mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

文化誌という放浪

2020-01-22 20:03:46 | 日記
 
 奥野卓司『鳥と人間の文化誌』(筑摩書房、2019年)は、鳥にまつわる博物学の本である。博物学というのが、これほど気分気ままに放浪するものだとは、意外であった。花鳥風月から絵画、鳥の表象、江戸期の「鎖国」概念の転倒が民衆史からの視点であったことや、鵜飼のはじまりが長良川という話は、明治期の創作であること、鳥を食べるという作法から鳥に似せて空を飛ぶという飛行技術、あるいはサイバネティクスの起源まで、話題はほとんど放浪しているように移ろう。
 
 この方、情報人類学の専門家と称しているから「サイバネティクス」が本来の帰着点だったのかもしれないと、最終章で気が付く。だとすると、どうして、枕草子や祇園祭の鳥山から話をはじめ、若冲や江戸期の博物学にこだわるのであろうか。ひらひらと読みすすめ、言葉がするすると頭の表層を通り過ぎていく。これほどの文献に目配りが利いているよとひけらかしているだけ。少しも深みへ入ろうとしない。
 
 放浪というのを私は、誉め言葉としていつもなら使う。渉猟と言ってもいいか。興味関心の及ぶままに、あちらへこちらへと領域をまたいで本を読み漁るのは、年寄りの贅沢の一つだ。だが、表層を眺め渡してめぼしいものを拾って歩くのだって、そのはじまりのときと終わりのときとでは、腑に落ちるというか、モノゴトに対する得心の手ごたえに違いがあろうってものだ。それは、博物学がもっている「せかい」の広さと深みに、わが目の及ばぬ「わからないせかい」を感じるからだ。この著者には、それがない。放浪してはいるが、「鳥の文化誌」という観光見物ばかり。名所旧跡は、しかし、「文化誌」ほどの深みを湛えていない。こんなこともあるんだ。

男に分からない女の生理

2020-01-21 08:50:21 | 日記
 
 スウェーデン映画『リンドグレーン』(ベニアレ・フィッシャー・クリステンセン監督、2018年)を観た。原題は「Unga Astrid」、スウェーデン語で「若きアストリッド」。アストリッド・リンドグレーンが、「長くつ下のピッピ」の作者と聴くと、ああ児童文学作家か、なんとなく聞いたことがある、と思う。「なぜ子どもの心がわかるの?」と、この作品中の年老いた作者に読者の子どもから手紙が来る。
 
 農作業に明け暮れる日々の暮らしから、文才を認められて新聞社の手伝いに採用されて町で働き始め、離婚調停中の編集長と恋仲になり身籠るが、村で生むことが適わず、海をわたってデンマークで母となる。こう粗筋を辿ると、ありきたりのメロドラマになってしまうが、子をなしながら母となることの径庭が上手に描き出されて、日常の振る舞いのなかに人の心を感知し、会得する源があると推測させる。この、身をもって得ている日常がわたしという母であり、その孤絶と不安とそのところどころにほんの少し垣間見える希望とが、人が生きるということなのだと、私に伝わってくる。
 
 ただひとつ、映画を見ている男である私が刃を突き付けられたように感じた場面があった。それを語ると、この映画の秘密を解き明かすようになるので、直には触れない。だが、その場面でアストリッドがとった振る舞いは、子を産み難局を乗り切ろうと何度も海をわたって、、母として子と会おうとしてきたことを男が難なく乗り越えてしまう、男女の性差ともいえる溝の深さに気づく。その性差の溝の深さが、あっ、わたしにはわからないとわかったように思った。
 
 喜寿になって何をいまさらと思われるかもしれないが、「♫男と女のあいだには深くて暗い川がある」と改めて感じている。と同時に、そのあたりの性差が何によって生じているのか、進化生物学の論展開も、わかったつもりになって飛び越えてしまっている。いまだ解き明かしてはいないように思えた。

