秩父三十四観音霊場巡拝の記録
福聚講(高原耕昇講元)では、7月26日(土)、第2回目の秩父三十四観音霊場巡拝を行った。この日は、じわりと体に汗が出る真夏日で、テレビでは、しきりに熱中症に注意と呼びかけているほどの、暑さの中の巡拝”行軍“となった。
午前10時、西武秩父鉄道・横瀬駅に集合、出発した。
暑さで照りかえる国道を歩くこと15分、霊場札所九番・明星山・明智寺に着く。臨済宗で、ご本尊・如意輪観世音菩薩。午歳の総開帳の年とあって、本堂の奥のお厨子の中に、如意輪観音様の御姿が、拝されるのが嬉しい。また、巡拝する寺々の本堂の前には、直接仏様とご縁が結ばれるよう、五輪塔に極彩色の結縁綱が吊るされていて、この綱を祈りを込めて引っ張るのも有り難い。
ここでは自分(角田)が読経の頭をつとめ講員が唱和した。明智寺には霊験談がのこっておりそれによると、天正の頃、貧しい少年と盲目の母親が、観世音のお告げで観音経を二回唱えると、母親の目が開いたという。この霊験を、後世に伝えるため、明星山と山号が付けられたそうである。また安産子育て観音として1月16日には、女性参詣者で賑わうという。
御詠歌は「めぐり来て その名を聞けば あけち寺 心の月は くもらざるらん」である。
次の七番をめざし、緑一色に彩られた田んぼや野原を眺め、涼風漂う川の橋を渡り、歩くこと30分。霊場札所七番・青苔山・法長寺に着く。曹洞宗で、ご本尊は十一面観世音菩薩。この寺は、牛伏堂ともいう。昔、戦いに敗れ、この地に落ち延びて亡くなった武士の妻が、夢の中で牛の子になって苦しんでいる夫を見た。妻は、出家し、夫を救った。この、功徳を顕彰して観世音が一頭の牛に化身したという、慎ましい古代のロマンに満ちた、逸話があつた。
墨染め絽の法衣に艶やかな黒髪をたたえた四人の婦人が、本堂前に正座して、読経していた。法衣から透けて映る白衣姿の四人は、清楚ながらも、凛とした気品があり、ちょっと艶かしさも醸し出されていた。見とれていると、高原講元様が、「あの人たちは、尼さんになる人たちだ」と教えられた。
御詠歌は「六道をかねてめぐりておがむべし またのちの世をきくも牛伏」。
霊場札所六番・向陽山・ト雲寺に向かう。寺の周囲住宅地には、町是といわれるオープンガーデンよこせ(秩父郡横瀬町)と銘打、山里触れ合う花さんぽと称して、各戸の庭々に、趣向を凝らした花々や庭木を植えた鑑賞用の庭園を造り、町を訪れる通行人を和ませる優しいもてなしがあった。私たちは、この日、NO60軒目のお宅の庭園の前を通り、草花の手入れに余念の無かったご夫婦に声をかけ、横瀬町挙げてのイベントであることを知った。ピンク色に染まり切った大きな百日紅が、炎天の暑さをしのいでくれた。
午前11時45分、ト雲寺につく。曹洞宗で、ご本尊・聖観世音菩薩。ここは、萩の多い、幽遠なところで、禅僧が好んで訪れ、別名、萩の堂とも言われている。山岳信仰の流れを汲む蔵王権現社の本尊として、武甲山頂に聖観音に安置されていたが、1487年、ト雲寺に移されたという。
本堂と隣り合わせに、住職の住居があり、長い縁台があつた。色白美人の大黒さんが、巡礼に来た人たちに、温かい緑茶と、手製の梅干を接待していた。外気は、暑くても、ほんのり温かい緑茶は、まさに、甘露だった。このお寺は、高台にあり、遥かに山々が連なり、眼下に、家々が、立ち並んでいた。
御詠歌は「初秋に 風ふきむすぶ 荻の堂 宿仮乃世の 夢ぞさめける」。
