mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ボヘミアンとしての人生

2019-07-24 16:59:59 | 日記
 
 第二期も第8回を迎えた(7/20の)Seminarのことを報告しておきたい。講師はfmnさん、お題は「人生に寄り添ってくれたメロディ」。 当初私は、「懐メロ」と思った。だから、以下のような「案内」を記した。
 
 《……でも、懐かしのメロディとなるかどうかは、語り手と聴き手の醸し出すハーモニーがもたらすこと。/「人生に寄り添う」ってことは、懐かしいことばかりではありません。恥ずかしいこともあり、厳しいこともあり、思い出すだに臍を噛むほど悔しいこともあります。/ただ年を取ると、たいていのことが遠景に霞んで、♫あとはおぼろ~、あとはおぼろ~♫ と気まずかったことが記憶から薄れて、懐かしく思えてしまうものです。/リタイアしてからバイオリンの演奏に挑戦しているfmnさんが、寄り添ったメロディに沿いながら彼の人生を語りだすのだとしたら、これまた、なかなか興味深いものです。伴奏付きで、人生の転機を迎える。面白そうですね。聴き手もまた、自分の人生の転機に伴奏してくれたメロディってなんだろうと思いを馳せることが出来ます。ぜひ、お運びください。》
 
 予測は違った。fmnさんは彼自身の音感を形成した「メロディ」を解きほぐし、音を意識し始めてからのメロディとしてジャズからロックへの歩みをとりだして概観し、最終的に「ボヘミアンラプソディの秘密」と看板を振って、彼自身の人生をクイーンのロックに託してまとめ上げるという離れ業を展開してみせた。その終結点が面白かった。人生はボヘミアンであるというのである。
 
 大きく、三部構成にしていた。冒頭にまず、生音、生演奏からはじまり、蓄音機(レコード)、ラジオ、テレビと進展してきたメディアの変容をまえおきして、第一部は、「大衆文化としての音楽」と副題を打って、私たちが子どものころから耳に親しんだ「音楽」を拾う。昭和21、2年の「岸壁の母」にはじまり、田畑義男、広沢寅蔵と、ラジオの時代に親しんだ音楽が、いわば私たちの肌身の音感を育てていたと、それらの録音を拾ってきて、小さいオーディオ装置で聞かせて話を展開する。その後半にアメリカンポップスやマンボ、ロックアンドロール、ブルースやゴスペルを含むジャズへと流れ込む辺りに、世代的に共有する体験としての「メロディ」をとりだしてくる。

                                                                          
 それらはしかし、私たちの高校時代が終わることとテレビの時代に移ったこととともに、音の共有体験は蒸発し、ビートルズの登場という(fmnさんにとっては劇的な)事実を画期的な共有認識として、身体に刻んだ「懐かしのメロディ」は終わったとfmnさんは観ているようであった。彼自身は、そのように明快にことばにしてはいなかったが、「大衆文化としての音楽」のメモリーが、「昭和38年の強烈なイギリスロック:高校卒業してから、ある日突然すごいものが……」と触れたのち、「平成30年(私にとって)びっくりドキドキの曲:令和になってもまだ評判の……」へと飛躍していることにも、「共有体験の欠落」が伺われる。
 
 fmnさんにとってはそのあと、「音を意識し始めてからの」時代へと踏み込み、第二部、「ジャズからロックへの歴史」とまとめる。19世紀後半の黒人霊歌にはじまると枕をおいて、ニューオーリンズからミシシッピ河をさかのぼってシカゴへいく道程を、ルイ・アームストロング、スコット・ジョプリン、ベニー・グッドマン、マイルス・デビス、チャック・ベリーなどを紹介しながら、音としては「聖者の行進」、「ラグ・タイム」、「スウィング・スウィング・スウィング」「死刑台のエレベータ」や「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の主題歌を聴かせる。その合間に、ボヴ・ディランとかジョーン・バエズという懐かしい名を織り込みながら、クイーンの名曲にたどり着く歩みは、彼自身の音楽への傾きを年代記として辿っているように見えた。  
 
