今日は八幡大神が大仏鋳造直後の東大寺を拝された日
大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年十二月二十七日八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりました。この時、孝謙天皇・聖武太上天皇等も東大寺に行幸し、左大臣橘諸兄に読み上げさせた詔に、「去し辰の年、河内国大県郡(かわちのくにおおがたのこおり)の智識寺に坐る盧舎那仏(るさなほとけ)を礼(おろが)み奉りて、則わち朕(聖武天皇)も造り奉らんと思えども」とあり、河内国の智識寺で盧舎那仏を拝したのが盧舎那仏造顕発願への動機となったことが知られます。
「続日本紀・天平勝宝元(749)年十二月」「丁亥、大神朝臣杜女、東大寺を拝す。天皇・太上天皇・太后も同じく亦行幸す。是の日、百官及び諸氏の人等ことごとく寺に會す。僧五千人を請じて禮佛読経せしむ。大唐渤海の呉楽・五節田僲・久米僲を作さしむ。因って大神に一品、比咩の神に二品を奉る。左大臣橘宿爾諸兄、詔を奉じて神に曰して曰さく、『天皇が御命に坐申賜(ましまちしたまふと)申さく、去し辰年(天平十二年)、河内國大縣郡智識寺に坐すます毘盧遮那仏を禮み奉り則ち朕も造り奉んと欲思へども、得不為(えなさざりし)間に豊前国宇佐郡に坐す廣幡八幡大神勅賜く。『神我、天神地祇を率ていざなひ必ず成し奉らむ。事立つに有ず。銅湯水と成し、わが身を草木土に交て障事無く為さむ』と勅賜ふ成すれば歓貴みなも念食(おもほしめす)。然猶、止事得ずして恐かしこけれども、御冠(みこうぶり)獻事たてまつることを恐み恐み申賜はくと申す』。尼杜女に従四位下を、主神大神の朝臣麻呂に外従五位を授く。東大寺に封四千戸、度百人、婢百人を施す。又東大寺に預造の人には労に随って位を叙す」差あり。