秩父霊場は、山々に囲まれ、色とりどりの草花が、野原や、畑に咲き乱れ、田んぼの稲の濃い緑が、目に染み入るようだ。彼方此方で、小鳥がさえずり、鳥の声が、「法の声」のように聞こえる。灼熱の太陽を仰ぎ見ると、無窮の青空が、真っ白い雲を浮かべて、広がっている。こじんまりした、巡礼しやすい霊場と見た。霊場もさることながら、心のふるさとのようなところだ。ここに来ると、浮世の柵は、無くなり、これまで、積もり積もっていた心の悩み、苦しみ、悲しみは,嘘のように消えていた。無念夢想の境地にいるようだ。人間が、自然と一体となつている様で、懐かしくなる。
こんな素晴らしいところがあるのに、都会に住む人たちは、冷たく、人を阻むような近代高層ビル群の中で、魔界に住む阿修羅のように、欲望に振り回され残念ながら、格差の激しい、弱肉強食の巷で生息を余儀なくされている。いくら、日本人の平均寿命が延びたといっても、人に迷惑を掛けながら生きていては、つまらない。残念だが、ただ、喜んでは居られない。
コンクリートの採石場の下に流れる、澄み切った川に入り、子供たちが声高に喜び、騒ぎ、はしゃいでいる。子供たちを眼下に見ながら、歩き進む。田んぼの中に、「武甲山御嶽神社入口」の石柱が立っていた。午後12時40分、霊場札所八番着。清泰山 西善寺。臨済宗南禅寺派。ご本尊・十一面観世音菩薩。開山は、臨済宗円福寺の第三世竹印和尚。本堂は、文化7年の建立。本堂前には、樹齢800年というコミネモミジの巨木が、堂々と立っている。この日は、猛暑であるにもかかわらず、どの寺にお参りしても、熱心に、ご本尊に祈りをささげる人たちが、数人いたことである。みんな、巡礼をしているのだろう。観光目的の人は、一人も居なかったように思った。心強く思った。志を同じくする人たちが居ることは、自分の励みになるようだ。
御詠歌「ただ頼め まことのときは さいぜんじ きたりむかえん 弥陀乃三尊」。
さて、ここから、高原講元様の「お許し」(?)が出た。つぎの大慈寺と常楽寺は、車で行こうというのである。このため、バスに乗るべくバス停を探しながら、国道沿いを歩く。汗だくの体に、水をどんどん補給する。数十分歩き、やっと見つけたバス停。残念ながら、発車後で、あとには、もう来ない。ここで、高原講元様の計らい。「タクシーだ」。近くの農協ビルの前で、Tさんが、携帯でタクシーを呼んだ。Tさん、秩父巡礼のベテランで、こまめに、お手製の巡礼マップを用意しているという周到さである。やっと、タクシーが来た。
午後2時20分。霊場札所十番着。万松山・大慈寺。曹洞宗。ご本尊・聖観世音菩薩。タクシーを降りると、高い段数のある石段がある。やっと昇ると本堂だ。境内せましと、庭木が植えられ、いささか、疲れた体も甦るようだ。開山は、1490年。東雄禅師。それにしても、考えさせられるのは、寺々の歴史・沿革をみると、たいがいのお寺は、その昔、江戸時代や、明治時代になってからでも、火災や災害に遭遇して、堂宇が消失したり、損壊したりしているところが、数多くあったことだった。由緒縁起を記す、パンフレットに、ただ、短く、火災で焼失と書かれているだけだが、当時にあっては、さぞ、大変なことであったと思う。神仏の鎮座する社寺が、どうして、災害にあうのだろう。呪いに似た嘆きや悲しみに浸った人たちが居たに違いない。神仏は居られないのか?悔やんだに違いない。しかし、昔の人は、信心の試練を乗り越えて、さらに一層、信心を深めて、社寺の堂宇の再建に取り組んだに違いない。その、名の知れない人たちの、貴い努力によって、今日、私たちが、巡礼が出来るようになったのだと思う。そして、無念無想で、体全身を動かし、心身ともに、仏様を観想しながら、巡行するというシステムを、誰がこしらえたのだろう。実に、合理的に作られたシステムと感心するばかりだ。
