西念寺を出て左折、突当りを左へ曲がり、すぐ右へ曲がると新宿通りへ向かう道になる。
左の電信柱の背後は西念寺の塀、右に曲がると新宿通りへ。
この道は、女性の権利に関わる事件や人物と縁が深い。
寺町とは無関係だが、ちょっと寄り道をしよう。
「敵討ち」は知ってても「妻敵(めがたき)討ち」となるとどうか。
妻が不義を働いたとき、その相手を討ち取ることを「妻敵討ち」と云った。
享保の時代、この道で、妻敵討ちがあった。
不義はご法度で、駆け落ちは命がけの時代だったが、そこは人の世、抜け道はちゃんとあったらしい。
「間男七両二歩」とか、浮気の代償として七両二歩を夫に払えば、見逃してもらえたという。
夫にとっても、妻のスキャンダルは外聞が悪い。
できるだけ内聞にしたいから、事件になることは少なかった。
駆け落ちの家老の妻と家臣の男は、七両二歩をケチったのか、大胆不敵だったのか、あえて「事件」となる道を選んだ。
表ざたになったがために、家老はいやいやながらも間男を探すことになる。
そして、3年後、この道で膏薬売りに変装していた間男は、家老とバッタリ出会い、逃げるところを背後から斬り付けられてしまう。
もちろん、不義の妻もつかまり、奉行所で死罪を申し付けられるたという。
不義密通の妻を女権論と組み合わせるのは、いささか無理がある。
しかし、この界隈にフエミニストたちが住んでいたのは事実です。
「元始、女性は太陽だった」の平塚らいちょうと女性運動家・市川房江が間借りをしていたのはこの通りの家で、主婦連の奥むめおの自宅も若葉にあった。
再び西念寺へ戻る。
西念寺の塀沿いに西へ進むと左に坂が見える。1380
観音坂と標識にはあって、以下の説明がある。
「この坂の西脇にある真成院の潮踏(塩踏)観音にちなんでこう名付けられた。潮踏観音は、潮干観音とも呼ばれ、また、江戸時代には西念寺の表門が、この坂に面していたので西念寺坂ともいう」。
坂を下りると右手に見えてくるのが、
◇真言宗豊山派・放光山蓮乗院千眼寺(新宿区若葉2-8-6)
民家のような建物が庫裏で、正面が本堂だろう。
扉は開いているが、ちょっと入るのをためらう気分。
朱色の「南無遍照金剛」が目につくなあと思っていたら、御府内八十八ケ所霊場の83番札所だという。
ちなみに蓮乗院の下の真成院は、第39番札所。
いつも不思議に思うのだが、隣り合っているのだから連番にすればいいのに、なぜ、離れているのだろうか。
◇浄土宗・信壽院楽生庵(新宿区若葉2-9)
蓮乗院の真向かいが、信壽院。
こちらは扉も閉まっている。
一見狭そうな感じだが、向かいの真成院ビルの上から見た所では、結構広い。
◇真言宗・金鶏山真成院(新宿区若葉2-7-8)
蓮乗院の下、信壽院の向かいの8階建てビルは、一見、寺らしくはないが、青と赤の幟が林立していて、寺だと分かる。
これだけ幟があると、信仰よりは、商売に力点があるように感ずるのは私だけだろうか。
寺のパンフには、「癌の駆け込み寺」とある。
「難病平癒の祈願所」の文字もある。
死に対する恐怖心を和らげる力が宗教にあるとは思うが、難病を平癒することができるとは私は思わない。
坂に面して掲示板があり、維摩経の一節が掲示されている。
「海に沈む宝は
もぐらなければ
得られないように
迷いの泥海の中に
入らなければ
悟りは得られない」
青色の幟には「潮干観世音」とあるので、お寺に断わって、ビル最上階の観音堂へ。
内陣へは上がれないので、詳しくは分からないが、十一面観音のようだ。
縁起書によれば、「昔はこの辺りは海岸で、潮の干満によって観音像の台石が濡れたり、乾いたりしたので、潮踏観音と呼ばれるようになった」とのこと。
その台石は、享保10年(1725)の火災で焼失してしまって、今はない。
『江戸名所図会』にも潮干観音は描かれている。
「聖天」の文字が見えるが、これも真成院。
戦前まで、この寺には歓喜天が祀られていた。
歓喜天は、もとバラモン教の神で、象頭人身の男女が抱き合うエロチックな護法神。
災いを除き、福をもたらす「聖天さま」として、人気があった。
寺の玄関前には延命地蔵や稲荷神社に並んで、線刻像がある。
浅い線彫りで像がはっきり見えない。
寺に訊いたら、上が十一面観音、下右が、弘法大師、下左が地蔵菩薩だとのこと。
これはこれなりに珍しい組み合わせということになる。
観音坂を下りて右へ。
次の坂、東福院坂を上ると右手に愛染院がある。
赤レンガが美しい。
旧日本陸軍で多用されていたので、旧軍施設がこの地に隣接してあったのかと思ったが、大正年間、当時流行りの建築資材だったから使用したまで、とは寺の説明。