地下鉄「千駄木」駅を出た四つ角が、団子坂下。
団子坂下から三崎坂を望む
西から団子坂、東から三崎坂がぶつかったところだから、「三崎坂下」でもいい。
三崎坂は「みさきざか」ではく、「さんさきさか」と呼ぶ。
谷中、駒込、田端の三つの台地が岬になっていたことから「三崎坂」と呼ばれるようになった。
上野戦争では、官軍の本郷側からの「攻め口」が三崎坂で、坂の両側の寺に潜む彰義隊に悩まされたという。
谷中4丁目の続きの今回は、三崎坂の南側の寺々、妙円寺、妙法寺、天龍寺、本通寺、龍谷寺、永久寺、飯匙の祖師堂が対象です。
では、坂を上って行きましょう。
31 日蓮宗円十山妙円寺(谷中4-4-29)
山門周りは、白黒モノトーンが重厚な雰囲気を醸し出している。
山門から長い参道が真っ直ぐに本堂へと延びている。
15段の石段の効果は、本堂から見た景色に現れている。
高低さを巧みに生かした景観。
樹木がないから広さが際立っている。
層塔の前に勢至菩薩、大型石仏を久しぶりに見たような気がする。
32 日蓮宗龍江山妙法寺(谷中4-4-30)
楼門の向こうに参道が緩やかにカーブしている。
カーブする参道の先には、意外に広い境内と本堂。
境内左の墓地入口に巨大な五輪塔。
「大黒氏萬霊塔」と刻されている。
史跡指定もなく、説明板もないので、知られていないが、マルチアーティスト本阿弥光悦の墓がある。
京都の本阿弥寺は、元々本阿弥家の位牌所だったものを、光悦の死後寺にしたもの。
ここには、光悦だけでなく、本阿弥家の墓が20基くらいあり、妙本寺が本阿弥家の菩提寺であったことが分かる。
本阿弥家は、代々、京都における日蓮宗寺院の大スポンサーとして知られてきた。
同時に、不受布施派との付き合いが深かったとも伝えられている。
33 臨済宗海雲山天龍寺(谷中4-4-33)
狭い境内には、わらべ地蔵がおわすのみ。
本堂左の通路を行くと裏に墓地が広がっている。
墓地入口には、地蔵が並んでいるが、六地蔵ではない。
墓地に、都指定旧跡として、蘭方医・伊東玄朴の墓がある。
1週間前、伊東玄朴は、洋書の翻訳本に名前貸しをしていたという話を聞いたばかりだった。
台東区郷土資料室の企画展「蘭学者がつづる江戸 柴田収蔵日記」のトーク・イベントでのこと。
柴田収蔵は、詳細な世界地図を作製した佐渡出身の蘭学者で蘭医。
彼は、詳細な日記を書き残した。
その日記から浮かび上がる伊藤玄朴は、弟子の翻訳書出版に際し、翻訳者として伊東玄朴の名前の使用を許可していたこと。
無名の弟子の名前で出版するより本は売れる。
名前貸しで玄朴は労せずして分け前を得、弟子は売り上げが伸びて利益を得るという一挙両得作戦。
金がからむと、昔も今も、人がやることは変わらないことが分かる。
34 日蓮宗法栄山本通寺(谷中4-2-33)
山門前に「谷中七福神毘沙門天安置」の石標。
谷中七福神を巡ったことがあるが、本通寺に来た覚えがない。
ネットで調べたら、谷中七福神は250年の歴史を持つ江戸最古の七福神で、本通寺の毘沙門天が、そのうちの一つだったこともあるのだそうだ。
35 日蓮宗栄照山龍谷寺(谷中4-2-35)
境内右手に小堂があって、提灯には「百日咳守護」と書かれ、石塔には「たんぼとけ」と刻されている。
拝めば、咳やたんが治るということだろう。
笠付石塔には軍配が描かれ、その下に「源家侍所別当 佐奈田余一義忠 相州石橋山合戦討死」とある。
Wikipediaには、佐和田義忠は、源頼朝の家来で、源平相戦った石橋合戦で討ち死にした武将とある。
義忠が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、彼を祀る佐奈田神社は喉の痛みや喘息に霊験があるといわれていて、ここも佐和田神社と同じ効能があると云いたいようだ。
石塔に「治承四年」(1180)と刻されている。
そんなに古い石塔は、大発見と興奮したが、単に、義忠が戦死した石橋合戦のあった年を指しているようだ。
治承年間に、当然、龍谷寺も存在してないから、そんな古い石塔がありうるはずがない。
興奮して、損した気分。
*次回更新日は、9月15日です。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html
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