行き場のない「路上のX」

2020-01-20 20:03:35 | 日記
 
 やはり桐野夏生『路上のX』(朝日出版社、2018年)を読む。親に見棄てられた女子中学生が、カツカツで暮らしている親戚に預けられ、どう生きていくか。家を出るしかない。一夜を過ごすのにどうするのか。お金がないのにどうしのぐか。都会の路上は、高校生年代の女性には、あの手この手の誘いと罠が待っている。他人の悪意を知らない子どもが果たして無事に乗り切れるか。この小説のタイトル「路上のX」は、果たして主人公のことなのか、彼女を受け容れるポン引きや中年のエロ男のことか、あるいは、渋谷の街を行き交う、他人のことに無関心な人々のことなのか。いろいろな読み取り方ができる、その幅だけ、ヒトの生き方の幅はあるのだろうか。
 
 去年のことであったか、大阪の小学生が行方不明になり栃木県で保護された事件があった。このとき、この小学生と一緒に「監禁」されていたという18歳は、どうしてこの男と一緒に住んでいたのかと話題になった。果たして「誘拐」と呼んでいいのかどうか。こうした小中高校生の家出は、何も近年始まったことではない。昔からあった。「路上のX」の主人公と同じかもしれない。
 
 かつて、1970年代半ば頃までは、中卒で住み込みで働くというのが珍しくはなかった。しかしいまは、どうなっているのだろう。ほとんどが高卒とあって、中卒で働くのは肩身の狭い思いをしているのではなかろうか。彼ら彼女らのうちの幾人が、仕事をもって感じることができるような暮らしを送れているだろうかと、心配になる。彼らが、真面目に働くことを大切なことと感じるような暮らしをしていてくれれば、貧乏そのものは、それほど苦痛ではあるまい。むしろ、世のたたずまいが、まじめに働くことを、つまらぬ人生と決めつけてくるような気配を湛えている。それに負けてしまうんじゃないかと、高校生活も続かなかった中退生たちのことを想いうかべて、思う。
 
 なんだか、行き場のない子どもたちの、一時的にでも住まう場所だけでも「子ども食堂」のように設けられないものかと、桐野の作品に登場する行政の杓子定規を思い出して、ため息をつく。裕福な社会の思わぬ溝に落ちてしまった(親元を出て家出したいと思っている)子どもたちを、その子どもが自ら選択した道のように見ているのは、偶然の不運を体感したことのないメデタイ人である。わたしもその一人ではないか、とどこかから声が聞こえる。

話者と聴者のイメージギャップ

2020-01-19 15:52:40 | 日記
 
 今日(1/19)の午前中は、アンチの修繕専門委員会。午後は、やはり団地の「給水管等更新工事設計に関する説明会」。前者は、12名ほどの専門委員会だが、後者は住民の約半数が参加する。
 前者は大きな課題をひとまず片付けているから、部屋のリフォームに関する「承認事項」と引き続き検討している「給湯器の背面板の下半分を覆う風水害について」。前回おおむね結論が出ていたのに、委員長のちゃぶ台返しがあって、持ち越していた。
 
 今回は副委員長が「提案文書」をまとめ、若干の文言修正で運ぶかにみえた。ところが、委員長が横槍を入れる。反対しているのではない。この「提案」に書かれていることは、管理組合が責任を持つべき当然の業務であるから、「総会で改めて決議する必要はない」というもの。だが、漏水事故が起これば管理組合が全面的に修復責任を負う事項だが、その漏水事故を避けるためには、関係住戸の専有部分である給湯器の背面の下半分に、防水措置をしてもらわねばならない。その両者が「関係している」という再確認である。
 
 関係住戸がそれを行うかどうかは持ち主の判断に任されるが、やってもらわねばふたたび漏水事故が起きる可能性は大きい。修繕費用は一件当たり数十万円になる。ところが、簡易防水措置を施すのに必要な資材を管理組合で一括購入すると、関係住戸50戸余全部の分を負担しても1、2万円ほどで済む。1戸当たり500円弱なら、管理組合が呼び掛けて資材を用意し、背面の防水措置を施すのだけ、各戸居住者全戸にやっていただく。もし必要ならば修繕専門委員会がお手伝いする、という提案。
 
