心というものは無形のものじゃ。目に見えぬから見取すべからず。見て取ることができない。ただこれ虚妄の諸法である。虚妄の諸法といふは有るに似てあるでない。幻というて而もない。それを虚妄という。人間の身もまたそういうわけである。人間も虚妄である。欲せぬでもよいことに欲を出したり、腹を立てぬでもよいことに腹を立てたり、悪いことをせぬでもよいに悪いことをしたりする。虚妄というても虚も妄もともに嘘をいうことで、捉えどころがない。一も取るべきものがない。一切の諸法為すこと作すこと皆その通り。併し集起とてそれが種々の境涯が集まって・・つまらぬことが多く集まって悪いことをする。
よいことをよいことをするのもやはりその通りで真実の極楽、真実の金剛不壊の堅固な悟りの道からいうと人間の善いというも尚、虚妄じゃ。夢中の是非は是非共に空じゃ。「我」というて我が心の中に霊魂があると思うているがそれは実はない。「我所」というて我身、我が家、我が財産、我が女房、我が子があると思うているが実は一切衆生の恩頼の賜物で種々の因縁により今日仮に我が田畑、山村、家屋、財産、妻子という幻の名をつけておるけれどもその実体はただこれさまざまの因縁より生じて幻の如く化の如くで一旦福力尽くれば他人のものとなり、寿命尽くればこの身も鳥辺山の煙と化し我がものというものはこの天地間にあるべきものでない。
(これが本当に分らないから苦しむのです、実際我がものはないといわれても、そのために日夜頑張ってきている我々凡夫は即実感できるものでは有りません。しかし実体はないと言われれば昔の事を思い出すときなど、確かにそういう気がする時もあります。瞬間的実感ということでいいのでしょう。この瞬間を何度も体験すればそのうちわかってくるのでしょう。それより怖いのは福力が尽きれば他人のものとなり、寿命尽きれば煙となるというところです。「福力」をつけねば危ういことになります。)
よいことをよいことをするのもやはりその通りで真実の極楽、真実の金剛不壊の堅固な悟りの道からいうと人間の善いというも尚、虚妄じゃ。夢中の是非は是非共に空じゃ。「我」というて我が心の中に霊魂があると思うているがそれは実はない。「我所」というて我身、我が家、我が財産、我が女房、我が子があると思うているが実は一切衆生の恩頼の賜物で種々の因縁により今日仮に我が田畑、山村、家屋、財産、妻子という幻の名をつけておるけれどもその実体はただこれさまざまの因縁より生じて幻の如く化の如くで一旦福力尽くれば他人のものとなり、寿命尽くればこの身も鳥辺山の煙と化し我がものというものはこの天地間にあるべきものでない。
(これが本当に分らないから苦しむのです、実際我がものはないといわれても、そのために日夜頑張ってきている我々凡夫は即実感できるものでは有りません。しかし実体はないと言われれば昔の事を思い出すときなど、確かにそういう気がする時もあります。瞬間的実感ということでいいのでしょう。この瞬間を何度も体験すればそのうちわかってくるのでしょう。それより怖いのは福力が尽きれば他人のものとなり、寿命尽きれば煙となるというところです。「福力」をつけねば危ういことになります。)