HAVE A NICE DAY!

徒然なるままに特に音楽の話を中心にあーだこーだと書き連ねます。

花の種は太陽の下でしか咲かない

2006年11月04日 | Weblog
昨日というか正確には今日なんだけど深夜3時までNHKの教育チャンネルを見ていた。それは再放送のETV特集だった。

「夜回り先生」と呼ばれている水谷修さんの講演とインタビューだった。

「夜回り先生」という本が最初に出た頃ぐらいに彼の存在を知り、こんな先生もいるんだと感動したことを憶えている。でも、いつの間にか日は流れていた。

久しぶりに彼の講演や話を聞いて、涙が出そうになった。彼ほど真剣に子どもの事を考えている人はいないんじゃないかというぐらい、彼の言葉には愛情が溢れている。でも、彼は愛だけでは救えないことも身を持ってしっていて、その苦悩の中で自分とも戦っている。

彼はもともとは夜間高校の先生であり、深夜繁華街で非行に走るこどもたちに声をかけ、救って来た人だった。ところがやがて薬物中毒の子からリストカットする子、虐待を受けている子の心の相談まで受けるようになっていった。そして、何人かを救い、何人かを失った。命を失った子は自分のせいだと彼は思っている。そんなことはないのに彼は自分の努力不足だと責める。

ひとりでは無理なんだ。どんな人でも・・・

この水谷先生のような人がたくさん出て来たら、今度こそ本当に全員助けられるかもしれない。だから、全部は彼のようにできなくても、その一部でも自分ができそうなら、大人たちはやるべきだと思う。

彼は中学の講演会で子どもたちにいう。

「君たちは昼の世界にいる人だ。そして、花の種には太陽が必要なように君たちは昼の世界で生きるから花を咲かせられる。でも、僕は夜の世界の人だ。そして夜回りしてそこで出会うこどもたちは君たちとはぜんぜん違う。でも、彼らを昼の世界に返して、花を咲かせられるようにしたい」(私の記憶を書いたもので、正確な内容ではないのであしからず)と・・・

今教育問題とかいじめ問題とか虐待とか世間で言われている。

テレビでも教育特集とか言っているわりにたいしたものはない。このETV特集でもなぜに再放送だからって深夜なんだろう。ゴールデンにやるべきだ。

テレビ局も利益ばかり考えずにそれこそ24時間テレビをやるぐらいなら、24時間子どものための番組ばかりやる日を作れないものかな。だいたいアニメも昔に比べて少なくなっているし、ドラマも心を育むものが少ない。大人がどうすべきかも大事だけど、今こどもである人たちの心に訴える方が大事だと思う。

イギリスではこういう取り組みが盛んにされている。テレビでベッカムとかの子どものあこがれの人を使って「自殺はだめだ」ということを訴えたり、そういう番組をたくさん作っている。日本でも一日中いっさい他のCMは流さず、いろんな有名人から子供達に「死んではいけない」「生きていて」というメッセージを流し続けてもいいんじゃないのかな?そうすれば、思い留まる子も何人もいると思う。自殺のニュースを流すのではなく、「してはいけない」というメッセージを流すんだ。いい加減にしてくれって思われるほど・・・


「生きてくれているだけでいいんだよ」

って水谷先生は言うんだって・・・ボロボロになった子たちに。



そんな水谷先生は今ガンに蝕まれている。なぜに神様ってそんなことをするんだろう。こんなにも子供達には必要な人なのに。


どうかガンに先生が勝利してくださるように祈ってます。
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ギリシャの壷

2006年11月04日 | スポーツ/芸術/コラム
昨日は京都はまさに行楽日和で驚くほどの人の多さに圧倒されながら、私は弟子Aと京都市美術館へ行って来た。明日までなんだけど今「ルーヴル美術館展」をやっていて、彼女が行きたいというのでいっしょに行ったわけだ。今回は古代ギリシャ芸術のものだけだったので絵はいっさい無かったし、ギリシャ彫刻や壷しか展示されていなかった。もし、今流行っているダビンチコードの影響でダビンチの絵を見れると思ってきた人はがっかりしたかもしれないけれど、私は古代ギリシャの彫刻とか好きなので楽しかったし、彼女も楽しんでいた。

