石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-8

2016-03-22 05:21:23 | 寺町

18 曹洞宗・蟠龍山永心寺(須賀町11)

永心寺も寛永11年移転組。

永心寺の山門と本堂は、享保11年(1726)の建築。

修理中に棟木から発見された墨書、棟札から分かった。

四谷寺町でも最も古い建物の一つ。

本堂の間口は七間、奥行き五間半屋根は寄棟作りの瓦葺。
出桁造りの式台玄関で、千鳥破風が屋根についている。
広縁の竹の節欄間、間仕切りの襷欄間、など大胆な構成と古式風の調和が見られ、江戸中期の力強さが感じられる」(安本直弘『その歴史と文化を訪ねて』より)

台石四隅に彫刻が彫られた墓石がある。

十六羅漢だろうか。

永心寺より西へ2軒先、左へ下るのは闇(くらやみ)坂。

標柱に「この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗らい坂であったため、こう呼ばれたという(御府内備考)」。

 

坂を覆う樹木などはどこにもなく、闇坂どころか「日照坂」が似合いそう。

松厳寺は坂の途中からも本堂が見えるが、庭らしき境内に巨木は見当たらない。

太平洋戦争の東京大空襲で往時の面影は一変したようです。

 

闇坂の角に「谷石材工業」がある。

「寺町なのに石屋さんがないなあ」と思って歩いてきたが、やっと見つけた。

玄関先に彩色の対の狛犬がおわす。

自信作なのだろう。

手水鉢もある。

19臨済宗・雲龍山松厳寺(新宿区須賀町12-6)

松厳寺の山門は、南寺町通りから少し入った所にある。

閉扉されていて入れないが外から見た限りでは墓地はない。

墓地は、大崎共同墓地にあるらしい。(ブログ「猫のあしあと」より)

 

20 法華宗・正妙山法恩寺(須賀町13)

享保10年(1725)の大火で、一切の文書を焼失、寺の開基もはっきりしないのだと云う。

墓地には、上総の豪族、千葉介常胤の供養塔とその後裔一族の墓があるらしいが、墓地に入る許可を得なかったので、写真はない。

個人的な事情で恐縮だが、私は千葉介常胤なる人物を全く知らない。

以下は、『四谷散歩ーその歴史と文化を訪ねて』からの転載です。

千葉氏は古代末期より中世に到る関東の頭領で、桓武平氏―村岡良文の流れを汲んでいる。当所、今の取手・我孫子一帯を開発して、相馬御厨を本拠とし、代々、千葉介常胤を拝命していた。治承4年(1180)常胤は、頼朝を安房に迎え、各地を転戦して勝利を重ね、源氏再興の原動力となった。この功績により、常胤は下総守護に任ぜられ、このほか伊賀、大隅の守護職も兼ねた。
常胤の子は一族としてそれぞれ独立し、千葉六党として勢力を振るうようになるが、享徳4年(1455)一族の内乱から胤直、胤宣親子が自刃して勢力が衰えた。戦国時代には、後北条氏に属し、天正18年(1590)、秀吉の小田原攻撃により滅亡した」。