「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
有名な句だから、知ってはいたが、芭蕉の句だとは。
深川で聞く鐘の音は、はて、上野だろうか、浅草だろうか、という内容だが、実際には、鐘の音はちゃんと聞き分けられたのだそうだ。
上野の鐘は、上野公園にある。
朝夕6時と正午に、今でも、鳴らしている(という)。
江戸時代には、上野と浅草の他、本所横川町、芝切通、市谷八幡、目白不動、赤坂圓通寺、四谷天竜寺の鐘が一斉に時を告げていた。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の句碑は、だが、上野公園にはない。
上野駅前の商店街(アメ横?)にある。
句碑建立に当たり、できるだけ大勢の人の目に触れた方がいいと選定された場所だが、いささか場違いで、碑に目をくれる人は少ない。
姿のいい自然石に、俳人加藤秋邨の書で「花の雲 鐘は上野か浅草か」の銅板がはめ込まれている。
裏面にも、同じ加藤秋邨の詩が刻まれている。
「花の雲を洩れてくる鐘の音から
芭蕉は風雅の世界を呼び覚ました
鐘は上野か浅草か
今この花の雲を洩れてくる鐘の音から
街を行く人々は 何を呼び覚ますのだろうか
それは 明日のしずかに近づいてくる跫音」
一方、浅草の鐘は、もちろん、浅草寺にある。
◇聖観世音宗・浅草寺(台東区浅草2)
本堂に向かって右手前の弁天山に鐘楼はある。
この鐘は、5代将軍綱吉の時代に改鋳され、その際、鐘の音色をよくするためにと黄金200枚が鋳込まれた(そうだが、本当だろうか)。
鐘楼に向かう石段の脇に句碑はある。
が、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」ではない。
「くわんおんの いらかみやりつ 花の雲」
観音といえば、浅草寺。
深川の芭蕉庵からは、約3キロほどの近さ、浅草寺の大屋根は見えたに違いない。
で、肝心の「鐘は上野か浅草か」の句碑は、本堂西側の奥山公園にある。
ただし、芭蕉の「鐘は上野か浅草か」を真ん中に、右に西山宗因、左に宝井其角の句を併刻した、通称「三匠句碑」。
なかむとて 花にもいたし 顎農骨(あごのほね)
宗因
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉
ゆく水や 何にととまる のりの味
其角
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は、貞享4年(1687)の句。
「くわんをんの いらかみやりつ 花の雲」はその前年に詠まれている。
花といえば川向こうの花で、向島の桜は詠んでいないようだ。
浅草には、もう1基あって、それが「宮戸座跡」となっている。
◇宮戸座跡(台東区浅草3)
地図を片手にたどり着いた先は、料亭「婦志多」。
その門の脇に石碑が立っていて「宮戸座跡跡之碑」と刻されている。
碑の側面に「宮戸座」の説明がある。
宮戸座は、明治29年(1896)9月開場、座名は隅田川の古稱”宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)11月この地に再建。昭和12年(1937)2月廃座。ここの舞台で修業しのち名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった 大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。
昭和53年(1978)6月24日 台東区教育委員会
探し求めた芭蕉の句碑は、料亭の塀左端にある。
自然石にはめ込んだ石版に
「象潟の 雨に西施が ねぶの花」
「西施」とは、中国の美女だそうだが、中国の古典にうとい私には、手に負えない。
ただ、象潟が東北の地名であることは分かる。
では,何故、象潟の句がここ浅草にあるのか、その疑問は、道の反対側の説明板を読んで分かった。
松尾芭蕉象潟の句碑
江戸時代に現秋田県本荘藩主であった六郷公が、この浅草に下屋敷を構えたとき、その下屋敷付近の町に、六郷公地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ、「象潟町」と名付けました。
このことにより、平成5年(1993)7月22日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会との間で「姉妹地」の盟約が締結されました。そして、今年が締結10年目にあたり、江戸開府400年目でもあります。
江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」の憂いに満ちた姿と重ね合わせた素晴らしい句を残しております。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
当浅草象潟地域と秋田県象潟町との強い「姉妹地」の関係は永久のものであり、末永い交流により相互の発展に寄与するとともに、江戸文化の復興とその継承を図るため、この句を石碑として浅草の地に建立したものです。
平成15年(2003)7月20日
台東区 馬道地区町会連合会 秋田県象潟町
台東区には、もう1基ある。
◇熱田神社(台東区今戸2)
そう広くもない境内を2回回ったが、句碑は見つからない。
宮司に訊いてみようかと思っていたら、あった。
稲荷神社前の草木の茂みにすっぽり隠れてしまっている。
草木をかき分け、押さえつけていないと、句も読めない。
「古池や 蛙とびこむ 水の音」
今回、芭蕉の句碑めぐりをしているが、これほど手入れがされず放置しっ放しの句碑もめずらしい。
しかも、一番多い「古池や・・・」の句碑だから、なんとなくがっかり。
弘化3年(1846)建立だが、誰が何のために建てたのかは一切不明という。
これで、台東区内の芭蕉句碑は終わり。
次は、隣の江戸川区へ。
◇熊野神社(江戸川区江戸川5)
都営新宿線「一之江」駅から、新中川沿いに南下、堤防を見上げるような低みに熊野神社はある。
折しも秋の交通安全週間で、町会の人たちが神社前のテントに詰め掛けているが、1分間に1台、車は通るだろうか。
道路から石段を下りて境内へ。
左手に芭蕉句碑はある。
「茶水汲む おくまんだしや 松の花」
「おくまん」とは、熊野神社のこと。
神社の前は急流で、流れを和らげるために、「出し杭」が打たれていた。
「おくまんだし」とは、だから「熊野神社前の出し杭」のこと。
出し杭で和らいだ清い水は、江戸城中の茶の湯や野田の醤油に利用されていた(という)。
今の川からは、とても信じられない話ではあるが。
この句は、芭蕉の句かどうか、疑いがあるようだ。
「言い伝えでは」とか「伝説では」とか、の前置きがいつもついて回るところを見ると、芭蕉の句でない可能性が高そうだ。
◇香取神社(江戸川区中央4)
香取神社は、江戸川区役所の近く。
小松川村の総鎮守だったとか、風格がある。
小松菜の産地らしく「小松菜産土神」の大きな石碑が立っている。
芭蕉の句碑は、鳥居をくぐって左にある。
「秋に添て 行かはや末は 小松川」
同じ句碑が江東区大島の大島稲荷神社にあった。
大島神社は、小名木川に面してあるから、深川から舟でくる芭蕉の句があっても当然だが、香取神社にあるのはなぜかと思ったら、江戸川区教育委員会の説明文を読んで分かった。
昔この辺一帯が芦原で船が自由に往来できた頃、その中に浮かぶ道ヶ島という小高い島に、下総の香取大神宮より経津主命の分霊を祀ったのが、香取神社勧請の由緒といわれる。当時国府台間々の入江から、武蔵国上野の台地に向かう船は、この神社の森を船路の目安としたので、間々井宮と称したと伝えられている。
行って見なかったので、不確かだが、神社の東には、親水公園があるという。
この辺りは、船で行き来するのが、自然の土地だったようだ。