mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

上野原の盟主・静かな権現山

2020-01-16 11:37:47 | 日記
 
 小仏峠の西、中央線沿線の北側に線路と並行するように大月方面へ延びる山塊は、総称して何と呼べばいいのだろうか。昨日(1/15)、その最高峰である権現山へ行ってきた。
 上野原駅に降りたのは8時。登校する日大明誠高校の生徒たちが一緒にどっと降りる。つい一年ほど前までは、駅の北側の狭く細長い土地にバスが器用に入ってきては向きを変え、出発順に列をなしていた。ところが南側に広いターミナルがつくられ、そちらにバス停などは移ったのだが、南側の平地との行程差が20mはあろうか。駅舎から下る3基のエレベータがもうけられてはいるが、生徒たちは階段を並び歩いて下る。それほどたくさんの生徒がいるのに、通路の半分は「昇り用」としてがらがらに空いたまま。つまり生徒たちの振る舞いが、まこと見事に作法に適っている。私ら年寄りは生徒の群れを離れて「昇り用」を下る。作法を無視しているわけだが、もちろん罪悪感はない。
 
 降りてすぐにタクシー運転手に下山地へ来てもらうには、どうすればいいかを訊ねる。コースタイムで歩けば15時19分のバスに間に合う計算なのだが、それに遅れると17時前まで、バスがない。タクシー運転手は下山地まで15分くらいだから、降りてから電話をくれと、教えてくれる。バス待ちをしていると、上野原名物の山案内オジサンがやってくる。権現山へ行くというと、バリエーションルートを教えてくれる。1時間ほど歩行時間が延びるところへ下れば、30分に一本バスがあるよという。そのとき、今日予定の下山地を通過するバスは、冬場は17時ころまでないというのだ。タクシーの都合を聞いていたから困らなかったが、バスを決め込んで上っていたら、バス停で待ちぼうけを食らうところだった。
 
 バスは40分ほどかけて山奥へと入り込む。上野原市は、相模川の河岸段丘のように北側が台地上に盛り上がって東西に広がる。中央線の北側に街が並ぶ繁華街がある。やがて民家が切れ切れに点在するようになり、登山口の初戸(はど)に降り立つ。ここまで乗っていたのは、私たち登山者だけ。霧雨が落ちている。今日の天候が良くないのは承知していたが、6時に雨または雪は上がり、晴れ間が出るという予報であったが、雲の通過が遅れているのだろうか。
 
 鶴川を渡り山道へ踏み込む。敷き詰めたような落ち葉を踏む急登がすぐに現れる。台風の影響なのであろうか、斜面の一角が大きく崩れ、木々が伐り倒されて放置されている。このままじゃ却って危ないじゃないかと話しながら、kwrさんはゆっくりと登る。霧雨は一稿に止まない。少し明るい斜面の向こうは雲に霞んでいる。ヒノキの林だ。雨で流れた落ち葉が登山道に積もり、それが雨に濡れて滑りやすい。体が温まり、一枚脱ぐ。1時間20分ほど登ると、枯葉についた雪が目につくようになった。標高をみるとほぼ1000m。昨夜からの雨は、やはりこの辺りでは雪だったようだ。
 
 徐々に雪は多くなる。道はしっかり踏まれていて、ところどころに「権現山→」の小さな標識があるが、クマがかじったのであろうか、どれも半分壊れている。スギやヒノキの樹林に入ると、雪は積もっていないが、雪の塊が落ちてきた様な白い斑点がぼたぼたと散り敷いている。ヒノキの枝に積もった雪が暖かくなって滑り落ちるに違いない。stさんが首に入ったと声を上げる。道の傍らに真っ白に雪化粧をしたヒノキがある。陽ざしが入ると美しいだろうと思う。
 
 歩き始めてちょうど2時間で雨降山1177mに着く。コースタイムより15分早いが、kwrさんの歩調は見事なものだ。ここから権現山を往復してくる。雪を踏みながら西へと稜線を歩く。樹々も、山の斜面も雪が北側にびっしりとついているが、南側はほぼ溶け落ちている。西から押し寄せてきた雨雲が北からの風に雪となって降り積もり、このような景観を作り出したのであろう。雪が多くなるにつれて、山靴の下の雪が締まるキュッキュッという音が大きくなる。「この音が溜まらないわ」と誰かがいう。枝葉に重く着いた雪でヒノキが垂れ下がって頭にぶつかり、どっと雪を落とす。これもまた、面白い。kwrさんは目先の雪を落としながら歩をすすめる。「空が青いよ」という声に目を上げると、北側の雲が一部取れてきている。
 
 稜線が急に持ち上がり、その上に祠が設えられている所を回り込んでから、権現山への最後の急登になる。ジグザグに道は刻んであるが、雪が積もって滑りやすい。慎重に進む。ほんの7分ほどで山頂1311mに到着した。その時、南側から陽ざしが差し込み、山頂での記念写真が撮れた。12時ちょうど。「予定通りの時刻だね」とkwrさん。まるでコースタイムウォーカーだ。ちょうど目の高さから上4000mくらいに雲が張りだし、丹沢の山々も道志の山も富士山も見えない。
 