 その間にじつは、fmnさん自身のバイオリン演奏が挟まる。還暦を過ぎてから習い始めたバイオリンが、聞けるようになっている。というか、fmnさん自身がたのしみながら曲を演奏する次元に、ようやくたどり着いたよと、歌いかけるようであった。「さざんかの宿」と「北国の春」の歌詞を用意し、彼が老人ホームで演奏するように、自作の道化帽子をかぶり衣装を凝らし首にタオルを巻いてバイオリンを弾く姿は、志村喬の映画『生きる』の一場面をほうふつとさせるようであった。
 
 だが、この日のfmnさんのSeminarの掉尾を飾ったのは第三部「ボヘミアンラプソディの秘密」であった。クイーンのメンバーの紹介、Bohemian Rhapsodyのおおよそ300語になる原曲の歌詞を紹介する。Mama just killed a man とはじまる第二フレーズを訳しつつフレディの身を置いた境遇に思いを馳せ、 彼の(詩句の)語りを、人類の終焉と重ねて受け取り「自分が自分を殺す」歌だと、解説する。その言曲を聴かせたのち、fmnさんはそのメロディを彼自身のバイオリンで演奏する。ついつい私たちも、原曲の歌詞をたどりながら、ということは、fmnさんの解説してくれた意味を読み取りながら、彼の演奏を聞くことになった。
 
 ボヘミアンをfmnさんはジプシーとは違うという。ジプシーは居所を転々とする放浪の民。だがボヘミアンは、元はヨーロッパのボヘミア地方をさしていたとはいえ、身の置き所を失った人々を意味している(と私は受け止めた)。転々としているとは言え、ジプシーは、居場所をもっている。それに対してボヘミアンは、身の置き所さえ喪失して、彷徨っている。まさに私たちの現在の「せかい」における位置ではないか。そう、fmnさんが見据えようとしているように思った。
 
 ボヘミアンとしての人生、そのようにもう一度、私自身の径庭を振り返ってみると、どうみえるか。メロディばかりに気をとられると、その曲を聴いたときの私の「せかい」に応じて、意味を付与してしまっているのかもしれない。詩句に導かれて、ハードに己自身を見つめ直す機会に出遭っているのかもしれない。

石垣島探鳥見聞録(2)石垣島の守り人

2019-07-23 10:01:15 | 日記
 
 7/13に記して以来いろいろとあって、石垣島の探鳥記録が尻切れトンボになっている。ブロンズトキとオニカッコウのことしか記していない。Mさんの案内は、ほとんど石垣島の全域を面で覆うように知り尽くしているからできることと思われた。また、それだからこそ、四季に渡る鳥の生態にも通暁しているといえる。そのいくつかを書いておきたい。
 
 7月の石垣島といえばアカショウビン。私は今年6月に群馬県の赤久縄山に登った折に、山中でその声を聞いている。時代劇などでは夏の場面、現代ドラマでも沖縄などの場面では必ずといっていいほどアカショウビンの声が入る。石垣島に来てからも、道々その声は聞こえる。だが姿を見ることができなかった。Mさんはそれをみせようと車を走らせる。雨の落ちた後、きっと姿が見えるはずと於茂戸岳に近い林道へ向かう。両側から鬱蒼と茂った樹木がかぶさるようにのしかかる林道を、ゆっくりと走る。何度か声は聞こえる。姿を見ることができない。林道の途絶える地点から折り返す。車が止まる。Mさんが正面を指さす。私は一番後ろの座席にいるからフロントガラスの上の方が見えない。Mさんが車をやや後ろへ戻す。いる! 正面の3メートルほどの高さで横に伸びる木の枝にアカショウビンがこちらを向いて止まっている。前の座席に座るEさんたちはすでにカメラに収めて、なおパシャパシャとシャッターを切っている。鳥はしばらくそこにじっとしていてくれたから、しっかりと見ることができた。
 
