Q,オウムの反省でカルト宗教の見分け方は?
結論です。「客引き勧誘する、歴史がない、直近の個人を崇拝させる、お金を集める」ところは近寄るべからずということです。
1、客引きをする「宗教」はいかがわしい。・・店でも客引きをするような店はいかがわしい店に決まっています。勧誘に一生懸命なところはどんな集団でも要注意です。続高僧傳に「慧可断臂えかだんぴ]という故事が出てきます。「中国南北朝時代後期の高僧慧可が、嵩山すうざんの少林寺にいた達磨に教えを請うたが、達磨は面壁するばかりであった。慧可はある夜、雪の中に立って自分の左臂を切り落として求道の決意のほどを示し、それによって教えを授けられた」というものです。道を求めるほうが苦労して入り口を探すのが当たり前です。
ここまでして道を求めよ、とはいいませんが、少なくとも本物の宗教家宗教団体は客引きをすることはありません。客引き(勧誘)をするのは似非宗教です。
2、歴史の新しい「宗教」は要注意・・迷ったとき、困ったとき、何かに縋りたいときはあります。そのときは永年歴史の審判をうけてきた古い宗教へちかずくべきです。迷っているときはオウムの信者の例を見ても分別をなくしています。そういうときには単純に古い神社仏閣にいって拝むべきです。こういうところでは悩みに向き合ってくれないといいますが、こういうところの神仏は人々のいのりが積み重なっているので霊験もいただけます。巡礼をしながらでも何軒も訪ねていけば中には相談に乗ってくれることもあります。
3、現存する人間・直近の人間を個人崇拝させるのもいかがわしい。・・これは説明の要はないでしょう。国民栄誉賞など死んだ人に与えられるケースが多いようですが、人間の値打ちは死んでしばらくしてみなければわからないというのが古今東西の常識と思います。昭和の名僧・山本玄峰老師は「人とたばこの良しあしは、煙となりて後にこそ知れ」とおっしゃったそうです。
4、集金するところが要注意なのは言うまでもありません。
いずれにせよ、オウムの反省は日本の家庭・社会で宗教基盤がなかったことに尽きると思われます。特に家庭で宗教的雰囲気にひごろからふれさせておけばこういうカルトにはまることはことはなかったと思われます。仏壇・神棚を日ごろから一家で拝んでいればこういうことにはなっていません。明治中期にラフカデオハーンが日本の家庭は「先祖と神仏が一体となった一つの宗教的塊である(神国日本)」といっています。こういう家庭が存続していればカルト集団が生まれる余地はなかったのです。
国や社会全体も、「真面目に生きる」ことを避けて、拝金主義・効率主義に走ったツケが一挙にふきだしたのです。この意味で「真面目さ」を失って、先祖も神仏も切り離して薄っぺらい拝金主義・効率主義一辺倒に走り続けている日本には、まだまださまざまな事件が起こるかもしれません。
結論です。「客引き勧誘する、歴史がない、直近の個人を崇拝させる、お金を集める」ところは近寄るべからずということです。
1、客引きをする「宗教」はいかがわしい。・・店でも客引きをするような店はいかがわしい店に決まっています。勧誘に一生懸命なところはどんな集団でも要注意です。続高僧傳に「慧可断臂えかだんぴ]という故事が出てきます。「中国南北朝時代後期の高僧慧可が、嵩山すうざんの少林寺にいた達磨に教えを請うたが、達磨は面壁するばかりであった。慧可はある夜、雪の中に立って自分の左臂を切り落として求道の決意のほどを示し、それによって教えを授けられた」というものです。道を求めるほうが苦労して入り口を探すのが当たり前です。
ここまでして道を求めよ、とはいいませんが、少なくとも本物の宗教家宗教団体は客引きをすることはありません。客引き(勧誘)をするのは似非宗教です。
2、歴史の新しい「宗教」は要注意・・迷ったとき、困ったとき、何かに縋りたいときはあります。そのときは永年歴史の審判をうけてきた古い宗教へちかずくべきです。迷っているときはオウムの信者の例を見ても分別をなくしています。そういうときには単純に古い神社仏閣にいって拝むべきです。こういうところでは悩みに向き合ってくれないといいますが、こういうところの神仏は人々のいのりが積み重なっているので霊験もいただけます。巡礼をしながらでも何軒も訪ねていけば中には相談に乗ってくれることもあります。
3、現存する人間・直近の人間を個人崇拝させるのもいかがわしい。・・これは説明の要はないでしょう。国民栄誉賞など死んだ人に与えられるケースが多いようですが、人間の値打ちは死んでしばらくしてみなければわからないというのが古今東西の常識と思います。昭和の名僧・山本玄峰老師は「人とたばこの良しあしは、煙となりて後にこそ知れ」とおっしゃったそうです。
4、集金するところが要注意なのは言うまでもありません。
いずれにせよ、オウムの反省は日本の家庭・社会で宗教基盤がなかったことに尽きると思われます。特に家庭で宗教的雰囲気にひごろからふれさせておけばこういうカルトにはまることはことはなかったと思われます。仏壇・神棚を日ごろから一家で拝んでいればこういうことにはなっていません。明治中期にラフカデオハーンが日本の家庭は「先祖と神仏が一体となった一つの宗教的塊である(神国日本)」といっています。こういう家庭が存続していればカルト集団が生まれる余地はなかったのです。
国や社会全体も、「真面目に生きる」ことを避けて、拝金主義・効率主義に走ったツケが一挙にふきだしたのです。この意味で「真面目さ」を失って、先祖も神仏も切り離して薄っぺらい拝金主義・効率主義一辺倒に走り続けている日本には、まだまださまざまな事件が起こるかもしれません。