2幕。
タイトル「神が憑けば、仏も憑く」。
時:慶長9年10月15日
場所:佐渡国岩谷口岩窟内
「一夜清朗にして岩窟特に寂莫たれば心もいとど澄みわたりて念仏もっとも勇猛なり。その時岩窟変じて報土(浄土)と成れり。教主弥陀如来、大身を現じて微妙の法を説給ふ(説法する)。大日如来釈迦如来及び一切諸菩薩衆、星のごとく列りて虚空界に充満せり。時に弥陀尊、直に上人に授記して十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏と呼びたまふ。その説法を書記して弾誓経と名く」。
『弾誓上人絵詞伝』古知谷本
阿弥陀如来が弾誓に授けた 「十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏」は、戒名。
戒名だから、弾誓は、この瞬間、死んでいたことになります。
弾誓自筆の「十方西清王法国光明弾誓阿弥陀仏」
そして、阿弥陀如来から受け取ったのが弾誓経。
弾誓が他の教祖と異なるのは、その信仰を文章として残さなかったこと。
唯一、弾誓経にその精神が見られるだけです。
その相伝の儀式には、弾誓流独特な儀礼があるのですが、その原形がこの夜、岩屋口の岩窟で執り行われました。
それは仏頭伝授の儀礼。
「説法既に終る時、観音大士手づから白蓮所乗の仏頭をもって上人に授け給ふ。是伝法の印璽なり」。
阿弥陀如来に抱えられている弾誓に観音菩薩が仏頭を差し出している。
(『弾誓上人絵詞伝』塔の峰本)
観音菩薩が手づから白い蓮の上に仏頭を乗せ、弾誓に授ける。
弾誓は、その仏頭を自らの頭として心に受け止め、即身成仏を果たす。
この瞬間、死んでいた彼は生き仏としてこの世に甦るのです。
よくは分からないのですが、宮島潤子氏や五来重氏の所説を読んでの、これが私の理解するところです。
断崖の上から見た岩谷口。ほぼ中央左から突き出た山裾の向こう側に洞窟がある。
生き仏となった弾誓は、いよいよ佐渡を発つことになる。
底辺の人たちへの布教という次なるミッション果たすためでした。
しかし、彼は、すぐに発とうとはせずに、檀特山に止まっていました。
その異相に天魔鬼神出現かと驚く木こりたちに、念仏を授けたりしていたから、噂はぱっと広がり、人々が押し掛けてきます。
「称名声澄わたり聞えぬれば、各々随喜の涙を流し、藤や葛を取集め、木の枝を結びつなぎて輿に作り、上人をのせて麓の里に帰り、各々供養礼拝し貴賎群衆して利益(他の人々のために善をなすこと)日々に盛なり。其行化(修行を終えて教化のため巡りあるくこと)の跡寺と成て弾誓寺と号す」。
乞食僧のような風態は変わらずとも生き仏となれば、人々の扱いも格段に変わるという絵に描いたようなお話。
ところで、去年の秋、この弾誓寺を訪ねた際、珍しい石碑を見つけたことは、「16 佐渡相川の寺と石造物(3)」でも触れました。
その写真と文は下記の通り。
「南無阿弥陀仏」と「南妙法蓮華経」が一石に刻まれた石碑が2基。
現世利益さえあれば、宗派などどうでもいい、という庶民の気持ちを現したものだろうか。
その真意を知りたいものだ。
その謎が、絵詞伝を読んでいて解けたのです。
弾誓の名声は佐渡中に知れ渡って、彼の筆になる「南無阿弥陀仏」の名号を掛けない家はないほどでした。
弾誓自筆の名号
弾誓の名号を受けたいけれど、日蓮宗の信者なので願いを躊躇している人がいた。
人を介してやっとの思いで弾誓にお願いしたら「もうすでに出来ているよ」と授けてくれた。
「彼人驚き件の料紙を見るに名号(南無阿弥陀仏)題目(南無妙法蓮華経)相並べて明らかに書給へり」。
この二つの石碑は、絵詞伝の逸話に則って彫ったものに違いないと私は思うのです。
セクト主義の激しい当時の仏教界にあって、弾誓の、枠に捕らわれない伸びやかな感性と独自の哲学は感銘的です。
6年の苦行の末、生き仏となった弾誓は、佐渡国の人たちを教化し、慶長9年(1604)の年も押し迫った頃、島を離れます。
行く先は信州でした。
弾誓在㠀の6年、佐渡は劇的な変化を遂げていました。
相川金山の本格的開発がスタート、町は未曾有の活気のなかにありました。
弾誓の噂は江戸にまで届いていたはずです。
赴任して来たばかりの佐渡奉行大久保長安に招かれて、両者は話を交わしたのではなかろうか。
私の、この想像はそれほど荒唐無稽ではないはずです。
なぜなら、山を自由に動き回る修験者や忍者は、長安の重要な情報源だったからです。
次回は、佐渡を離れた弾誓の足跡を追う予定。
参考図書
○宮嶋潤子『謎の石仏』(平成5年)角川書店
○宮嶋潤子『信濃の聖と木食行者』(昭和58年)角川書店
○五来重『修験道の修行と宗教民俗』(2008)法蔵館
○五来重『木食遊行僧の宗教活動と系譜』(2009年)法蔵館
○鈴木昭英『越後・佐渡の山岳修験』(2004年)法蔵館
○『浄土宗全書第17巻ー弾誓上人絵詞伝・古知谷阿弥陀寺蔵』(昭和46年)山喜房仏書林
○小松辰蔵『佐渡木食上人』(昭和46年)佐渡時事新報社
○西海賢二『漂泊の聖たち』(1995年)岩田書店
○『木食僧の寺ー一の沢浄発願寺』(昭和57年)伊勢原市教育委員会
○宮嶋潤子『第6回全国天領ゼミナールー木食行者をめぐって』(1990年)金井町教育委員会