前回の終わり部分で、芭蕉が俳句の世界に入るようになったのと、故郷・伊賀上野を出て、漂泊に身を置くようになったのは、主君藤堂良忠との関わりに、その原因があると述べた。
ここで、芭蕉の履歴を簡単に振り返ろう。
伊賀上野時代は、記録も少なく、推定を免れないらしいが、私の場合は、全部、受け売り、どれが史実でどこが推定か、自分でも分からない。
了承の上お読みください。
芭蕉は、寛永21年(1644)、伊賀上野城下に松尾与左衛門の次男として生まれた。
松尾芭蕉の生家
幼名金作。兄と姉に3人の妹がいた。
町場でありながら百姓の身分だった父は、金作が9歳の時に死亡。
19歳で藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎家に台所用人として召し抱えられた。
父死亡から用人になるまでの10年間、どこで何をしていたのか不明。
俳諧には、古典文学の知識が不可欠だが、そうした知識をどうして得たのかも分かっていないらしい。
新七郎家の嗣子良忠が俳諧好きで、俳諧仲間として、金作を重用した。
だが、その安定も主君良忠の病死でついえ去り、23歳で用人を辞める。
当時、宗房の俳号で作句活動をしていたことは記録がある。
江戸に下ったのは、寛文12年、宗房29歳のことであった。
その目的は俳諧師になることだったが、無名の田舎者としては、心細いことだったろう。
伊賀鉄道上野駅前の芭蕉立像
京都は貞門俳壇の本拠地であり、大阪は談林派の影響下にあって、新人俳人の喰い入る余地はなかった。
だが、江戸には、これといった俳諧師がいず、町には伝統に囚われない自由闊達な空気がみなぎって、新米宗匠として、成功の可能性が高いと踏んだに違いない。
芭蕉が草鞋を脱いだのは、日本橋小田原町のスポンサーの家。
今は、「日本橋鮒佐」(中央区日本橋室町1-12)がある場所に、幕府御用達魚問屋「鯉屋」があり、そこの主人、杉山市兵衛(俳号杉風)の家に身を寄せた。
芭蕉は、俳号を「宗房」から「桃青」に改め、俳諧師として仕事を始める。
その意気込みが読み取れる一句を彫った句碑が「日本橋鮒佐」前に立っている。
「発句也松尾桃青宿の春」。
句碑の傍らに立つ中央区教委の説明板の内容は
「松尾芭蕉は、漢文12年(1672)、29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)、37歳までの8年間、ここ小田原町(現室町1丁目)小沢太郎兵衛(大船町名主、芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んでいたことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場に近い繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに読み上げたのがこの碑の句である。碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。」
説明板には、「東海道名所図会」の日本橋の絵があって、その解説もされている。
日本橋を北に渡った東側に魚市場があった。河岸には魚を満載した舟が漕ぎ寄せられ、早朝から威勢のいい掛け声で賑わっていた。この絵の右側乃ち北側二筋目の通りが、芭蕉の住んでいた羅尾田早生町で、そこにも魚屋が並んでいた。芭蕉は魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていたのである」。
地下鉄に乗るべく「銀座三越」前の地階通路を通っていたら、壁面に長尺の絵巻が展示されていた。
小田原町と思われる街区の一画をパチリ。
東京には、芭蕉庵が二つ残されている。
一つは、関口芭蕉庵(文京区関口2)で、もう一つは、深川芭蕉庵(江東区常盤1)。
桃青は、日本橋に8年いて、次に深川芭蕉庵に14年もの間、身を置くことになるのだが、その間、数年間、江戸川橋の西数百メートル、駒塚橋の北詰にある関口芭蕉庵に住んでいたことがある。
それが、関口芭蕉庵で、芭蕉は、ここに住み、神田上水の大洗堰の改修工事に従事していたと伝えられている。
巷間云われる現場監督などという位の高い役職ではなく、水道の監視や手入れ、掃除などの軽労働だったと云う説もある。
俳句の宗匠だけでは、生計が成り立たなかったからだというのだが、いやいや、これは彼に商才があったからだという人もいる。
商才説は、芭蕉が上水の浚渫作業を請け負っていたことに重きをおく。
江戸に出てまもない桃青が何百人もの作業人を調達できたのは、日本橋に身を寄せたパトロンが名主で、その名主業務の帳面方を務めていたからだというのた。
関口芭蕉庵だけでもこんなに諸説紛々、芭蕉像ははっきりしないのです。
地下鉄「江戸川橋」駅を出ると神田川が見える。
橋を渡って左へ曲がると江戸川公園。
公園には、神田上水の取水口大洗堰の石組みの一部が遺構として残されている。
川伝いに西へ進むと「椿山荘」があり、その隣に「関口芭蕉庵」がある。
その光景を「はせを庵 椿やま」と題して、広重が描いたのが、下の絵。
ひときわ高くそびえる松は芭蕉庵のシンボル的存在だったが、昭和30年代、枯れ朽ちてしまった。
駒塚橋から延びる急坂が「胸突坂」。
胸突き坂の上りはじめ右側に、関口芭蕉庵の入口がある。
板戸の門をくぐるとぶつかる句碑が有名なかの
「古池や蛙とび込む水の音 芭蕉桃青」
池の辺に句碑があるから、この句は、ここで詠まれたのかと錯覚するが、そんなことはない。
とはいえ、ではどこの池でのことかというとこれが特定できないらしい。
だからか、東京23区内だけでも「古池や・・・」の句碑は、なんと8基も存在する。
この句碑の建立事由は碑裏に刻されている。
「この碑は芭蕉翁二百八十年遠忌の記念として建立したものである。碑面文字は当芭蕉庵伝来の真蹟自画賛をも穀したものである。
昭和四十八年十月十二日 関口芭蕉庵保存会建之」
園内には芭蕉の葉が太陽光線を遮るように広がり、芭蕉が詠んだ芭蕉の句も披露されている。
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」
(わび住まいに雨漏りがしている。庭の芭蕉の葉にうちつける雨音と盥に落ちる雨音とがわびしさを強めている。)
「鶴の鳴くやその声芭蕉やれぬべし」
(めったに鳴かない鶴が一声鳴けば、芭蕉の葉もやぶれることだろう)
広くもない池の端まで歩いて、さらに小路を上ると「芭蕉翁之墓」がある。
碑裏には「祖翁瀬田のはしの吟詠を以て是を建て仍てさみだれ塚と称す 寛延三年八月十二日 夕可庵門生 園露什 酒芬路」とある。
神田川を向こうに広がる田んぼを琵琶湖に見立てて、芭蕉が詠んだ
「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」
(五月雨にすべてのものが霞んでいるのに、瀬田の大橋だけがくっきりと浮き上がっている)
この句の真筆を遺骨代わりに納めて墓としたもので、この「五月雨塚」は江戸名所の一つだったという。
この「芭蕉翁之墓」の上方に、芭蕉を初め、宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草らの像を祀った芭蕉堂があるのだが、立ち入り禁止で近づけなかった。
近づけても非公開だから無意味ではあるが。
この他園内には、
「二夜鳴き 一夜はさむし きりぎりす 四時庵慶紀逸」
「真ん中に 富士聳えたり国の春 喜翁松宇」の句碑がある。
巷の喧騒から離れて静かな庭園は、散策にお勧め。
しかも入園無料。
というのは、江戸川公園ですか?
最後にも、江戸川公園・・・と書いていただくとわかりやすいかも。最初の方にしか書かれていないので。
近くに言ったら、寄ってみます。