御詠歌「ひたすらに たのみをかけよ大慈寺 六つ乃ちまたの 苦にかわる」。
昨年の秋、東京・八王子佛教会で、東日本大震災で、地震と津波で壊滅的な被害にあい72人の犠牲者を出した宮城県石巻の中学校の慰霊のため、御詠歌をお唱えする催しがあった。帰京する途中、宮城県・閖上地区の被害区域によった。ここには、住宅が密集していたところだったが、跡形も無く、荒涼とした土地が残っているだけだった。その中に、真言・智山派のお寺があったが、文字通り、本堂もご本尊も津波に流され、今は、だだっ広い境内敷地だけが残っている。住職夫妻は、仮設住宅に住み、お寺の再興に心を砕いているという。だが、頼りとする檀家の人たちは、亡くなったり、一家離散していなくなってしまった。そこにきて、仮設住宅で、経をあげ、お線香を焚くと、近隣の人たちから、様々の苦情が寄せられるという。だから、何も出来ない。途方にくれているだけ。と胸中を訴える。辛うじて残された、小さな石仏を荒地の真ん中において、毎日、そこで、祈祷して、いつの日か、寺の再建を果たしたいのだという。胸を衝かれる思いで話を聞いた。昔の人たちも、こうした苦労を経て、乗り越えてきたのだ。
待たせておいたタクシーに乗り、この日、最後の常楽寺に向かう。午後2時40分。霊場札所十一番。南石山・常楽寺。曹洞宗。ご本尊・十一面観世音菩薩。他聞にもれず、このお寺も、明治11年、秩父大火で、類焼し堂宇の一切を烏有に帰したという。明治初年真では、天台宗の寺だった。比叡山中興の祖元三慈恵大師をお祭りし、曹洞宗になっても、1月3日には、大勢の参詣で賑わっているという。慎ましい佇まいの本堂。最後の読経に、声を振り絞ってあげる。
御詠歌「罪科も きえよといのる 坂氷 旭はささで ゆうひかがやく」。
かくして、午後3時10分、タクシーで秩父鉄道・西武秩父駅に、無事到着、巡拝行を終えました。
ところで、この日の巡拝行で、Tさんが、以前、やはりこのあたりの巡拝コースを歩いていたとき、秩父鉄道・横瀬駅前から、聳え立つように建つて居る、大企業であるセメント会社の、工場の煙突と、製造工場の建物が、ついて回るように、どこのお寺に行っても、この工場が、目に付いた。そして、お寺の真ん前に広がる緑に彩られているはずの山肌が、無残にも、欠き削られ、緑は、消えうせ、茶色い土砂が露出して、景観を損ねている。また、河川には、採炭した石灰の山が、所狭しと、作られている。と、しみじみ語っているのだった。際限の無い人間の欲望によって、神聖で美しい自然が、どんどん消えてゆくのである。石灰からセメントを作り出し、高層建築などの素材を作っているのだ。
巡拝前夜、フランス版で、、日本では、まだ公開されていない映画のDVD『GRAND CENTORAL』(原子力発電所)を見た。フランスの原子力発電所で作業に従事する若い男女のラブストーリーだったが、この男女が住む町、愛をささやく森、一杯楽しむバー、そのどこからでも、異様な建造物が、立ち並ぶ原子力発電所が、二人に纏わりつくように見える光景を、Tさんの話から思い出した。原子力発電所に従事する、若い労働者の、過酷で危険な労働は、想像を絶するほど厳しいものだった。原子力発電所の発電作業の最先端の現場は、こんな危険な仕事場が、この世に存在しているのかという、恐ろしい仕事場だった。映画の中で、福島の事件もうわさされていた。現代文明の飽くなき欲望による人間に対する弊害に警鐘を鳴らすフランスならではの映画であった。
秩父観音霊場の巡拝行は、いろいろ考えさせられる機会を与えられる思いのする歩きである。感謝。感謝。(角田光一郎記)