 第2日目も3日目にも足を運んだ伊野田キャンプ場でも、静かな森にアカショウビンの声は響き、たしかに(何羽も)いることはわかるが、姿が見えない。何度かキャンプ場内を車で巡り、とうとう姿をとらえる。車から出ることはむつかしい。一番後ろの席の私は、身を屈めるようにして高い木の枝に止まる姿をとらえる。だがみていると、前の席の人が「どこ、どこ?」と身を乗り出して私の視界を塞いでしまう。私が後ろの窓から切り替えてみていると、前席の人が今度はそちらに身を乗り出すという具合で、見えなくなってしまうこともあった。ま、仕方がない、と門前の小僧の私はあきらめが早い。キャンプ場の中央でトイレ休憩をとったとき、車の前方を見ていた私の視界の左の方から赤い姿が飛来してきて、飛ぶ姿をきっちりと見せるように目の前を横切り、右の木立のなかへ飛び込んでいった。ご褒美である。
 
 そこで聞いた話なのだが、アカショウビンは蟻塚に穴をあけてそこに卵を産みヒナを育てるのだそうだ。ひなが巣立ちするとアリはその穴をふさぐ。そうして一年経ってまた、アカショウビンは蟻塚に穴をあけて子育てをするという。塞がれていない穴はアカショウビンが使わないとも聞いた。そういう子育てをMさんは観てきているのだ。へえ、オモシロイ。
 
 神社の杜にいるアオバズクもみせてくれた。Mさんは担いでいた大砲のような三脚カメラをどんと下す。傍らの唯一のスコープをもったカミサンが、その方向へ向けてセットして覗き込んで、声を上げた。「あれ、なあに?」。Mさんがのぞき込む。アオバズクが木に止まってこちらをみている。葉の長いヘゴノキの密生して暗くなっているところだから、保護色になって裸眼ではすぐにわからない。それがどんぴしゃりで、一発でスコープに入っていた。Mさんの最初の据え方が見事だったと私は感じ入った。みているうちにアオバズクの立っていた耳がだんだん横に平らかになってくる。私たちをみて緊張しているのだそうだ。Mさんがホホウと声を出すと、止まっていたところからさらに手前の木の枝に飛び移り、声を出す。縄張りを護ろうとしているそうだ。こんな付き合い方をしているのだと感心した。
 
 リュウキュウミゾゴイもカンムリワシもタマシギもアオバトもクロシギの黒いのも白いのも、ここぞというところで「ほら、そこに」というようにみせてくれる手並みは、文字通り石垣島をわが庭として知り尽くし、いつも守り人のように見て回っているからこそできることだと思った。秋と夏に来たとなると今度は冬だねと鳥観の達者たちは言葉を交わしている。カミサンは53種見たそうだったが、門前の小僧は42種しかみてとれなかった。ま、それはそれ。鳥を観るという佇まいのありようが浮かび上がっただけでも、大満足であった。

正面からモンダイに向き合う

2019-07-22 09:58:56 | 日記
 
 7/20(朝日新聞)の立岩真也の「やまゆり園事件から3年」にまつわる「読書欄」の論述が、まことに真摯で面白い。3年前に置きた相模原市の障碍者施設で46人が殺傷される事件が起こってから、「生きる価値がある/ない」というモンダイにどう向き合うのか、突きつけられてきていると、率直に受け止めている。
 
 問い方がいい。やまゆり園事件に「ほかの本も含め、皆とても怒り悲しんでいる。しかし私はなにか「引けている」感じがした」と 自らの感受を提示し、「不可思議な基準で生きて良い人/死ぬべき人を分けるのはなぜか言ってみろと詰問し強く「圧」をかければよいと思った」とやはり自らの思いを言葉にする。これは、この文章を読む者に対して、(おまえさんはどう受け止めたのかい?)と問う力を持つ。
 
