石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

130上野公園の石造物(7)

2017-09-05 08:53:27 | 公園

今回は、寛永寺根本中堂の石造物。

根本中堂は、比叡山の本堂のことだとぱかり思っていた。

寛永寺の本堂も根本中堂だと知って、寛永寺を東の比叡山にしたい天海僧正の気持ちがこういうところにも表れているんだ納得。

もともと博物館前の大噴水辺りにおわしたが、上野戦争で被災消滅、十数年後、現在地に、川越喜多院の本地堂(講堂)を移築して根本中堂としたという。

 

さほど大きくもなく、実に質素な造りで、徳川家の菩提寺という感じがしない。

それとは知らず、前を通り過ぎる人も多いのではなかろうか。

石造物は、山門を入って、右側に纏められている。

先ず目に入るのは、鐘楼。

石造物ではないが、少し触れる。

鐘銘に「厳有院殿 御宝前」とあるように、元々四代将軍家綱の霊廟にあったもの。

明治12年、川越東照宮から講堂が移築され、根本中堂が建立された時、徳川宗家から寄贈された。

厳有院霊廟は、東京大空襲で焼失したので、ここに移されなかったら、現存していなかったことになる。

鐘楼の奥、壁際に六地蔵があるが、銘はなく、由緒は不明。

その左隣の地蔵3体のうち、右2体は、寛永寺裏手の浄名院八万四千體地蔵の内の2体。

中央の大きい立像には「八万四千體之内/第五千七百番」とある。

 

本家の浄名院の石仏群は、石が柔らかいせいか、崩れ落ちているものが多い。

この地蔵は、そうした心配もなく、保存状態は完璧。

石仏巡りをしていると浄名院の八万四千体地蔵に思わぬところで出会うことがある。

去年は、三重県津市の寺で出会った。

八万四千体地蔵の左隣の大きな瓦は、かつての根本中堂の鬼瓦。

高さ248㎝、横幅325cmと説明板にある。

鬼瓦の隣は、聖観音立像。

まるで丸彫りのように、彫りが深い。

柔らかい微笑みが素晴らしい。

像の右に「当山学頭第四世贈大僧正慈海」とあり、左に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三十世」とある。

この墓は、もと上野公園陵雲院墓地にあったが、都の文化会館建設のため、昭和32年、現在地に移された。

慈海僧正は、学僧として有名で、著書多数。

川越喜多院、上野陵雲院、比叡山西塔を兼務執行していたと資料にはある。

 

慈海僧正の墓の前には、尾形乾山の墓と顕彰碑がある。

しかし、これは写し。本物ではない。

尾形乾山は、光琳の弟。

画の他、書、茶道にも通じ、陶芸も能くした、いわば天才。

京都で作陶生活をしていたが、正徳年間、(1711-1716)寛永寺住職となる輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に移り、入谷に窯を開いた。

寛保3年(1743)死去、81歳だった。

墓は下谷坂本の善養寺に設けられたが、上野駅建設のため善養寺が西巣鴨に移転することになり、(以下は顕彰碑の文面より)

明治四十四年、鉄道上野駅拡張の事あり。善養寺一帯取り払われ、寺は西巣鴨に移され、寺内所在の乾山の墓も移さるることとなりしを、(中略))寛永寺の旧地に両石(墓と顕彰碑)をさながらに写して打ち立てここも亦乾山縁故の地たることを後昆に伝うるものなり

墓には、乾山の辞世の句が彫られている。

放逸無慙八十一年一口呑却沙界大千
 うきこともうれしき折も過ぬれば
 ただ阿けくれの夢ばかりなる
          雲海深省居士

昨日(7月21日)、今年初めてセミの声を聞いた。

他に先んじて、土中から現れたセミの抜け殻が、墓にしっかりしがみついている。

時流に先んじて異端だった男の墓に相応しい光景です。

 

左隅の石碑は「了翁僧都道行碑」。

私は了翁僧都を知らなかったが、石碑が亀趺(きふ)に乗っていることから、教育や福祉に尽力した大物文化人であろうことは推測できる。

中国では、古来、亀は万年の命として尊重された。

石碑もこれを亀の上にのせれば、未来永遠に崩れることなく存立するものと考えられた。

亀趺(きふ)が普及した、これが理由です。

中国では、亀趺に乗る行状碑の対象人物は貴族以上に限定されていた。

その決まりは、日本にも持ち込まれ、了翁僧都の顕彰碑が亀趺に乗っているのは、当然のことです。

しかし、この地が寛永寺境内であることを考えると疑問がわいてくる。

歴代徳川将軍の墓や顕彰碑は、亀趺に乗っていて当然なのに、亀趺碑は皆無、1基もありません。

徳川家でも水戸家の墓地には、亀趺が林立しているそうですから、なぜ、寛永寺と増上寺の霊廟に亀趺がないのか、ナゾです。(当ブログ「NO35亀趺」をご覧ください)