 倒木丸太や三角点の石標に腰かけてお昼にする。食べていると西の方からひょっこり単独行の若い人が「こんにちは」と声をかけて現れる。外国人のようだ。
「どこから?」
 と聞いて、国を訊ねたように思われたかなと思って、
「中央線のどこから登ったの?」
 と聞き直す。彼は地図を出して、指で示す。猿橋から百蔵山を経て扇山に上り、そこから北上して、ここ権現山に着いたとわかる。
「そりゃあ、すごい」
 と褒める。彼はこの後、中央線の四方津駅へ歩いて下るというから、この山頂から3時間は歩くのだろう。あなたは若い、頑張れと話す。52歳という。「too young」とkwrさんが声をかける。
 立ったまま食事をしていた彼は、おにぎりを出して
「フランス語でボゴビッチというんだ」
 と話す。えっ? ボゴビッチ? へえ、面白いと思ってから、そうか彼はフランス人なのかと思った。食事を終えた彼は、ビスケットを私たちにくれる。kwmさんがおせんべいをお返しに上げている。私も何かと思い、チョコや飴の入った袋の口を開いて、どうぞと言って差し上げる。
「さよなら」
 と言って、彼は先に出発したが、日本に滞在する外国人が、こうして里山を歩くのはたいしたものだと思う。
 
 今日出会った登山者は、この一人だけ。権現山という上野原の盟主のような山だし、ルーもしっかりとしている。なのに、こんなに人気がないのは、バス便が不便だということ。車で入っても、車を置いておける場所がない。上野原市も大月市も都留市も地域の山案内や宣伝はずいぶん頑張っている。この山塊も、昭文社の地図では「陣馬山・高尾山」マップの中央部に位置している。なのに、山塊の名前もなく、行政区域的にばらばらに区切って紹介するのでは、ちょっと残念な感じがする。
 
 少し陽ざしもあったが、気温は下がってきた。お昼を済ませ、下山にかかる。上り7分の急斜面が雪もあって、滑りやすくなっている。先行下山したフランス人のものと思われる、滑り跡の地面が注意を促す。kwrさんは慎重に下る。kwmさんが別のルートを探してついていく。stさんは木につかまりながら雪を踏んでいく。私はストックで身を押しとどめながらゆっくり下る。祠のところで緊張を解く。上るときに見た風景と降るときに目に入る風景とは、異なる。下りの方が雪が多く積もっているように見えるのは、面白い。
 
 先行したフランス人が下っていった四方津方面への足跡も確かめながら、雨降山に戻る。「観測所→」という標識の先には、鉄塔があり、その脇に電波塔が立てられ、コンクリートの建物が3棟ほど建っている。これが、上野原の町からよく見え、町の人たちはあれが雨降山だと誇らしげにいうことが、帰りのタクシー運転手の話で分かった。そこを過ぎて私たちは東への稜線を、まず二本杉山へ辿る。標高1000mになると雪が見えなくなり、また、ヒノキやスギの暗い樹林を歩く。二本杉辺りには、杉の大木があった。
 
 用竹を目指す。途中に「八重トレコース」と記した蛍光色の看板があって、ここがトレイルランに使われているのだとわかる。「八重」というのが、ひょっとすると、先ほど気にしたこの山塊の名前と関係しているのかどうか。用竹へ下るルートもいくつかあるようだったが、標識がしっかりとついている。GPSもみながら迷うことなく、ずいずいと下山。「やっぱり下りは楽だよ」とkwrさんは調子がいい。下の方に上野原の街並みが見える。そちらは陽ざしが当たって、明るい。雨はとうに上がり、標高が下がるにつれ、汗ばんでくる。高度を急に下げるところも、ジグザグの道が落ち葉を敷き詰めて広く整えられている。いい下山道だ。
 
 山が明るくなり、すぐ下にガードレールが見えて、里に下りて来たことがわかった。広いバス通りもすぐにわかり、ベンチが置かれているのがありがたかった。14:45着。お昼タイムを入れて5時間半。コースタイムより30分ほど早い。タクシー会社に電話をする。「通信できません」と表示が出て、交信地域じゃないのかと慌てる。kwmさんのスマホは通信ができるというので、それでやりとりをして迎えに来てもらった。すぐに分かったのだが、私のスマホは「機内モード」にしていたのだった。
 
 タクシー運転手の話は興味深いものであった。上野原駅は日大明誠高校と帝京科学技術大学があるので、かつて山梨県の乗降客数は甲府についで2位だったのだが、富士山に登る外国人客が増えて大月駅に追い越され3位になったと、面白そうに話す。でも、若い人が増えていいじゃないですかというと、かつて3万人いた人口がいまは2万7千人。いずれ2万人になるだろうと人口減少を見通しているように話していた。この町の杉山がお荷物になっているのに、持ち主は「杉が一本売れるとひと月は楽に暮らせた」という昔の話しか覚えておらず、後生大事に抱えているばかり。私らは一本も売らないままに杉山を子どもたちに渡すようだと、時代の移り変わりを嘆いていた。本当に山の国・日本は、林業の将来をどうするか、見極めて対策しないと、手当てをしないで荒れるばかりの山が増えていくと、困ったことになると、道楽で山を歩くだけの私たちも心配したのであった。