 立岩真也はさらに、自答の水路を提示する。
「本を読んで理解可能な理由は一つだ。つまりある人たちを生かしていくと社会はやっていけないと 被告は思っている。それは自明の出発点になっていて今も取り下げていない」
 (それにどう応えるのか)と「論題」の出立点を明快にする。論理的にいうと、
 「もしその認識が当たっているなら、辛くとも皆が死ぬまで互いに生きていくしかないのだという少し高級な「倫理」を語る必要があるかもしれない。だが、もし当たっていないなら、被告が人を殺してよいとする理由は、なにもなくなる」
 と、被告が抱いた感懐が単なる「妄信」ではなく、じつは社会的な共通感覚の背景をもっていることへと視線を導く。その社会的な背景感覚が、時間にかかわる「本」の陳述のなかにみられる、と。そしてさらに、そのモンダイを
 「昔のナチスの話だけでなく今の政治・経済を分析することがこの出来事に対して報道・言論がすべき大きな一つだと思う」
 と、展開の場を広げている。
 
 立岩真也の提示する上記の三つの論点が、いずれも次元を異にして、読む者への問いかけになる。

 「論題」の出立点をわが身に問うと、(生かしていく)「ある人たち」が障碍者だけではないことに気づく。被告にとっては(そこに勤めていたこともあって)障碍者が焦点化されたのであろうが、例えばトランプが反対派の議員などに「(アメリカから)出ていけばいい」と罵ったことも、それと同じ類の反応である。わが身に問うと(かなり飛躍して)死刑囚やテロリストが思い浮かぶが、たぶん心性の根っこには同じ感性が底流していると思う。
 
 突き詰めると、自分と対立的違和感のある存在とでも言おうか。もう少し細かく言うと、共存的関係を取り結んでいない対立的違和感のある存在である。自分と異なる存在は、いくらでもいる。対立的違和感のある存在は、身に危険を及ぼす恐れを感じさせる人たちだが、被告がその心中でやまゆり園の人たちを焦点化したのは、日常的に頻繁な仕事としての接触を通じて「対立的違和感」が煮詰まってしまったからであろう。とすると、「妄信」がどのように育まれ、どう発露するのかは、最近の京アニ放火犯のことをふくめて、みておかねばならないと思う。つまり、「妄信」がその事件の原因ではなく、被告の置かれた「社会的な不遇」が「妄信」を事件へと駆り立てたのではないか。
 
 そこに「社会的な共通感覚」としての「わたし」が立ち現れる。
 立岩真也の指摘する「今は暗く未来はなお暗いという認識」が、たぶん私のいう「社会的不遇」なのであろうが、前者が「妄信」に直結する観念の次元であるのに対して、後者は「妄信」を発露させる「関係(構造)」の次元である。私は、後者の「かんけい」において論じることが「社会的な共通感覚」に媒介項をおいて考えていく道筋に必要なことではないかと思う。「妄信」はだれもが抱く。それを「高級な「倫理」を説いて」制止することは、啓蒙的な要素をふくめて無謀とも思える。だが、「社会的な不遇」を当事者の感覚において軽減する「かんけい」は、具体的な「しゃかい」という場において対応することができる「施策」にすることができる。
 
 「社会的な不遇」に対する認知を社会のコミュニティ的要素に組み込むことだ。そういう「不遇」があることをまず認知し、彼らがそのような(仕事を通じてでも障碍者を焦点化するような妄信へと行き着く)処遇を受けていることへの共感と同情を「社会的に」持つことである。いま彼らは、ことごとく捨て置かれている。それは近代的市民の自立精神を説くことはしても、そうは生きられない人たちが必然的に排出されることへの認識が得られなかったことだ。
 