了翁僧都をWikipediaで検索、あきれるほどの偉人であることを確認したが、碑文からも一部その人となりを引用しておく。

その白(白衣=俗人)を脱して沙門となりしより、即ち大乗の心を発し、菩薩の行を行ず。戒律を精持し、威義を失せず。風をくらい、露に宿る。己をもって憂えず、ただ仏法の大いに世に興らず、而して世の僧俗にして尽く仏祖の大法をそらんずること能わざるを憂う。すなわち武陵の東叡山に乞いて勧学講院をはじむ。正中に経蔵を築き、以て三蔵の聖教を貯う。・・・・」

亀趺の隣に僧形の座像がおわす。

説明が何もないけれど、了翁僧都その人ではないか。(社務所で確認したらその通りとの返事)

 中央の平べったく高い石碑は「上野戦争碑記」。

上野戦争を彰義隊の立場で回顧したもの。

明治7年に建立計画が成立し実施に移す直前、新政府により中止命令が出て頓挫したものを、明治45年にそっくり建立し直したという曰く付きの碑。

全文白文の長文だが、読み下し文にした資料があるので、転載しておきます。

慶応4年(1868)、戊申正月、伏見の変(起る)。前大将徳川公(慶喜)江戸に帰り、罪を上野(東叡山寛永寺子院大慈院)に待つ。この時に当たって城中(江戸城)紛糾し、議論沸騰す。
老成者いわく、すでに罪を皇室に得、今又兵を出だして担ぎ戦うは是れ其の罪を重ねるなり。恭順して詔命を待つに若かずと。少年の者は皆いわく、今日謂うところの詔命(天皇の命令)は宸衷(陛下の御心)出づるにあらず。乃ち是れ二三幕臣の為すところ(なり)焉んぞ主家の為に冤を雪ぎ、後(後継者))を立つるを請はざるや。苟も命を得ずんば乃ち死あるのみと。悲憤激烈言々人を動かす。余も亦之に賛(成)し、同志諸氏と四谷円応寺に會して謀議す。既にして浅草本願寺に移り、遂に上野東叡山に屯し、将に請う所あらんとす。衆、余をして隊名を撰ぶばしむ。余曰く、大義を彰明するはこの一挙に在り。彰義となさんと欲す。皆曰く善しと。
是において四方より来会するもの日一日よりも多し。十二隊を得。曰く遊激、曰く歩兵、曰く猶興、曰く純忠、いわく臥竜、曰く旭、みな幕府の士なり。曰く萬字、関宿の藩士、曰く浩気、小浜の藩士、曰く高勝、高崎の藩士、曰く水心、結城の藩士なり。首領を立て約束を申べ、分かれて山中の寺坊に屯す。
この時に当たって官軍すでに江戸城にあり。命を伝えて解散せしむ。使者三たび反り、竟に聴かず。
前大将軍水戸に移る。因って輪王寺宮法親王、(公現法親王、後の北白川宮能久親王)
奉じて益々素志を達せんと欲す。官軍その屈強すべからざるを知るや遂に攻撃の議に決す。
初め寛永(年)中、徳川氏、根本中堂を上野に建て、寛永寺と称す。輪王寺宮世々これを管(領)す。金碧熒煌、観美を窮極す。吉祥閣その前に屹立す。環らすに三十六坊を以てし、比叡山に擬し、因って東叡山と称す。地勢爽塏(そうがい)西、不忍池に臨み、東南は下谷に接し、西北は根岸、三河島の諸村に連なる。而して埤堞(ひちょう)の據って(よって)以て守るべきなし。
乃ち急に市民を募集し、木石を運び、塁を築き柵を植う。市民、争って来たり役に就く。巨砲を山王台に置き、以て東南に備う。
山門すべて八、南を黒門と云い、広小路を控う。我が隊、歩兵万字の二隊を率いて守る。東を真黒門と云い、車坂門と云い、屏風坂門と云い、坂本門と云う。この間一帯、丘を負いて市に面す。我が隊、純忠、猶興、遊撃の諸隊(にて)守る。別派の一隊、分かって啓運、養玉の二寺に陣す。西を穴稲荷門と云い、神木、浩気の二隊(にて)守る。清水門と云い、谷中門と云うは、歩兵、臥竜、旭、松石の諸隊(にて)守る。部署既に定まる。乃ち市民に命じ避去せしむ。
