ナーガルジュナ(竜樹)は『ラマナトラ』の中ではっきりとこういっています。
『私たちが世界から遠く離れれれば離れるほど世界は現実にみえる。近ずけば近ずくほど手で触れられる現実を欠いた蜃気楼のようにつかまえられない』。
現実の堅固さは私たちがそれを正面から見ない限り明白そのもののように見えるけれど、分析の対象にすればたちまち消えうせてしまいます。
もし素粒子が布でもなく杭でもなく熱でも色でもないとすれば「私」でも「他者」でもないことになります。
このように素粒子は私たちの頭のはたらきではつかまりません。
頭で考えるから私たちは世界に対応できず世界を物象化して自分で苦しみをつくりだすのです。
シャーンテイデーバが論証的思考を超越する認識について語るとき彼が言おうとしたのはそのことです。
『現実も非現実も、もはや精神の前に現れなくなるとき、そのとき他のおよそどんな動きもなくなるので概念から開放された精神は安らかに静まる。』
『私たちが世界から遠く離れれれば離れるほど世界は現実にみえる。近ずけば近ずくほど手で触れられる現実を欠いた蜃気楼のようにつかまえられない』。
現実の堅固さは私たちがそれを正面から見ない限り明白そのもののように見えるけれど、分析の対象にすればたちまち消えうせてしまいます。
もし素粒子が布でもなく杭でもなく熱でも色でもないとすれば「私」でも「他者」でもないことになります。
このように素粒子は私たちの頭のはたらきではつかまりません。
頭で考えるから私たちは世界に対応できず世界を物象化して自分で苦しみをつくりだすのです。
シャーンテイデーバが論証的思考を超越する認識について語るとき彼が言おうとしたのはそのことです。
『現実も非現実も、もはや精神の前に現れなくなるとき、そのとき他のおよそどんな動きもなくなるので概念から開放された精神は安らかに静まる。』