東上野と西浅草の間の寺町は、明暦の大火後、曲輪内からの疎開によるものであることは、前回述べた。
江戸時代初期、江戸とは、ほぼ曲輪内を指していた。
全国諸侯の屋敷と寺院は、狭い廓内に密集し、その再編成には武家屋敷の整理と寺院の疎開が不可欠だった。
台東区は疎開先の受け入れ地として、最適候補地だった。
寛永寺と浅草寺に挟まれ、廓にも隣接した空地は、寺院の格好の疎開地だった。
疎開前の寺院の所在地は、馬喰町、谷ノ蔵、須田町、八丁堀、湯島など。
第一次転出持院数は、33を数えた。
上野、浅草間の寺町、2回目の今回は松が谷編。
浅草通りの北、かっぱ橋道具街の西の一画です。
1曹洞宗・東国寺(松が谷1-2-3)
よほど注意していないと、見逃してしまう。
「東国寺」の石柱があるだけで、目に入るビルはマンションばかりだから、通り過ぎるのも無理はない。
マンションとマンションの狭い通路(参道?)を行くと駐車場、その奥に墓域が広がっている。
墓地に入って見たかったが、「立ち入り禁止」の警告があり、退散。
2浄土宗・広大寺(松が谷1-4-3)
東国寺から西へ浅草通りを進むと、右に広大寺の山門が見える。
緑豊かな境内が暑さを忘れさせてくれる。
庫裏の呼び鈴を押す。
現れた住職に「宇野浩二の墓をお参りしたいのですが・・・」と声をかけたら、「案内しましょう」としきみと線香を持って墓地へ。
しきみを供え、線香を点して立ち去りながら住職は「花代や線香代は結構です」。
何十もの有名人の墓を訪ねて寺を回ったが、こんな経験は初めて。
親切な住職がいるものだと驚いてしまう。
小説を読んだことはないのに宇野浩二の名前を知っているのは、松川事件の裁判が私の小学生時代から大学生時代にかけて進行し、被疑者の無罪論を展開し、支援運動の中核をなした人物として、しばしば新聞紙上でその名を散見したからに他ならない。
昭和36年(1961)、仙台高裁の差し戻し裁判での全員無罪判決を知って間もなく、喀血して死去。
法名・文徳院全誉貫道浩章居士。
冤罪事件の報道に接するたびに、なぜか私は、松川事件と作家知識人の支援運動を思い出してしまうのです。