福聚講(高原耕昇講元)では、7月26日(土)、第2回目の秩父三十四観音霊場巡拝を行った。この日は、じわりと体に汗が出る真夏日で、テレビでは、しきりに熱中症に注意と呼びかけているほどの、暑さの中の巡拝”行軍“となった。
午前10時、西武秩父鉄道・横瀬駅に集合、出発した。
暑さで照りかえる国道を歩くこと15分、霊場札所九番・明星山・明智寺に着く。臨済宗で、ご本尊・如意輪観世音菩薩。午歳の総開帳の年とあって、本堂の奥のお厨子の中に、如意輪観音様の御姿が、拝されるのが嬉しい。また、巡拝する寺々の本堂の前には、直接仏様とご縁が結ばれるよう、五輪塔に極彩色の結縁綱が吊るされていて、この綱を祈りを込めて引っ張るのも有り難い。
ここでは自分(角田)が読経の頭をつとめ講員が唱和した。明智寺には霊験談がのこっておりそれによると、天正の頃、貧しい少年と盲目の母親が、観世音のお告げで観音経を二回唱えると、母親の目が開いたという。この霊験を、後世に伝えるため、明星山と山号が付けられたそうである。また安産子育て観音として1月16日には、女性参詣者で賑わうという。
御詠歌は「めぐり来て その名を聞けば あけち寺 心の月は くもらざるらん」である。
次の七番をめざし、緑一色に彩られた田んぼや野原を眺め、涼風漂う川の橋を渡り、歩くこと30分。霊場札所七番・青苔山・法長寺に着く。曹洞宗で、ご本尊は十一面観世音菩薩。この寺は、牛伏堂ともいう。昔、戦いに敗れ、この地に落ち延びて亡くなった武士の妻が、夢の中で牛の子になって苦しんでいる夫を見た。妻は、出家し、夫を救った。この、功徳を顕彰して観世音が一頭の牛に化身したという、慎ましい古代のロマンに満ちた、逸話があつた。
墨染め絽の法衣に艶やかな黒髪をたたえた四人の婦人が、本堂前に正座して、読経していた。法衣から透けて映る白衣姿の四人は、清楚ながらも、凛とした気品があり、ちょっと艶かしさも醸し出されていた。見とれていると、高原講元様が、「あの人たちは、尼さんになる人たちだ」と教えられた。
御詠歌は「六道をかねてめぐりておがむべし またのちの世をきくも牛伏」。
霊場札所六番・向陽山・ト雲寺に向かう。寺の周囲住宅地には、町是といわれるオープンガーデンよこせ(秩父郡横瀬町)と銘打、山里触れ合う花さんぽと称して、各戸の庭々に、趣向を凝らした花々や庭木を植えた鑑賞用の庭園を造り、町を訪れる通行人を和ませる優しいもてなしがあった。私たちは、この日、NO60軒目のお宅の庭園の前を通り、草花の手入れに余念の無かったご夫婦に声をかけ、横瀬町挙げてのイベントであることを知った。ピンク色に染まり切った大きな百日紅が、炎天の暑さをしのいでくれた。
午前11時45分、ト雲寺につく。曹洞宗で、ご本尊・聖観世音菩薩。ここは、萩の多い、幽遠なところで、禅僧が好んで訪れ、別名、萩の堂とも言われている。山岳信仰の流れを汲む蔵王権現社の本尊として、武甲山頂に聖観音に安置されていたが、1487年、ト雲寺に移されたという。
本堂と隣り合わせに、住職の住居があり、長い縁台があつた。色白美人の大黒さんが、巡礼に来た人たちに、温かい緑茶と、手製の梅干を接待していた。外気は、暑くても、ほんのり温かい緑茶は、まさに、甘露だった。このお寺は、高台にあり、遥かに山々が連なり、眼下に、家々が、立ち並んでいた。
御詠歌は「初秋に 風ふきむすぶ 荻の堂 宿仮乃世の 夢ぞさめける」。
