・「タオ自然学」でフリシチョフ・カプラは「万物は他のすべてとつながっておりすべての現象は究極的に相互に影響しあっている。宇宙は相互に関連しあった一つの全体であり、その中のいかなる部分も他に比べて根源的ではない。あらゆる部分の特性は他のすべての部分の特性によって決定される。あらゆる部分が他のあらゆる部分の物事の結果である。いわば個々の部分が他のすべての部分を「含む」のである。出来事一つ一つが全宇宙に . . . 本文を読む
此の如く因果二分の釈をなし、華厳経は普賢因人の境を説けるものなりとの解釈は、これ華厳経の十地品を釈せる、天親菩薩の十地経論の文によれるものである。即ち同論第二に「前言十地義。如是不可得説聞。今言我但説一分。此言有何義。是地所攝有二種。一因分二果分。」
此の十地経論の釈文は、六十華厳なれば、第二十二の十地品に「如空迹難説 何可示其相
十地義如是 非無邊心知 是事雖爲難 發願行慈悲 漸次具 . . . 本文を読む
成功した最先端を行く科学者は皆信仰を持っていました。その例を数回に分けて書いていきます。
・2015年ノーベル医学生理学章受賞の大村智博士は毎日近所の複数の神社を熱心にお参り祝詞を挙げている姿が放映されていました。・2010年には小惑星探査機「はやぶさ」が奇跡の帰還を果たしましたが、責任者の川口淳一郎宇宙機構教授はゆかりの「中和」神社や「飛」不動様を熱心にお参りしていたと報道にありました。
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即ち華厳経の説相を見るに、其の説者は釈迦牟尼如来にあらずして、因位の普賢、文殊、法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵等の諸菩薩である。
華厳経には佛駄跋陀羅Buddha-bhadra 所訳の六十巻の本と実叉難陀Siksananda所訳の八十巻本とあり、その六十華厳によれば七処八会、即ち説法の会座が七処にして、説法の度数が八回、また八十華厳によれば七処九会である。
其の中六十華厳に依れば第一会の寂滅道場 . . . 本文を読む
次に華厳宗の所説によれば、萬有の開発を明かすや一法縁起すれば法界現起する、無尽縁起の幽秘を開顕するものである。しかも染縁起の現象界は真妄和合の生起にして、阿梨耶識を本となすものなれば、迷界には個体我の存在を認むるものである。
しかしてかの天台は真諦空の説を宣揚する三論の教義を根基として、成ぜしむるものなるがゆえに、三諦円融、一念三千の妙旨を開説するも、究竟は真諦には三千の差相、即ち個別の相を絶 . . . 本文を読む
凡そ大乗には有即空の玄旨を開設し、有空不二の故に事事円融一即一切の法性の真趣を顕示するも、而も観行実修には、未得者の法性を執し戯論を生ぜんことを恐れ、無生空を観ぜしむるものである。弘法大師は一代佛教に個体も無我無自性なり、真如法身も無相なり、即ち無相不可得を究竟の道諦となすはこれ一代佛教は因人の我愛妄執を断滅するを本となすによるといへり。随って因位にあって因心を観じ、道を透得せんとする教は、無我不 . . . 本文を読む
即ち密教は後にも述ぶる如く、如来自證の大覚の體に直入直證する教えである。随ってその三諦観もこれ如来に帰命し、感応道交入我我入、彼此渉入の秘観の住するとき、能所分別の微細の細惑を亡し直に生佛一體の秘観に住する要諦を明かせしものである、如来に帰命し、如来のうちに己を空しゅうし、如来金剛の身を、現身に體得する秘観である。
しかるに天台の三諦観はただこれ行者の因心の一念を観ずる法門である。されば同じく三 . . . 本文を読む
真諦に三千の差相を見、理中に別を立する山家の説(現実の種々の個体の差別相に真理があるとする天台宗山家派の説)、これ智者大師荊谿尊者の真意を伝えたるものなりと称するも、しかも如上所引の文章に徹すれば、真諦に三千の差相を認めざる山外の説、あるひは智者の真意を得たるものなるやも知るべからず。
弘法大師は顕密二教論に 摩訶止観第三に境界を明かす説段の隋智説の三諦義等の文を引証し、天台の三諦観も無相不可得 . . . 本文を読む
今日は二十四節気の芒種(ぼうしゅ)です。『暦便覧』には「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」とされています。天文学的には太陽黄経が75度のときをいうようです。
・熱田神宮例祭(「熱田まつり」「尚武祭」、ご祭神は熱田大神(天照大神))の日でもあります。熱田神宮のホームページによると「当神宮の恒例祭典中最も重要かつ荘厳なお祭りです。総代・崇敬者をはじめ各界の代表者等が参列する中、勅使(天皇陛下のお使 . . . 本文を読む
蓋し真言密教より意へば、天台円教の三千円融の実相観も、畢竟これ因縁生霧生寂滅の空義を拡充して説きしものなれば、畢竟は寂滅の空義に帰すと観るものである。かの四教の中の通教の因縁即空の理に、別円二教の中道の理を含ずと云ふより観るも、或は三千の法は皆因縁生なるを以て、是の故に一一即空仮中なりとの別行玄義等の釈より観るも、天台の実相観もかの中論の空観的実相観と旨趣を同じゅうするものあるを知らるるのである。 . . . 本文を読む
荊谿の十不二門に曰「空仮中妙故。空假中妙。故色心體絶。唯一實性無空假中。色心宛然豁同眞淨。無復衆生七方便異。不見國土淨穢差品。而帝網依正終自炳然。」(空仮中の妙なる故に色心の体は絶し、唯一なる実性にして空仮中無し、色心は宛然として真にして浄なること豁同(おなじ)なり。衆生の七方便(悟りのさまざまの段階)のまた異なる無し。国土に浄と穢の差品(ちがい)を見ず。しかして帝網(世界)の依正は終に自ら炳然( . . . 本文を読む
三千は法の体にして三諦は法の徳なり、しかして三諦の性徳が人にあって修徳の智慧となり、空仮中の円融の性徳を観ずるを三観といふ。一心この観に住せば、迷情のために隔てられし依正色心の差相民泯亡し、本有融妙の三千の実相顕現し、一切國土は毘盧遮那の寂光土と顕はれ、一切衆生は毘盧遮那の妙体妙用を現成するに至るのである。
凡そ佛教は因縁生無自性、無我の理を説き、人をして其の玄旨を体せしめんとするものである。即 . . . 本文を読む
法華玄義に示すが如く三諦の名は瓔珞経等に出、また法華経等に其義あるも、天台の三諦観は慧文禅師が龍樹菩薩の中観論の「因縁所生の法は、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。{因縁によって生まれたものは、我々は空と説く。それは仮のものであって、それはまた真理でもある。}中論:第24章18詩)なる偈文に依り三諦の玄義を悟り、以てこれを慧思禅師に授け、慧思より智者大師へ傳へたるもの . . . 本文を読む