 前回ちゃぶ台返しをした委員長は、今回それには同意した。だが上記の措置に付け加えて「防水措置を施していても漏水事故が生じた場合には、管理組合がその因を調査し、修復の責任を負うと総会において再確認する」という部分は、無用だと委員長はいう。副委員長は、居住者の事故防止措置を促しながら、なおかつ、管理組合の責任を確認することで、双方で共同して対処していきましょうというほどの思いを込めていたと思われた。じっさい、別の方から「防水措置をしていないところで漏水事故があった場合は、どうなるの?」と質問があり、行間には「ぜひ、責任をもって防水措置をしてください」という趣旨が込められている、「再確認は必要」との声もあった。だが、委員長は、管理組合の当然の業務を再確認する必要はない。「総会で再決議するというのは、たいへんなことだ」と力説する。
 
 委員長は、副委員長の「(起こっている事態に居住者と管理組合の双方が)バランスを取る」というのを無用と言っているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。「一般論になるが、各住戸の専有物に関して、管理組合が責任を負ってくれという要求が増える」という。「どういうケース?」と問うが、「一般論です」と提示はできない。「たいへんなことなんだ」と繰り返すから、「どういうこと?」と訊ねるが、ご本人もよくわからないようなのだ。まいったなあ。こういうのって。結局、どう文言をまとめて総会に提示するかは理事会にまかせる、として散会した。
 
 つまり、何か大切なことをイメージしているのかもしれないが、言葉にならない。とどのつまりは、ご本人が言葉にできるまで待つしかないが、協議の時間には限りがある。ほかに反対者がいないのであれば、ここは、委員長と言えども、引き下がるしかあるまい。
 
 もうひとつ、午后の「説明会」。建築コンサルティング会社が給水管更新のことについて、居住者の質問に答えている。市の水道管からの直結増圧で、現在の給水状況に変化がどう出るのかという質問。説明している業者は、現在の水の出と較べて、5階は変わらないとすると、1階は水の出が悪くなったように思うだろうと説明する。つまり直結方式にすると水圧は均等化するらしい。質問者は、「えっ、どうして? 下の階の方が水圧は強くなるんじゃないの?」と再質問。業者は、あくまでも5階の水の出を現在と同じにすると、1階はいまより悪く感じるかもしれないと繰り返す。イメージの起点が、すれ違っている。
 
 これもまた、それぞれの説明者と受け取る人とのイメージしていることが違うから、生じている「不具合」だ。こういうことって、日常的に案外、多いんだね。「社会の国語力が落ちた」と佐伯啓思がいうのは、話者ー聴者のイメージが多様になり、容易に想定できなくなっているのかもしれない。ことばに頼ることばかりが多くなって、表現もまた厳密になって、めんどくさくなっているのかなあ。そう思った。

模倣と自律とプレーモデル

2020-01-18 09:29:21 | 日記
 
 今日(1/18)の朝日新聞、元サッカー日本代表監督・岡田武史の「指導法」に触れた記事。岡田はスペインの強豪チームを率いる指導者に次のようなサジェストを受けて「目からうろこ、の衝撃を受けた」そうだ。サジェストというのは、
 
 「スペインにはプレーモデルというものがある。その型を選手が16歳になるまでに身につけさせる。その後は選手の自由にさせる。日本にはその型がないのか?」
 
 というもの。岡田は、こう受けとめた。
 
 《順序が逆だったと感じた。子どものときは教え過ぎずに自由にドリブルなど個人技を磨かせ、高校生から監督のチーム戦術にはめ込む。だから、選手が状況に応じて柔軟に判断するのが苦手で監督の指示を仰ぎがちになる》
 
