観音坂を下りて右へ。
次の坂、東福院坂を上ると右手に愛染院がある。
右上に伸びるのが、東福院坂(天王坂)
赤レンガが美しい。
旧日本陸軍で多用されていたレンガなので、旧軍施設が隣接してあったのかと思ったが、大正年間、当時流行りの建築資材だったから使用したまで、とは寺の説明。
5 真言宗豊山派・独鈷山愛染院光明寺(新宿区若葉2-8-3)
この寺は、寺号の「光明寺」ではなく、院号の「愛染院」が呼称として使われる。
四谷寺町でも、寺号ではなく、院号で呼ぶ寺はいくつもあるが、それは何故なのだろう?
どこかの寺で訊いてみなくては。
愛染院は、慶長16年(1611)、麹町に創立され、江戸城下の都市計画に基づき、寛永11年(1634)、この地に移転してきた。
西念寺も同じだが、寛永11年移転組が四谷寺町には多い。
四谷寺町にしては広い参道を行くと梵鐘がある。
太平洋戦争時、軍に供出したが、後に返還された。
しかし、鐘楼は戦火で焼失、納まる場所を失ったまま、ここに置かれている。
その隣に庚申塔が2基。
四谷寺町全体で4基しかない(ように思う)。
数が少ないから珍しいが、この、猿の上に青面金剛が立つ姿は、構図としても珍しい。
三猿の一つではなく、御幣を抱える御幣持ちの猿か。
墓域奥に、塙保己一の墓がある。
世に信じられない話は多々あるが、塙保己一の記憶力もその一つ。
6万巻の書物を暗記していたという。
江戸表六番丁に「和漢講談所」を設立、目あきに講義していた。
ある夜、源氏物語の講義中、風で蝋燭の火か消えた。
塙保己一史料館前の銅像
騒がしくなった座を前に「さても目あきとは不便なものだ」と云ったとか。
「番丁で眼あき盲に道を聞き」という川柳は、この当時のもの。
私は、渋谷区にある塙保己一史料館で、『群書類従』の膨大な版木をみたことがある。
国の重要文化財の版木が、実は、ここ愛染院に保管されていたことを今回、初めて知った。
保管していた倉庫が、大正大震災で崩壊、辛うじて無事だった版木は、現在の渋谷区東町の「塙保己一資料館」へ移されたと云う。
この塙保己一の墓は、新宿区の史跡に指定されているが、愛染院には指定史跡がもう一つある。
高松喜六の墓が史跡なのだが、高松喜六の知名度はごく低いと思われるので、説明板を引用しておく。
「内藤新宿の生みの親喜六は、もとは喜兵衛といい、浅草の名主であった。喜六は、当時、甲州街道の宿場が日本橋を出発してから4里(約16㎞)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1697)に同志4人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する誓願を提出した。
翌年、許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。喜六は、正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々、内藤新宿の名主を務めた。
墓石は高さ80㎝で、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。」
6・新義真言宗・宝珠山東福院(新宿区若葉2-2)
愛染院を出て、東福院坂を上る。
この坂は、天王坂とも呼ばれるが、それは、坂を下ったつき当たりの須賀神社がその昔牛頭天王と称していたから。
坂をほぼ上り切った左に、東福院はある。
ここも寛永11年の移転組。
まず自然石に彫られた「弘法大師」文字碑が目につく。
よく見たら、ここが御府内八十八ケ所第二十一番札所であることの標識だった。
永代供養塔の聖観音銅像がすっくとお立ちになっている。
その左、本堂前には、3基の地蔵菩薩がおわす。
真中の、一段と高い地蔵が、かの有名?な「豆腐地蔵」。
左手の手首から先がないが、これが事の由来を物語っている。
「安永年間(1772-81)、この坂下に豆腐屋があった。豆腐屋の主人は陰で金貸しをやり、女を囲う悪徳商人だった。
常連客に出家者がいたが、出家が払う銭は、いつも木の葉に変わった。これは狐狸の仕業と思った主人は、ある日、豆腐を受け取って金を払おうと差し出した出家の右手首を包丁で切り落とした。
出家者の姿は、こつぜんと消えた。
翌朝、滴り落ちた血の跡を辿ってゆくと、東福院に左手首のない地蔵が立っていた。
豆腐屋は改心して信仰に励み、一方、お地蔵さんは、手首をさするとハレモノが治るとの噂で一躍名物地蔵となった」。
切り落とされた手首もあったが、さきの戦災で行方不明になったという。
持参資料には、東福院には2基の庚申塔があると書いてある。
だが、探しても見当たらない。
後日、電話して確認した。
「戦時中の空襲のどさくさにまぎれてなくなった」との返事。
ここまでは、実は、ほぼひと月前に書き終えていた。
一昨日、写真フアイルに6年前の四谷寺町巡りの写真があることに気付いた。
東福寺には、確かに庚申塔がある。
墓地への狭い通路脇にあるのが分かる。
2010-04-30撮影
今もその通路があるのかどうかは、正面から見るだけでは分からない。
寺を改築した時に通路も、庚申塔も姿を消したのだろうか。
「こうして石仏はなくなって行くんだ」と いう実例にぶつかったようで、淋しい。