石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-1(谷中1丁目のイ)

2016-08-01 05:12:05 | 寺町

上野の山を挟んで、東にも西にも、寺町が展がっている。

このブログの「東京の寺町」シリーズで東上野、西浅草などは回ったが、西の、谷中寺町は、手を付けていない。

ためらう理由は二つ。

一つは、坂の多い地区だから。

脚力が弱くなって、坂道が苦手になった。

もう一つは、日蓮宗の寺が多いこと。

このブログは「石仏散歩」だから、石仏、石碑等の石造物がテーマだが、日蓮宗寺院には、石造物が少ない傾向がある。

浄土真宗寺院ほどではないが、境内に石造物が皆無の寺もあるくらいだ。

谷中寺町の6割は日蓮宗だから、こと、石造物に限れば、収穫はあまり見込めそうもない。

それでも谷中寺町を歩き回って来たのは、谷中の町が醸し出す雰囲気が好きだから。

戦災にも遭わず、焼け残った区域もあって、昭和の匂いがプンプンとするのが,堪らない。

普通、谷中寺町と云えば、JR西日暮里駅の内側西日暮里3丁目や上野桜木の一部も含めての呼称のようだが、今回は、谷中1-7丁目にある寺だけが対象です。

タイトルは「谷中の寺町」だが、正確には「谷中寺町の石造物」。

歴史的な大寺でも見るべき石造物がなければ、スルーします。

では、谷中1丁目からスタートです。

地下鉄「根津駅」を出て、言問通りを北へ上る。

言問通りの左側に谷中寺町は広がっている。

と、思い込んでいるから見逃してしまうのだが、言問通りの右側にも谷中1丁目はあるのです。

1 臨済宗楞伽山天眼寺(谷中1-2-14)

谷中寺町では、少数派の臨済宗寺院。

山号は「りょうかさん」。

武州忍城主松平候により、延宝6年(1678)開基された。

東京都の史跡として、太宰春台の墓が指定されている。

太宰春台は、江戸中期の儒学者ということだが、私は名前を聞いたこともない。

偉人とはいえ、まったく知らない人物を受け売りするのは気が進まないので、紹介はカット。

これからも、私が知らないということで、カットされる「有名人」が続出することになる。

いい年をして誠に、恥ずかしい。

石造物としては、のっぽの無縁塔が目立っている。

スカイツリーが見えれば、対の景色は面白そうだが、残念ながらスカイツリーは上野の山の向こうだから、見えるはずがない。

墓地入口に、年忌法要者のリストが掲示されている。

五十回忌の故人名が並んでいる。

果たして法要されたのは、何人なのだろうか。

寺を去る時、山門前の掲示板が目に入った。

「人の世に」とは、六道のうちの人道を指すのだろうか。

 

寺を出て、左折、すぐの信号を渡って向こう側へ。

黒いタクシーの横が天眼寺。タクシーのすぐ前に「文京区」の標識がある。

横切ってきた道路が言問通りで、別名、善光寺坂。

善光寺坂は信濃坂ともいうが、それは坂上に信濃善光寺の宿院があったから。

宿院善光寺は元禄の大火で焼失、寺は青山に移転したが、善光寺という名前だけが門前の坂に残った。(台東区教委の説明板より)

善光寺坂を渡った所にあるのが、「昔せんべい大黒屋」。

向かいは根岸2丁目で、その間の通りを行くと右に寺が3軒並んでいる。

2 日蓮宗栄源山本寿寺(谷中1-4-9)

 別名「川端の本寿寺」と呼ばれるのは、寺の前に藍染川が流れていたから。

今は暗渠になってその面影はないが、谷中2丁目の「へび道」はいかにも小川の流れそのままに見える。

漱石や鴎外の小説に、この藍染川が何度か登場するようで、文学散歩のブログでは往時の写真が載っている。

境内で目立つのは、2本のノッポの題目塔。

「南無妙法蓮華経妙経自讀三萬部 日観」

もう1基は、同じ刻文で、「二萬部」とある。

日蓮宗では「法華千部会」なる法会がある。

「妙法蓮華経」一部八巻二十八品の語数は、69384文字。

それを、千回読誦するのは大変だからも10人、100人の集団でやる。

10人なら一人100回で済み、100人なら10回で済むという百万遍念仏と同じ発想によるもの。

日観上人は「自讀」というのだから、一人で3万部読誦したということになる。

不眠不休でやるのだろうか、超人間的荒業のようで、日蓮宗寺院が密集する谷中寺町でも同種の石塔は見かけなかった。

 

墓地の奥に、一際、広く大きく目立つ墓域がある。

江戸の長者番付で前頭にランクされる酒屋高崎屋(本郷向丘)の墓。

      現在の高崎屋(東大農学部前)

どれほどの金持ちだったか、天保年間(1830-1844)、当時のスター絵師・長谷川雪旦に描かせた「高島屋絵図」があるほどです。

瓢箪型の石塔は、高崎家の家紋が千成瓢箪だから。

瓢箪は「繁盛、富、権力」の象徴でした。

高崎屋の家訓は「正直第一、謹慎、柔和、家を思い信心肝要」。

信仰心が篤いから、代々、本寿寺の檀家総代として多大な寄進をしてきた。

しかし、大スポンサーの高崎屋を相手に、寺が訴訟を起こしたことがあるというから、面白い。

本寿寺に残る古文書には、その訴訟記録が載っていて、それによれば、高崎屋の女将の葬儀を別の寺で執り行ったことに対して、寺が抗議する内容だという。

 

3 臨済宗祝融山瑞松院(谷中1-4-10)

墓地への入口の宝篋印塔しか見るべき石造物はない。

山門を入って右の隅にポツンと如意輪観音墓標がおわす。

どんないわれがあるのだろうか。

 4 臨済宗龍興山臨江寺(谷中1-4-13)

寛永7年1630)、不忍池南岸に建てられた。

池を望むから臨江寺なのたが、寛文7年(1967)、現在地に移転して「臨江」ではなくなった。

境内に入ると左に「忠節蒲生君平墓」が立っている。

蒲生君平は、宇都宮の人で、江戸後期の熱烈な尊王論者。

林子兵、高山彦九郎とともに寛政の三奇人と称された。

赤貧洗うが如く、乞食のような身なりで、あんまをしながら、天皇陵についての「山陵志」を著した、という人物資料を読みながら、かつての同僚を思い出した。

彼は蒲生君平の先祖の主君、蒲生氏郷の子孫だったが、40代半ばで退社し、マッサージ師となった。

つまらないことで横道をした。すみません。

臨済宗寺院だから、無縁塔にはかなりの石仏が並んでいる。

無縁塔からちょっと離れて、阿弥陀三尊が、放置されたように在す。

*次回更新日は、8月5日です。

 

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html


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