石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-9

2016-03-25 05:53:59 | 寺町

21 日蓮宗・平等山本性寺(新宿区須賀町13-3)

本性寺の山門と山門を入って正面の毘沙門堂は、戦災に遭わなかった、四谷では珍しい貴重な建造物です。

毘沙門堂は、総欅造り間口3間、奥行7間の釘は一切使わず、切組造り手斧(ちょうな)削りで建立されている(一部後に改造される)。山門も同様で、門は290年前(延宝の頃、将軍綱吉の頃)、堂は220年前(寛延頃、9代家重将軍の頃)のものであるという。(ブログ「猫のあしあと」より)

毘沙門堂におわす毘沙門天像は別名「北向き毘沙門天」と云われるが、それは北方にある仙台藩の伊達氏が謀反を起こさぬよう、毘沙門天を北向きに安置して祈願していたから。

神田川の掘削工事を命じて、伊達氏の財力の弱化を謀るだけでは、家康は安心できなかったと見える。

墓地に入る。

所々にベンチがおいてある。

墓参者への、寺の気遣いがうれしい。

有名人の墓としては、萩原宗固の墓だろう。

萩原宗固は塙保己一の師だったそうだが、私はしらなかつた。

説明板があるので、書き写しておく。

萩原宗固の墓

江戸中期の国学者、塙保己一の師で歌人でもある。市ヶ谷本村町の鈴木家に生まれ、後に萩原氏の養子となって、本名貞辰、通称七左衛門といい百花庵と号した。幕府の御先手与力を務めたが、病により辞した後は国学を学び、和歌に親しんだ。晩年は四谷荒木町に住み、八十二歳で没した。著書に「一葉集」、「蜻名遺傳」、「蜻蛉日記注釈」などがあり、和歌は冷和泉為村に学び、次のような名吟がある。
「夢なれや枕ならべてねし人も聞かぬ初音の山ほととぎす」。

無縁仏の中に酒樽墓標がある。

いつの時代にものん兵衛はいるから、酒樽の墓は日本中どこにでもある。

3人の戒名の内二人は女性。

女の大酒のみだったのだろうか。

今、流行りのペットの墓もあるが、犬と猫、別々に葬る所にこの寺の特色があるようだ。

           犬の墓

           猫の墓

 

22 真言宗豊山派・金剛山蓮華院顕性寺(新宿区須賀町13-3)

 

顕性寺には、寺宝の「まないた大師」があるのだが、拝見できない。

となると写真の材料としては、門を入って左に立っている標柱だけということになる。

正面は

「 御府内八十八ケ所
 南無大師遍照金剛
  第四十四番   」

右側面に

「文久二壬戌年八月  是ヨリ右江十三丁 千駄ヶ谷聖輪寺
 伊豫国大覚院写   是ヨリ左江二丁 南寺町文殊院   」

御府内八十八ケ所の札所であることを示し、同時に道標も兼ねていることが判る。

なお、右側面にある「文殊院」は二十六番札所で、戒行寺坂にあったが、明治の初め廃寺になって、今はない。

23 日蓮宗・妙性山正覚寺(新宿区須賀町14)

左門町交差点を東に入って、すぐ右にあるビル寺。

大きいが、戦災ですべてを焼失し、古い文化財はない。

寺院斎場を経営し、墓地には真新しい墓が並んでいる。

「〇〇家」以外に斬新な意匠の墓標も散見できる。

紹介しようと写真に撮ってきたが、プライバシーを犯す恐れがあるようなので、掲載を諦めた。