しかし、これもすごい人でUSJかと思うほど入場するのに列ができていた。でも、USJで並ぶのに慣れてしまっていた私たちにはそんなに苦痛ではなかった。館内に入っても係員の人が大きな声で「これは順番なんてないので空いたところからご覧ください」って叫んでいた。

それほど人が多かったということだ。でも、案外ギリシャの壷はそんなに群がるほど人はいなくて、ゆっくり見れた。ギリシャの壷って独特のチョコレート色をしていて、絵が人の首は横向きなのが多いんだけど体は正面みているのとかあって、それがまたおもしろい。なぜにあんな色なのか・・・おそらくあの辺りの土の色も関係あるのかな?赤土だものね。

古代でもやっぱり音楽は大事だったみたいで、音楽のシーン・・・すなわちライブの描かれたものもあった。あるいは芝居もギリシャではさかんだったので芝居が描かれていたのもあったし、喜劇役者をかたどった彫刻や芝居に使うお面もあった。

古代の音楽ってどんなんだったんだろう?

びっくりするぐらい現代の音楽と共通してたりして・・・


そんなことを考えながら、あるいは絵や彫刻の表情とかを見て弟子Aと勝手に話を作って、たまにお笑いも混じって楽しみながら観賞していた。


遠い昔、フランスのルーヴル美術館に行ったことがある。かなり広かったと思うけど、印象に残っているのはミロのビーナスが置いてあった彫刻の部屋だ。今は違うと思うけど、当時は彫刻が私の印象では実に無造作に適当に置かれている感じだった。見学者もそんなにいなくて、静かで、その場所がすごく気に入って、結構長いことそこにいた。

一方でモナリザの部屋は厳重すぎて、なんかつまらなかった。

私は風景画に少しだけ人を描くコローの絵が好きで、ルーヴルで憶えているのはコローの絵だったりする。

昨日の展覧会で出口を出たところにはルーヴルグッズがたくさん販売されていて、模写の絵なんかも展示されていたんだけど、そこにコローの絵を見つけて懐かしいな~って思い出した。


そんな文化の日らしい美術観賞をした後は河原町に戻って、まずは2人でケーキを食べ(笑)次に紀伊国屋書店に寄って、弟子Aが彼女がお気に入りの雑誌『NYLON』(この雑誌はそんなに部数を発刊していないのかすぐになくなるらしく、また地方だと置いて無い書店も結構あるらしい)を購入。それから、ブラブラ歩いてロフトへ。ロフトの文具売り場で彼女はスケッチブックやら絵の具やらを購入。私も前から欲しかった手帳を購入。その後HMVに行くとマイケミカルロマンスのPVが流れていて、そこには輸入盤にもかかわらず珍しくコーナーができていた。国内盤ならそれだけコーナーを作られるのはわかるけど、まだ国内盤が発売されていないというのに・・・

おそらく、感情の起伏が激しい人や熱くなりやすい人はマイケミカルロマンスを好きになるだろう。でも、淡々とした人やそれほど感情の起伏が激しくない人は苦手に思えるかもしれない。クイーンが好きな人は好きになる可能性は高いけど、嫌いな人はだめかもしれない。

イギリスで彼らが今人気が高いのはおそらくクイーンの「ボヘミアンラプソディ」がビートルズの曲を抜いて国民的人気ナンバーの曲として選ばれたことと関係あるような気がする。イギリス人はクイーン的な曲が好きなんだね。

そのPVをひととおり見た後に私はやっと探し当てたパニックアットディスコの輸入盤のアルバムとAFIの新譜を買った。AFIの方は最初買うつもりは無かったんだけど、弟子Aにせがまれてついつい買ってしまった。まあ、私自身も聴くからいいかと・・・

彼女はずっと欲しかった形の靴を偶然あるお店で見つけて購入し(なんと2100円)それで幸せそうな顔をしていたので、見ていて微笑ましかった。

2人で夕食をとり帰宅。

ひさしぶりに彼女とゆっくりとした時間を過ごせてよかった。

それにしても、買い物した内容を振り返ると・・・我ながら相変わらずだな~って。
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文章の不思議

