石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-5

2016-03-13 08:01:57 | 寺町

11 日蓮宗・高見山日宗寺(新宿区若葉2-3)

真英寺の真向かいに日宗寺はある。

小湊の誕生寺の末寺で、他寺と同様、寛永11年の移転組。

高見山というと青森出身の朴訥なお相撲さんを思い浮かべるが、彼は四谷に同名の寺があることを知っているのだろうか。

この情報化時代、私は「知っている」方に懸けるが、あなたはどうですか。

日蓮宗寺院でよく見かける浄行(じょうぎょう)菩薩がおわす。

正確にば、日蓮宗寺院で「しか見かけない」というべきか。

薬師如来が説法をしていた時、大地が割れ、浄行菩薩ら4菩薩を筆頭に無数の菩薩が湧き出た。彼らは、釈迦亡き後の末法の世において仏法を護持するものとされ、日蓮は自らを浄行菩薩になぞらえていた。(Wikipediaより)

墓地には、『広辞苑』の編者・新村出の墓がある。

「にいむらいずる」だとばかり思っていたが、「しんむらいずる」が正しいらしい。

これもWikipediaの受け売りだが、「出」という名は父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された、のだそうだ。

辞書編纂者の苦労話は、三浦しおんの『船を編む』でよく分かったが、偏執狂でないと務まらないだろうとも思った。

新村出は、「超」がつく偏執狂だったに違いない。

墓域奥に「日本醫史學會 東京名墓顕彰會」なる石柱を見つけた。

背後の墓銘は「瑞仙隠殿法印楽義居士」。

資料には、江戸中期、幕府の医官を務めた栗本瑞見とあるが、どういう人か私は全く知らない。

「四谷寺町ー1」の西念寺には、天正12年と元和6年の墓石があることを記したが、日宗寺にも「元和二丙辰二月」の墓がある。

元和年間の墓など探せばいくでもありそうだが、まず滅多にお目にかかれない。

貴重品なのです。

人間の墓地にペットの墓があることは、最近珍しくなくなってきたが、「猫塚」は珍しい。

浄行菩薩の前の塀際には、昭和の終わりころまで、池があって清水が湧いていた。

鮫河橋から赤坂御所内を通り溜池に注ぐ鮫河の源流だったというから、信じられない気がする。

なお、境内には句碑があるが、私には読めない。

原句を教えてもらうべく寺に電話をしたら、「忙しいから」とガチャと電話を切られた。

 

日宗寺を出て、右へ。

やがて観音坂にぶつかる。

左へ坂を上れば真成院だが、そっちへは行かず右へ。

突当りの急な石段を上がると、そこが須賀神社。

12 須賀神社(新宿区須賀町5)

須賀神社は、四谷18ケ町の総鎮守。

外堀普請の為、他寺とともにこの地に引っ越してきた「寛永11年移転組」。

移転してきた時は、稲荷神社だったが、すぐに神田明神摂社の牛頭天王と合祀、「稲荷天王」と称された。

その名残は、神社前の「天王坂」に残っている。

明治初期の神仏分離令で、社号を須賀神社に改名した。

天保年間に描かれた「三十六歌仙絵」が戦火を免れ、社宝として保存されている。

本殿左脇に36枚のコピーが展示されている。

下の写真は、本殿内に掲げられた8人の歌仙絵と天井格子絵。(須賀神社HPより)

境内には、町火消「く組」の火の見梯子と半鐘がある。

高台だから昔からこの地にあったのだろうかと思ったが、調べたらそうではないことが判った。

老爺の胸像がある。

近寄って見たら、30年の長きにわたり須賀神社の氏子総代を務めた人の顕彰碑だった。

氏子総代の顕彰碑は、あるようでない、極めて珍しい事例といえよう。

須賀神社の女坂を下りてゆくとすぐ下に妙行寺がある。

12 日蓮宗・稲荷山妙光寺(新宿区若葉2-4)

須賀神社の真下にあって、稲荷山と号するのだから、妙行寺は、てっきり須賀神社の別当かと思ったが、なんの関係もなかった。

境内に、長文の縁起が掲示されている。

それによると、江戸城拡張工事という理由は同じながら、慶長19年と他寺とは違った時期に移転してきたらしい。

かつては赤門の寺だったが、それは檀徒の娘が大奥に入り、その関係で幕府から許されて赤門になったという。

彫刻は、かの有名な甚五郎作だったらしいが、すべて戦塵と化した。

境内、墓地にこれといった石造物はない。

わずかに、すらりと伸びた青石の自然石「南無妙法蓮華経」塔が人目をひくばかり。

四谷寺町を歩いて気付くのは、手押しポンプが現役であること。

あちこちの寺の墓地入口で見かけた。

良質の地下水に恵まれているからか。

浅い地層に水流があるからか。

物を大事にする風習があるからか。

昭和生まれとしては、そこにあるだけで、やたら嬉しくなる、ポンプなのです。