 サッカーというゲームは野球のような場の分業がない。全体の敵―味方とボールの動きの中で自分のポジショニングをし、味方へのサポートなどを状況に応じて自在にしなければならない。スペインの「プレーモデル」はサッカーというゲームにおける人の動き(の原則)を体系化していて、それを16歳までに習得させる。
  つまりまず、ヒトが何がしかのものを習得するときの模倣のお手本を示して見せる。選手は、ゲームにおいて蓄積されてきた「原則的なパターン」その「体系的なかたち」を習得しながら、模倣する本人自身がプレーモデルの構造というか構成というか、ベーシックなパターンからユニークなモノまでの位置づき方や積み重ねの法則性、味方メンバーの動きとの同調性や意表を突く瞬間など、じつは、身に染みるように自分のものにしていく。
 模倣が選手の身の裡に入っていく過程には、同時に、身の裡で発酵し芳醇化してわがものにしていくことが含まれている。つまり、自律の胚芽であり、いずれの自律である。
 
 これは、幼い子どもが言葉を習得してく過程と酷似している。シャワーのように言葉を浴び吸収する。ことごとく模倣なのだが、単純な模倣ではない。言葉のシャワーを浴びながら「文法」にあたることを体得する。自分なりに遣ってみる。それが笑いをさそったり、大真面目に受け止められたり、怒りを誘発したり、揶揄われたりすることによって、何がしかの法則性を身の裡で組み立て、こうして、自分の言葉を身につけていく。
 幼い子どもに話しかけるというのは、プレーモデルを提示して習得を促している振る舞いである。その振舞いの芳醇さが、文化資産として受け継がれ、言葉ばかりでなく、感性や感覚、感情の豊かさや鋭さ、あるいは安定と静穏さに結びついてくる。それをそれぞれの家庭は、それぞれのやり方で継承しており、同時に社会は、地域や学校やメディアやあらゆる社会関係を通じて、社会全体と時代全体で子どもを育てているのである。
 
 自律とか主体性ということを模倣と分割して、個々人オリジナルの内発的なことと考えると、模倣過程に自律過程が内包されていることに気づかない。模倣が、単純に真似と見なされている間は、監督と服従、または未熟な模倣という関係にしか見えない。そのように狭く見ていると、一昨年の日大のアメリカンフットボールの監督・コーチと選手の関係ように、「つぶして来いと指示をした」か「指示はしていない」かという関係しか目に止まらない。
 だが、模倣するということは、実は同時に、選手の中で、その模倣の一つひとつがどういう関連で位置づいており、他者のどのような動きに連動して必要とされたり無用とされたりするかという、規則性を自分なりに組み立てている。それが自律の原基となり、言うまでもないが、才能を磨く地点でもあり、あるいはまた生まれ持った才能の違いが現れる場面でもある。ここに結実するかどうかが、敵味方が入り乱れて攻守が目まぐるしく変わるゲームにおいて、監督・コーチがもっとも関心を払うことになる。
 
 私はいま、サッカーのことではなく、学校の教師と生徒が、社会関係を身につけていく過程として考えようとしている。岡田武史がいうように、「監督の戦術にはめ込む」というのは、選手をコマとして(監督のイメージするように)動かしてゲームを組み立てようとする、支配的な発想である。つまり、子ども・生徒がプレーモデルを知らないままに高校生になって、監督やコーチや教師のいうことを聞けというパターンは、じつは、日本社会における大人のプレーモデルでもある。そこに岡田武史は気づいて、モデルチェンジをしようとしていると思われる。
 社会の秩序に気を払う役人や政治家や企業などの上に立つ人々は、果たして庶民が自律することをどれほど評価しているのか、ときどき疑問に思うことがある。子どもが、生徒が自律していないと嘆く大人がじつは、(子どもや生徒の)自律をさほど望んでおらず、要するに時分(大人)のいうことをきけと言っているにすぎないことが、多いのではないか。
 その人たちにとっては、規律訓練で「しつける」ことができないのであれば、庶民は動物化しているとみなして、環境管理型で秩序維持を組み立てていく方が、面倒抜きに「きちんと管理できる」。そう思っているかのような社会施策がどんどん広がっているようにみえて、我知らず、恐ろしくなる。