このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その3回目です。
☐浄土真宗本願寺派・松賢山本行寺(東伊興4-6-10)
震災後の移転だが、被災によるものではない。
真宗の寺らしく撮るべき、書くべき石造物が見当たらない。
辛うじて一つあったのは、ペツト霊園。
宣伝が行き届いていないのか、葬られているのは、どうやら10体未満か。
「伊藤蘭」という名前にドキッ。
キャンディーズのらんちゃんかとおもわず錯覚した。
15 浄光寺 16 蓮念寺 17 本行寺 18 長安寺 19 善久寺 20 常福寺
21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法寿寺 27 専念寺
☐浄土真宗本願寺派・馬頭山善久寺(東伊興4-11-1)
関東大震災後、昭和2年(1927)、築地から移転。
墓地に一際高い墓石がある。
正面には「南無阿弥陀仏」とあり、台石に施主、世話人ら数十人の名前が刻されている。
なんでも石川県能登出身の風呂屋の関係者の合同葬墓だという。
そういえば、空に突き出ている墓石は、風呂屋の煙突のようだ。
東京の風呂屋には、石川、新潟県人が多いと聞いてはいたが、こうした形で知ろうとは。
☐真宗大谷派・伊興山蓮念寺(東伊興4-7-21)
山号が伊興山なので、伊興村時代からの古い寺に思えるが、昭和7年(1932)、長野県で廃寺となっていた寺をここに移して再建したもの。
真宗寺院には珍しく、石仏がポツンポツンと忘れられたようにある。
墓地に一際高い墓標。
「故海軍一等飛行兵曹勲七等功五級 本間金助之墓」と読める。
ありふれた出征兵士の墓のようだが、側面が異彩を放っている。
右側側面には「布哇の真珠湾で空母より出撃して自爆」したとの戦死報告。
そして、左側には母親あての遺書とともに妹への遺言が刻まれている。
「幸子ヘ 兄ラシキ事モシテヤレナカッタ事ヲ許セ 兄ナキ後唯一人ノ母上に良ク事ヘテ兄ノ分ノ孝養ヲモ頼ム 小樽ノ皆様ニ呉呉モ宜シク 攻撃前夜之ヲ認ム 本間金助
昭和十七年十二月八日 母 キヨノ建之」
真珠湾攻撃前夜に書いた遺言であることが分かる。
母親がこの墓を建てた昭和十六年十二月八日と云う日は、真珠湾攻撃1年後のことだった。
戦時下の23歳の青年は立派な大人だったと感慨深いものがある。
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