秩父霊場は、山々に囲まれ、色とりどりの草花が、野原や、畑に咲き乱れ、田んぼの稲の濃い緑が、目に染み入るようだ。彼方此方で、小鳥がさえずり、鳥の声が、「法の声」のように聞こえる。灼熱の太陽を仰ぎ見ると、無窮の青空が、真っ白い雲を浮かべて、広がっている。こじんまりした、巡礼しやすい霊場と見た。霊場もさることながら、心のふるさとのようなところだ。ここに来ると、浮世の柵は、無くなり、これまで、積もり積もっていた心の悩み、苦しみ、悲しみは,嘘のように消えていた。無念夢想の境地にいるようだ。人間が、自然と一体となつている様で、懐かしくなる。
こんな素晴らしいところがあるのに、都会に住む人たちは、冷たく、人を阻むような近代高層ビル群の中で、魔界に住む阿修羅のように、欲望に振り回され残念ながら、格差の激しい、弱肉強食の巷で生息を余儀なくされている。いくら、日本人の平均寿命が延びたといっても、人に迷惑を掛けながら生きていては、つまらない。残念だが、ただ、喜んでは居られない。
コンクリートの採石場の下に流れる、澄み切った川に入り、子供たちが声高に喜び、騒ぎ、はしゃいでいる。子供たちを眼下に見ながら、歩き進む。田んぼの中に、「武甲山御嶽神社入口」の石柱が立っていた。午後12時40分、霊場札所八番着。清泰山 西善寺。臨済宗南禅寺派。ご本尊・十一面観世音菩薩。開山は、臨済宗円福寺の第三世竹印和尚。本堂は、文化7年の建立。本堂前には、樹齢800年というコミネモミジの巨木が、堂々と立っている。この日は、猛暑であるにもかかわらず、どの寺にお参りしても、熱心に、ご本尊に祈りをささげる人たちが、数人いたことである。みんな、巡礼をしているのだろう。観光目的の人は、一人も居なかったように思った。心強く思った。志を同じくする人たちが居ることは、自分の励みになるようだ。
御詠歌「ただ頼め まことのときは さいぜんじ きたりむかえん 弥陀乃三尊」。
さて、ここから、高原講元様の「お許し」(?)が出た。つぎの大慈寺と常楽寺は、車で行こうというのである。このため、バスに乗るべくバス停を探しながら、国道沿いを歩く。汗だくの体に、水をどんどん補給する。数十分歩き、やっと見つけたバス停。残念ながら、発車後で、あとには、もう来ない。ここで、高原講元様の計らい。「タクシーだ」。近くの農協ビルの前で、Tさんが、携帯でタクシーを呼んだ。Tさん、秩父巡礼のベテランで、こまめに、お手製の巡礼マップを用意しているという周到さである。やっと、タクシーが来た。
午後2時20分。霊場札所十番着。万松山・大慈寺。曹洞宗。ご本尊・聖観世音菩薩。タクシーを降りると、高い段数のある石段がある。やっと昇ると本堂だ。境内せましと、庭木が植えられ、いささか、疲れた体も甦るようだ。開山は、1490年。東雄禅師。それにしても、考えさせられるのは、寺々の歴史・沿革をみると、たいがいのお寺は、その昔、江戸時代や、明治時代になってからでも、火災や災害に遭遇して、堂宇が消失したり、損壊したりしているところが、数多くあったことだった。由緒縁起を記す、パンフレットに、ただ、短く、火災で焼失と書かれているだけだが、当時にあっては、さぞ、大変なことであったと思う。神仏の鎮座する社寺が、どうして、災害にあうのだろう。呪いに似た嘆きや悲しみに浸った人たちが居たに違いない。神仏は居られないのか?悔やんだに違いない。しかし、昔の人は、信心の試練を乗り越えて、さらに一層、信心を深めて、社寺の堂宇の再建に取り組んだに違いない。その、名の知れない人たちの、貴い努力によって、今日、私たちが、巡礼が出来るようになったのだと思う。そして、無念無想で、体全身を動かし、心身ともに、仏様を観想しながら、巡行するというシステムを、誰がこしらえたのだろう。実に、合理的に作られたシステムと感心するばかりだ。