 そういう意味で言えば、障碍者も、事件に至る被告たちの存在も、同じように「社会的な不遇をかこつ存在」として存在している。「妄信」は持っているがその発露にまでは至らない私たちと、明快な線引きできる違いはない。「「生きる価値」の大切さ」というとき、個人の観念のモンダイと指摘しているように思える。だがそうではない。社会的な認知、つまり、自分が社会に包摂されているという実存感覚が欠け落ちているのだ。その意味で、孤立している。もちろん一般的に孤立が悪いわけではないが、孤立を好ましく思っていない人が無視されるように孤立しているのは、「社会的に必要なコミュニティ性」が欠落しているからではないか。
 
 もし立岩真也の指摘する第三点に持ち込むなら、まさに昔のナチスの話ではないのである。いままさに現代政治や経済を通して構成されてくる社会関係の中で、「社会的な不遇」を包摂する視線が欠け落ち、近代的市民としての自立が称揚されていく中の、報道・言論のはたしている「社会的共通感覚」こそが、問われているのである。それはたぶん、「人権」とか「生命の尊重」といった観念的なことではなく、コミュニティの持つ具体的な人と人との「かんけい」を、再確認して構成していく、実際的なアクションであると思われる。そういう意味で、この記事を掲載した朝日新聞の見出しは、間違えている。
 
 「「生きる価値」の大切さ問う」というのは、観念的なモンダイにとどめている。そこにとどまる限り、立岩真也の真摯なモンダイ提起に見合う、報道・言論の応対にはなっていない。つまり朝日新聞は立岩真也の提起を、わがコトとして、いまだ受けとめていないのである。そこから、やり直さなければならないのではないか。

さあ、そろそろ梅雨明けて、夏山か

2019-07-21 15:58:09 | 日記
 
 昨日はSeminarがあり、午後はお出かけ。帰宅するころ軽く雨になる。ヨーロッパ人なら傘などささずに濡れて歩くに違いないと思いながら、手持ちの携帯傘をかざして駅からの道を心地よく辿る。Seminar後の会食で一杯やったのが利いて来て、家に着くとすぐ風呂に入って横になりたかったのに、録画したアニメを見ているうちについつい見入って、床に就いたのは夜11時ころになってしまった。
 
 今朝は、三週間ぶりに雨の落ちていない日曜日。順延されていた団地のクリーンデイが実施。カミサンは自然観察があって出かけたので、私が草取りに出る。5月末までほぼ一年半一緒に団地の理事を務めた方々とも、久々に顔を合わせてごあいさつ。急に知り合いが多くなった感じだ。話しかけてくる方々もいて、やっと団地が私の住まいになった感じ。29年目にして、だ。
 
 草取りの後、団地の修繕専門委員会。こちらは、昨年度の理事長として、まだあと一年お努めがあるので、出席する。給水管・給湯管更新工事の設計管理会社を選定する手続き段階に入った。まず、工事関係の広報して業者を公募する。その書式、そこへ書き込む項目だけでなく、近ごろは、新聞に記載するものよりうんと内容の濃い、デジタル版も用意して「建築関係新聞」のサイトにアップする。その細かい項目を綿密に作成してくれる方が、委員の中にいる。ほとんど専門的なことばと項目とが並ぶのだが、今年就任した修繕専門委員長が、議事の進行に集中しない。というか、委員たちの話のテンポについて行けず、自分の世界にすぐ入り込んでしまう。どこで身に着けたやり方か、他の委員の発言を繰り返して確認しながら、メモをする。その一つ一つに自分の意見をかぶせようとするから、次への展開になかなか入れない。今期の理事長が進行を拾って次へもっていこうとするのだが、委員長がそれをまた元に戻してしまう。そうだよなあ、輪番お努めの素人集団だから、こういうペースの方がいても、それを受容しなけりゃいけないのだろうねと思いながら、私は眺めている。委員の中には、「あなたで大丈夫か」と極めて率直に口を挟む方もいる。ご当人は、役割上私が担当しますと、気づいていないのか気づいているがトボケているのか、平然としている。
 
