石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-4

2016-03-10 05:50:15 | 寺町

東福院坂を上ったら、そのまま新宿通りへ。

左折して次の信号を左へと坂を下りる。

信号に「津之守坂入口」とあるが、この坂は円通寺坂。

津之守坂は、新宿通りの反対側、三菱UFJ横の道のこと。

下りてすぐ左に「祥山寺」の標識がある。

7、臨済宗・瑞鶏山祥山寺(新宿区若葉1-1)

洒落た石段を上がると空地かと思う境内が広がっている。

正面の建物が本堂らしいが、寺らしくないので、境内も単なる空地に見える。

右手に墓地があるから寺に違いない。

祥山寺も寛永11年の引っ越し組です。

この界隈は、江戸時代、伊賀衆が住んでいたことは前にも触れた。

祥山寺は伊賀忍者の菩提寺で、忍者寺とも呼ばれた。

境内のお地蔵さんは、だから、忍者地蔵というのだそうだ。

忍者に憧れて来日する外国人が多いらしいが、この忍者地蔵の情報はネット検索で入手できるのだろうか。

忍者の寺の他に、祥山寺にはもう一つ別な顔がある。

それは、新宿区の指定史跡でもある「三銭学校」。

学習院初等科下の鮫が橋付近は、有名な貧民窟だった。

天獄と地獄が一望できる稀有な場所でもあった。

この貧民窟の子供たちの学校をつくるべく四谷寺町の住職たちが立ち上がったのは、明治21年(1888)。

リーダーは、祥山寺住職の小嶋栄年だった。

集まった500円を基金に、授業料無料、教科書、学用品貸与の学校が開校した。

しかし、基金を使い果たして4年で廃校となる。

貧民窟ばかりでなく、界隈の商店の小僧たちも通っていたため、再興の嘆願が相次いだ。

小嶋住職は同志と相談の上、有志1000人が毎月一人3銭を拠出する3銭学校を開校することに。

1か月30円の寄付金をもとに再び無料学校は、開かれた。

校舎は祥山寺、教員は小嶋住職ご自身。

出家者が弱者救済に乗り出すと云う、仏教界にとっても忘れがたい画期的な出来事でした。

 8、日蓮宗・大黒山円通寺(新宿区須賀町2-2)

祥山寺を出て、坂を下りる。

  坂下からの景色。車の向こうの白塀が円通寺。

すぐ右に、坂名となった円通寺があるが、ビル寺で墓地に行くには、ビルの駐車場を通らなければならない。

本堂と思われる側の扉は閉まったまま。

持参資料には、この寺には、日蓮上人作といわれる「厄除け大黒天」が祀られていると記載がある。

9 浄土宗・五劫山思惟院法蔵寺(新宿区若葉1-1)

円通寺の向かいにある。

天正18年(1590)開基の頃は、寺領の北は新宿通りまで及ぶ広さがあったが、寛永の幕府による用地召し上げで一挙に狭くなったという。

境内に入ると2基の地蔵が目に入る。

右の地蔵は、左手に子供を抱いている。

台石に親子地蔵とある。

墓地入れ口に立派な宝篋印塔があって、脇の石碑に「法蔵寺開基 西松平福鎌家」と刻されている。

すぐそばに二基の巨大な六字名号塔。

大きい方は、寛文4年(1664)造立、

やや小さい、笠付きは、宝暦5年(1755)造立。

どんな謂れがあるのか寺に尋ねたが、電話に出た女性は、六字名号塔も知らなかった。

10 真宗大谷派・慈眼山真英寺(新宿区若葉2-1)

 円通寺坂を下りきって道なりに左へ曲がると左に「真英寺」の石柱。

その横に石段があるので、上がってゆく。

屋上には本堂と墓地だけ。

石造物が皆無なのが、いかにも真宗寺院らしい。

本堂の濡れ縁に上がって、寺町の俯瞰を撮る。

俯瞰といっても、谷の一番底なので、広がりはたいしたことはない。

中央に見える道路は、写真右方角から円通寺坂を下ってきて、道なりに左へ曲がったところ。

ぐにゃぐにゃ曲がっているのは、入江の先端がここまで伸びていた跡です。