御詠歌「ひたすらに たのみをかけよ大慈寺 六つ乃ちまたの 苦にかわる」。
昨年の秋、東京・八王子佛教会で、東日本大震災で、地震と津波で壊滅的な被害にあい72人の犠牲者を出した宮城県石巻の中学校の慰霊のため、御詠歌をお唱えする催しがあった。帰京する途中、宮城県・閖上地区の被害区域によった。ここには、住宅が密集していたところだったが、跡形も無く、荒涼とした土地が残っているだけだった。その中に、真言・智山派のお寺があったが、文字通り、本堂もご本尊も津波に流され、今は、だだっ広い境内敷地だけが残っている。住職夫妻は、仮設住宅に住み、お寺の再興に心を砕いているという。だが、頼りとする檀家の人たちは、亡くなったり、一家離散していなくなってしまった。そこにきて、仮設住宅で、経をあげ、お線香を焚くと、近隣の人たちから、様々の苦情が寄せられるという。だから、何も出来ない。途方にくれているだけ。と胸中を訴える。辛うじて残された、小さな石仏を荒地の真ん中において、毎日、そこで、祈祷して、いつの日か、寺の再建を果たしたいのだという。胸を衝かれる思いで話を聞いた。昔の人たちも、こうした苦労を経て、乗り越えてきたのだ。
待たせておいたタクシーに乗り、この日、最後の常楽寺に向かう。午後2時40分。霊場札所十一番。南石山・常楽寺。曹洞宗。ご本尊・十一面観世音菩薩。他聞にもれず、このお寺も、明治11年、秩父大火で、類焼し堂宇の一切を烏有に帰したという。明治初年真では、天台宗の寺だった。比叡山中興の祖元三慈恵大師をお祭りし、曹洞宗になっても、1月3日には、大勢の参詣で賑わっているという。慎ましい佇まいの本堂。最後の読経に、声を振り絞ってあげる。
御詠歌「罪科も きえよといのる 坂氷 旭はささで ゆうひかがやく」。
かくして、午後3時10分、タクシーで秩父鉄道・西武秩父駅に、無事到着、巡拝行を終えました。
ところで、この日の巡拝行で、Tさんが、以前、やはりこのあたりの巡拝コースを歩いていたとき、秩父鉄道・横瀬駅前から、聳え立つように建つて居る、大企業であるセメント会社の、工場の煙突と、製造工場の建物が、ついて回るように、どこのお寺に行っても、この工場が、目に付いた。そして、お寺の真ん前に広がる緑に彩られているはずの山肌が、無残にも、欠き削られ、緑は、消えうせ、茶色い土砂が露出して、景観を損ねている。また、河川には、採炭した石灰の山が、所狭しと、作られている。と、しみじみ語っているのだった。際限の無い人間の欲望によって、神聖で美しい自然が、どんどん消えてゆくのである。石灰からセメントを作り出し、高層建築などの素材を作っているのだ。
巡拝前夜、フランス版で、、日本では、まだ公開されていない映画のDVD『GRAND CENTORAL』(原子力発電所)を見た。フランスの原子力発電所で作業に従事する若い男女のラブストーリーだったが、この男女が住む町、愛をささやく森、一杯楽しむバー、そのどこからでも、異様な建造物が、立ち並ぶ原子力発電所が、二人に纏わりつくように見える光景を、Tさんの話から思い出した。原子力発電所に従事する、若い労働者の、過酷で危険な労働は、想像を絶するほど厳しいものだった。原子力発電所の発電作業の最先端の現場は、こんな危険な仕事場が、この世に存在しているのかという、恐ろしい仕事場だった。映画の中で、福島の事件もうわさされていた。現代文明の飽くなき欲望による人間に対する弊害に警鐘を鳴らすフランスならではの映画であった。
秩父観音霊場の巡拝行は、いろいろ考えさせられる機会を与えられる思いのする歩きである。感謝。感謝。(角田光一郎記)