2006年11月04日 | Weblog
文章というのは不思議だ。さりげなく書いていてもその書き手の持ち味や性格や人間性やいろんな事を指し示す。

たとえば、ネットで見るいろんな人の日記や掲示板などからもそれは伺い知れる。

私はネットで知り合った人と会うことはあまりない。でも、音楽関係ではライブを見に行った時にそのアーティストと会ってお話したり、ファンの方とそこで挨拶したりすることはある。

そんな時に先にそのアーティストやファンの方の文章を読んでいて、そこから感じたものはだいたいお会いするとその印象のままだったりする。

それが不思議なことだ。


逆に文章を読んで「なんか軽薄そうだな~」とか「なんか自分勝手そうだな~」とか「冷たい感じだな~」とか感じた人とたまたまなんらかの時に出会って、最初は「なんだ私の思い違いか。よかった、そうじゃなくって」と思っていても、その後だいたいはやっぱり文章で最初に感じたその性格や人間性の人だったとわかることとなり、がっかりする。

こう思うと文章を書くのはちょっと恐い。

私の文面からも性格やら人間性やらを鋭く分析している人もいるだろう。実際私を知っている人は「書いていることと違う」と思っている人もいるのかもしれない。


ただ、どう思われようが、私は文章を書く時にはやはり心を込めている。それはいい時も悪い時も。ものすごく怒っている時なんかはそのままに書きなぐってしまっていることもあり、それを読んで不快な気持ちになる人もいるかもしれない。そういう時は申し訳ないと思うけど、そうすることで自分の中のガス抜きをしているわけだ。


あるいは嫌われるような文も書いていることもあるだろう。でも、好かれることも嫌われることもない文を書くことはできるだけ避けたいなという願望がある。もちろん、どうってことのない文を書いてしまうこともある。でも、そういう時は自分で読んでつまらないし、気が入ってないな~って思うから、読み手もつまらないな~って思っていると思う。


人に嫌われても好きになってもらえても、それがマイナスとプラスのエネルギーであっても、それだけ私に向けてパワーをくれているというのはある意味幸せなのかもしれないな~って思ったりする。

なんとも思わない。ふつう・・・とか言われるより「おまえなんて嫌いだ」って言われる方が自分の存在を感じられていいのかもしれない・・・って最近思う。


まあ、今はある程度の大人の世界にいるので、あえて面と向って「おまえなんて嫌いだ」っていってくる人はいないけど、「嫌われているな」って感じる態度をとる人はいて、そういう人には内心「はっきり言ってくれよ」って思ったりする。なんか陰険な態度の人は嫌だな。はっきりしている人が私は好きだ。たとえ「嫌いだ」って言われても。


だれからも好かれようなんて少しも思っていないし、だれにでもいい顔して同等に付き合おうなんても思っていない。ただ、いつも私は心を人の中に探している。本当に信じられる心を持っている人を。たくさんいらない。ほんの数人でいい。思いやりの心をそこに持っている人を。たとえ迷ったり揺れ動いたりしながらも、人のうわさ話だとか悪意に満ちた助言とかには左右されずに、最終的には自分で感じたことを優先して判断し、選択できる人を。

私は自分が出会って、なんらかの形で繋がった人たちそれぞれに対して同じように接したりはしない。それぞれの人に対して敬意を払い、それはもちろん年令も関係なく、職業も関係なく、男女も関係なく、できるだけその人と私のオリジナルな関係をいつも築いていこうとしている。


人の心っていうのは見えないけど、私には生きている今はなによりも大切なものに思えるんだ。見えないんだけど、感じるんだ。素敵な心を持っている人は胸のあたりから光が放たれるのを・・・


たまに京都駅の雑踏の中で、ふと行き交う人たちのそれぞれの胸にいろんな色の光が放たれているように感じてしまうことがある。もちろん妄想にすぎないけど・・・

今まで出会った人の中にきれいな色の光を放つ人を見つけた時は、できるだけずっと友達でいたいと思う一方で、これから出会う人の中にもそんな光を放っている人がいっぱいいたらいいなと願っている。


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