 議事は、午後1時までかかった。帰宅してお昼にする。食後、録画しておいたドキュメンタリー番組を見ているうちに寝入ってしまい、終わるころに目が覚めた。おやおや、もう3時になっている。録画を止めたらニュースが流れ、そうだ今日は投票日だと気づく。投票所入場券をもって出かける。地方区と比例区に投票するが、投票所の立会人というのは、どんな方がやっているのだろうか。なんともつまらない顔をして、黙って投票者をみている。奇特な方々だと感心する。外へ出てみると、陸続と投票所へやってくる人たちと出逢う。埼玉県は人口が増えているといっていたか。
 
 そうそう、草取り後の会議までの時間に、今月28日から三日間のレンタカーの予約をした。いつもなら駅レンタカーのジパングクラブで少し安いのを申し込むのだが、福井駅の駅レンタカーは西日本なのでその得点はないという。料金を聞くと、18500円ほどする。ネットで調べれば、もう少し安いのがあるんじゃないかと思って見てみると、それより2000円以上安く借りることができる。さかさかとそちらに予約して、山の同行者たちに「レンタカーの予約も完了」とメールをした。その地方の天気を調べると、27日までは雨だが、28日から晴れ続きになっている。やっと梅雨が明けるか。
 
 まだ一週間あるが、体調を整え夏山へ向かう気分に、ギアを切り替えていかなくちゃと、今朝ほど自覚したばかりの足元の団地のことから気持ちは離れ、夏山の人となっているのではあります。

何を求めているか

2019-07-19 10:33:06 | 日記
 
 昨日(7/18)は「ささらほうさら」の月例会。今日の講師はosmさん。定年ののちに、安上がりの人材登用という身分変更を受け容れて、相変わらず大学の教師をしている。その大学院での講座のひとつに、「教育実践研究」というのがあり、現場で仕事をしている人を対象にして十数人の受講生で週末と休日に開講する。近頃はインターネットで結んで、モニターで顔をみながら全国各地から参加できるとあって、学部を卒業した人ばかりか、保育士、幼稚園、小中高校の教諭や看護学校の教師や地方公共団体の職員なども参加している。つまり、色とりどりの現場にいる方々が「専門的な知識を高めたい」とか「臨床的な力をつけたい」とか、「今の現場がこれでいいとは思えない」という目的や動機で授業料を支払い、やって来る。しかし、小学校での教諭や管理職体験もあるosmさんにとっても、どう(参加者に通有する)共通軸となるテーマをたて、どう展開し、「課題レポート」をどのように提示したらいいものか、思案投げ首の状態だと話が進む。
 
 「受講生がもとめる専門的なことって、なあに?」
 「専門的知識とか技術ってことですかね」
 「知識って?」
 「例えば幼児教育の現代理論とか特別支援教育のこととか」
 「でも出席者の現場がそれだけ違えば、どれかを選び出すことって難しいよね」
 「それは、せんじ詰めれば、コミュニケーション論てこと?」
 「あるいは、教室に出逢う人と人との文化の違いとかってこと?」
 「何を求めているんだろう、その人たちって」
 「それぞれの現場に何がしかのわだかまりがあって、独り自問自答してきて、その脱出口を見出したくて受講しているんでしょ」
 「現場の話を聞いてもらいたいんじゃないの?」
 
 と話しが転がる。osmさんにすると、授業料を支払ってくる方々なのだから、教師としては何がしかの実のあることを差し出して受け取ってもらわなければならない、と考えている。ひょっとすると、そういう発想自体が、「古いのかもしれない」と自戒する言葉が飛び出す。
 
 osmさんは上記の「現況」を語りだす前に《「2.5人称の視点」の立ち位置》を俎上に上げ、教育学者たちの学校教育批判の図式や構図を視野に入れていることを示し、「理論と実践の往還」として「理論」を提示する人たちの三人称的な立ち位置と現場で児童生徒と向き合う教師の(一人称又は二人称的な)立ち位置との差異を問題にし、「受講生自身が探るべき実践の指針としての理路」との落差を掬い上げようとしている。
 
