約70年間、東京暮らしだが、行ったことがない場所は結構多い。
旧安田庭園もその一つ。
名前だけは知っていたが、どこにあるのかさえ知らなかった。
両国駅から徒歩3分という立地にもかかわらず、園内は街の喧騒とは無縁。
ありきたりな言葉だが「タイムトリップ」したような「都会のオアシス」です。
□旧安田庭園(墨田区横網1)
芭蕉句碑を探してそんなに広くもない庭園を2度回った。
持参資料には「園内駒止神社先」とある。
駒止稲荷神社はすぐ分かった。
だが、「先」が分からない。
神社は広い空き地の一画にある。
社の正面は、心字池。
正面が「先」でなければ、どこを指すのか。
探し回って、やっと見つけた。
「立ち入り禁止」の築山頂上近くにポツンとあった。
解説板もなく、おそらく通りがかりの人は誰もこれが芭蕉の句碑だとは気づかないだろう。
「みの虫の 音をききにこよ 草の庵」
以下は、解説書からの受け売り。
ミノムシは鳴かないが、清少納言は「ちちよ ちちよ」と鳴くと書いている。ミノムシの鳴き声を聞きに私の草庵に来ませんか、という芭蕉から門弟たちに対するお誘いの句。
側面に「享和三発亥(1803)」とある。
◇臨済宗・要津寺(墨田区千歳町2)
句碑だとか記念碑、顕彰碑は、どちらかというと本人の死後建立されることが多い。
このブログの「芭蕉句碑巡り」も、これまでは、「おくのほそ道」旅立ちの千住や芭蕉庵のあった深川など芭蕉が活動していた場所だったから、芭蕉当人とかかわりの深い石碑が多かった。
しかし、句碑の大半は、時代と場所を越えて、芭蕉本人とは無関係の場合が多い。
要津寺には、芭蕉関連の石碑が多いが、寺と芭蕉とはまったく関係がない。
芭蕉没後100年、弟子や弟子の弟子たちが、寺の前に芭蕉庵を再建したことが、事の発端だった。
その間の事情を、墨田区教育委員会は次のように説明している。
「雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島嶺蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより、当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には、蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養墓や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。
平成10年(1998)3月 墨田区教育委員会 」
よく言えば、モダンな、一風変わった本堂に向かって右手に、芭蕉関連の石碑群がある。
だが、草木が生い茂って、全部は見えない。
囲いの中に入ることも考えたが、寺の関係者が腕組みをしてみているので、諦める。
見える限りのものを左から挙げると、まず、「前雪中庵嵐雪居士、後雪中庵吏登居士」墓碑。
その右隣りに、青い自然石の句碑、
「ふる池や 蛙飛込む 水の音」
安永2年(1773)、10月12日の芭蕉祁忌に、建立された。
碑裏に「雪は古池に和清水音をつくし、月の一燈花の清香もをのづからなる此翁の徳光をあふぐのみ」と刻まれている(と資料にはある)。
書は、当時の能書家三井親和。
芭蕉記念館の「古池や・・・」の句碑は、これの模写したものと云われている。
更に右にあるのが「芭蕉翁俤塚」。
「俤塚」は、雪中庵三世大島蓼太が宝暦13年の芭蕉忌に、芭蕉の母の絵を納めて建立した。
「俤塚」の右は、その大島蓼太の句碑、
「碑((いしぶみ)に 花百とせの 蔦植む 雪中庵蓼太」
がある。
碑裏上部に「芭蕉翁百回忌発句塚碑」と刻されている。
この碑を建てた天明2年(1782)、蓼太は75歳。
百回忌の86歳までは生きていられないと、11年繰り上げて百回忌を営んだ。
実際、蓼太はこの5年後、80歳で死去しているから、彼の読みは当たったことになる。
それにしても一門の門弟たちの芭蕉愛のなんと篤いことか。
神格化も当然の成り行きだろう。
墨田区役所を過ぎて、向島へ。
三囲神社は句碑や歌碑が林立しているが、なぜか芭蕉の句碑はない。
しかし、芭蕉の高弟・宝井其角の雨乞いの句碑がある。
「此御神に雨乞いする人々に代りて
遊(ゆ)ふだ地や 田を見巡りの神ならば 晋其角」
元禄6年(1693)は旱魃の年だった。
そのさなかの6月、三囲神社を参拝した其角は、雨乞いの儀式に遭遇する。
其角は、雨が降り、「豊かな」実りが来ることを祈って、「ゆたか」の三字を折り込んだ句を神前に奉納した。
それが「遊ふだ地や・・・」の句で、奉納するや、たちまち雨が降りだしたという伝説がある。
寄り道をした。
目的の長命寺は、三囲神社から4,500m。
句碑、歌碑だらけの境内で、ひときわ目立つのが、芭蕉句碑。
「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」
(さあ、雪見に行こう。どこかで転ぶかもしれないけれど)
解説書によると、初案は「いざ出む ゆきみにころぶ 所まで」で、次に「いざ行かむ」となり、さらに手を入れて「いざさらば」になったのだそうだ。
『江戸の芭蕉を歩く』の著者・工藤寛正氏は、「芭蕉句碑は全国でで3500基を超えるが、この句碑は十指に入るといっていい」と絶賛している。
◇向島百花園(東京都墨田区東向島3)
「江戸時代の文人墨客の協力を得て開いた、今に残る江戸の花園」と公園のパンフレットは謳っている。
文人墨客と云うだけあって、園内には29基もの句碑が立っている。
その中でも芭蕉の句碑は、入口を入ったすぐの、一番目立つ場所にある。
「春もやや けしきととのふ 月と梅」
天保9年(1836)の建立で、裏面に11人の建立者の名がある。
句は、元禄6年(1693)に詠まれた画賛の一句で、場所を特定していないので、あちこちにこの句碑はある。(『江戸の芭蕉を歩く』より)より)
向島百花園には、芭蕉の句碑が2基あって、もう一基は「御成座敷」に向かって左にある。
「御成座敷」とは、十一代将軍家斉の来援記念に建てられた建物。
「こにゃくの 斜(さ)しみも些し うめの花」
元禄6年(1693)、去来の妹に死を弔うために、蒟蒻のさしみをすこしばかりと梅の花を供えて冥福を祈った句と云われている。
折しも萩の開花時期で、百花園名物「萩のトンネル」が見事だった。
没後何年か経てば、著作権も、商標もなくなるので、
誰でも勝手に句碑を建てられるでしょうね。
人寄せのアイテムとして、安くて手軽・・・ということかもしれません。
後、20年もたてば、ひばり歌碑などが立つようなものかもしれません。