去る五月十五日未明、官軍来たり襲う。初め我が兵、山中にあるもの三千余人、事、倉卒(にわかに)出づるをもって、外にあるものは途梗(道路がふさがる)して入ること能わず。また怯恇(きょきょう)遁走するものあり。その留まって拒ぐ(ふせぐ)もの、僅かに千人なるべし。急に命を諸隊に伝え、各々その処を守らしむ。
鹿児島、熊本藩の兵、呼噪 (こそう=さけびさわぐ)して広小路より進み、先ず南門を攻む。我が兵、銃を叢め斉しく発す。官軍辟易す。たまたま、鳥取藩兵の湯島台にあるもの,火を天神別当喜見院に放ち、不忍池の南に沿いて来たり二藩と合し、兵勢漸く加わる。我が山王台の兵、巨砲を発してこれを拒ぐ。少しして火、二か所に起り、煙焔天に張る。津藩の兵、竹町より進むもの、山下の酒楼に登り、簾を埤(ひく)めて狙撃す。我が兵、裡てこれを走らす。
時まさに梅雨、泥濘膝を没す。市民、荷擔して亡(に)ぐ。〇仆困頓、号泣、路に盈つ。而して来りて我を助くるものも亦少なからず。
萩、岡山、大村、佐土原、津、名古屋(等の)六藩の兵、本郷より進んで西門を攻め、先づ我が兵の根津の祠に屯するものを撃ち、突進して直ちに三崎に至る。この地、丘阪高低、道路狭隘、加うるに霖潦(長雨)をもってし、踏趄(行きなやむ)進むこと能わず。我が兵、高きに據り、縦に撃ち、北(に)ぐるを追うて薮下に至り、伏兵に遭いて潰ゆ。根津の南に水戸、富山、高田の藩邸あり。池を隔て、東叡山と相対す。差が、岡山、熊本、佐土原、津、名古屋の諸藩の兵これに據り遥に銃砲を放つ。また一隊を遣わし舟を泛べて水を渡り、来たって穴の稲荷門に逼る。我が兵、善く柜ぐ。徳島、鹿児島、岡山、新発田、津、彦根の諸藩の兵来たり東門を攻む。我が兵、最も少なし。啓運寺の兵、邉え撃ちてこれを走らす。北(に)ぐるを追うて御徒町に至る。官兵、反(そり)戦う。我が兵、且つ戦い、且つ退く。養玉院の兵出て゛て援けてこれを挟撃し、官兵、敗走す。この時に当たって東西南の諸門、皆囲いを受く、我が兵、奮闘す。一人百人に当たらざるはなし。その最も激しき者を南門の戦いとなす。晨(あさ)より午に迄(いた)り、勝敗いまだ決せず。未牌(午後二時)津の藩兵の南門を攻むる者、遷(めぐ)つて山下に出で、肉薄して乱射す。我が兵稍阻む。官兵、勝に乗じて将に南門に入らんとす。我が兵、撃ちてこれを走らす。而して鹿児島、佐賀、鳥取の藩兵、代わって進み、攻撃甚だ急なり。我が兵、死傷相い踵(つ)ぐ。新黒門初めて守りを失う。諸門ついに敗る。是において官兵、三面より斉しく入り、山(東叡山)を奪いて火を放つ。
余、初め難問にありて拒ぎ戦う。敗るるに及んで隊士百人と退いて中堂の前に至る。殊死(死を決して)して戦う。たまたま、火、堂宇に及ぶ。吉祥閣むまた黒煙、猛火の中にあり。天地ために震い、山河ために動く。而して官兵充塞(ふさがる)してまた拒ぐべからず。すなわち走って法親王に謁せんと欲す。親王既に遁(のが)る。之に跡して三河島に至り、ついに追いおよぶ。王、納衣草履、唯一僧のみ従う。余等伏して生死相従わんことを請う。侍僧の曰く、王、将に会津に赴かんとす。卿等去って後図(のちのはかりごと)をなせと、衆みな涙をふるって散ず。
後、一、二年、海内すでに定まる。諸の罪を得るもの赦されて故郷に帰る。余も亦万死を出でて一生を得、当時を回顧して深概に堪えざるものあり。よってその顛末を録することかくの如し。
  明治七年申戌五月
        幕府の遺臣阿部弘蔵撰 清蘇州費廷桂書

 

 

 

 

 

 

 

 


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