 また、その背景には、《「教える」という立ち位置からの退却》が始まっているいう現状認識を示し、《教えられれば「学ぶ」 はず》という想定の根拠を問うスタンスを表明している。そして、「教える―学ぶ」関係においてほとんど常識的に受け止められている感覚、「教えられても学ばないことはありうる」「教えればわかるはずだ」「わからないのは(学ぶ)自分が悪い」と謂うのを、もう一段深めて、「教え―教えられる」関係と「学ぶ(自分の世界観の構成)」とのパラダイムの違いへ踏み込む必要があると、前段の布石をおいてはいた。
 
 とすると、osm教室の「場」を変えてしまう必要があるんじゃないか。受講生は(現場のわだかまりをどうとらえ、どう始末したらいいか、話しを聞いてもらいたい)と思っている。また彼らが、ほかの現場の方々の話を、当然自分の現場に置き換えて変換し、編曲し変奏して実践に組み込むわけだから、その編曲・変奏の手際を聴きとるようにし、それを参加者全員に返すようにすると、それぞれの人たちの心裡に「他者」が鏡になって映し出されるのではないか。そうすることが、osm教室の達成感や充足感につながるのではないだろうか、と広がる。
 
 たしかにosmさんの話には、離島から(モニター画面を通じて)参加した(学校教育とは違った職場に身をおく)方の「レポート」が、そうした受け止め方の確かさを感じさせるものであったという。osmさん自身が手ごたえを感じたものが含まれていたのであろう。
 
 こうも言えようか。
 教師であるosmさんは「場」のコーディネータを務めるわけであり、参加者がモンダイを投げ込み、受けとめ、キャッチボールをする。ただボールが場外へ出てしまわないように気遣って言葉を挟み、そこでのやり取りが「なにを問題にしているか」をだんだん明快にしていくように介添えを務める。「問題にしていた何か」が、受講者それぞれにおいてなんであったかは、同じことであるはずもなく、それぞれに違いをもつものであろう。それらはたぶん、現代の教育ばかりか文化・社会のとらえ方に関するモンダイであるはず。それを「レポート」に求めて、その回答を再び(形はどうであれ)受講者に投げ返していけば、教師osmの姿は見えないけれども、osm教室という「場」の確かさは、受講生の心裡に残る。
 それがあなたの遺産だよ、と面々から言葉が繰り出され、もう少し頑張ってみますよとosmさんは締めくくった。
 
 教師がコーディネータを務めるという「場」のかたちは、今の時代に暮らす社会の人々がどういうネットワークをつくりあげていけばいいのかを示すもののように思う。授業がネットを通じて離島であろうと(都会地に暮らす人と同様に)五分に参加できるというのは、私たち高齢者の過ごしてきた時代とは明らかに異なる。でもそれだけ「つながり」の広まりは期待できる。それが、大学院という枠組みを抜け出て、人々が自らつくりあげるネットワークに変換していくことへの最初の一歩になるなら、「場」の構築という遺産は間違いなく、受け継がれていくと思った。
 
 考えてみると、私たち高齢者の学生時代には「サークル」というネットワークがあった。それはいつしか、「あった」という外在的な存在のまま卒業したり、放置したりしてしまったが、世に出てからは別の「サークル」を、今度は自らつくるようにして構築し、維持し、何十年も保ってくることもあった。あるいは、仕事を引退後に、そうしたネットワークを構成しコーディネートするお役目を自らに課してもきた。
 ごく普通の都会地の暮らしの中でも、とどのつまり自らの手でネットワークを設えていくようにしなければならないと同時に、そこで集う人々と交わす言葉の「練度」をあげていくことが、コーディネートをする人にとっての「生きがい」になる。なぜなら、そこにおける文化継承の開かれた地平こそが、社会における私たちの存在意義だといえるからだ。
 
 osmさんの「現況」は、もうすっかり現場から身を引いた私たちにとっても、「おい、まだまだ頑張れよ」と刺激する響きを湛えていた。