mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

一人の日本人の人生

2019-07-14 20:27:42 | 日記
 
「A JAPANESE LIFE」

  『ゲッベルスと私』(オーストリア映画、2016年)を観た。監督は4人が名を連ねる。ドキュメンタリーとでも言おうか。ゲッベルスの秘書を務めていたブルンヒルデ・ポムゼルが80年......
 

 読み返して、母親の人生を書こうと考えていたのか、私自身の人生を書こうとしていたのか、わからなくなった。後者は、しかし、自分では書けない。彼の映画監督のように、カメラを通して語らせて描く。お隣の国から「ドイツ人」という、ある一時期普遍的な民族名として誇らしく共有した「痛み」を感じつつ、スポットを当てて抉り出す。

 考えてみると私は、すでに母親が亡くなって一周忌に「妣(はは)の国のチヨコさん」と題して、母の生きてきた時代を描いた。だがそれは、息子が見た「母」であって、「一人の日本人の人生」という扱いの枠からは、はずれると思った。トランプの登場以来ことに、あけすけの利害の主張が恥ずかしいというよりも「いうべきことはいう」政治家の当然の態度のように受け止められていることに、私は違和感を感じている。つまり、どこかに「普遍的な」人類共通の理念があるはずという私の思い込みが、すっかり時代遅れのものになっていることを感知しているのだ。

 母親が生まれた1910年(明治43年)というのは、振り返ってみれば、世界が本気で「人類共通の普遍」を考えはじめる端緒にあったように思う。遅れて出立した日本は、西欧の「理念的な」観念に翻弄されて、のちに日本ではそれを「タテマエ」として擬制のものであると位置づけて、逆に外面的な取り繕いばかりに力を尽くし、欧米人の「ホンネ」のやり口にすっかりしてやられてしまったのだが、それdめお、大正期を通じて「デモクラシー」や「近代的市民」や「人権」などを大衆化する時代を迎えていた。

 その結果が無残な敗北であっても、親世代の失敗がもたらした凄惨な果実をそっくり引き受けて、戦後世代として生きてきたのであった。若いころには親世代の失敗が、あまりに「人の暮」をないがしろにする体のものであったと、親世代を謗りはしたが、今となっては、親世代の失敗もまた、私たちのDNAに書き込まれていたことかもしれないと、受け止めるようになってきた。だが、失敗を繰り返してはならない。そして「人の暮らし」をないがしろにしない選択を、のちの世代のためにもしなくてはならないと、わが身の裡の「一人の日本人」の人生に問いかける。

 そういう意味では、永続的な問いかけがつづくしかないのかもしれない。

 


掌を指すような神業

2019-07-14 14:06:35 | 日記
 
 3泊4日で石垣島の探鳥に行ってきた。わずか4人を旅のコーディネータと現地案内人がガイドしてくれる。いうまでもなく私は、カミサンの「くっつきの尾」。ほかの方々はみなさんベテラン中のベテラン。Eさんは世界各地の鳥を観ていて、なおかつ尽きることのない鳥への関心をカメラに収めて回っている。コーディネートをしてくれたTさんは年に6回ほど石垣島や沖縄県にやってくる好事家。現地案内人のMさんは石垣島の隅から隅まで、ほとんど面積的にも余すところなく、いつも踏み歩き、どこになにがいつやってきて、雛がかえって三日目とか巣立ちをしたとうことを熟知しているバーダーであり、カメラマンであり、イラストレータであり、酪農家である。
 
 わずか6人が一台のバンに乗って、朝6時から夜遅いときは7時過ぎまで石垣島内を走り回る。むろんその間に食事は摂り、夕食は毎日宴会風に鳥談議を交わす4日間であった。全身「お鳥呆化(おとぼけ)」の島遊びであった。門前の小僧である私にとっては、このような自然との向き合い方があるんだという「実存のありよう」を観察させてもらう機会であった。
 
 石垣島には2年前の2017年10月末に、やはり同じメンバーで探鳥に訪れ、Mさんの案内で3日間を過ごした。それは2017年11月4日の本欄「石垣島(1)自然に浸るありよう」で紹介しているから、あらためて石垣島の地形的なことは省略するが、その面積は222㎢。さいたま市の面積が217㎢であるから、ほぼ同じ広さということになる。6割を占める平地は田圃とサトウキビ畑が多く、刈り取りが終わったばかりのところもあれば、これから田植えというところもある。二期作、三期作を行っているから、決まった作付けのシーズンがない。行っている間の最高気温は33度、最低気温は29度なので、ほぼ寒暖差がない。梅雨や乾季はあるが、稲の栽培に触りがある変化ではないのであろう。
 
 山の平地も緑に覆われている。耕作地ばかりではないから、背丈の高い草や樹木が島の全面を装い、周りは海。厳しい自然というよりも、繁茂するとやっかいな自然という感触が強くなる。主要道は舗装されているが、脇にそれるとすぐに農道やあぜ道様になる。水の張られた水田や用水路に降りたつ鳥もいるから、車を乗り入れて子細に見て回る。「これ、抜けられる?」と心配になる。行き止まりには車を回転させる、少し広いところがあることも承知している。こういうのを熟知というのだと感心した。
 
 そのMさんが私たちの訪問前に気づいて、ぜひみせたいという鳥が2種あった。ひとつはブロンズトキ。沖縄県でも3回ほどしか記録がない。それが、石垣島初見だという。1日目、お目当ての水田にすでに一台の車が止まって観察している。何枚かカメラに収めて、初日は引き上げた。その後毎日訪れてみた。その都度近くの田に場所を換えてはいたが、陽ざしが朝陽だったり暮れ方だったり、順光になったり逆光になったり、あるいは曇っていたり晴れていたりしてカメラには何度足を運んでも「いや今日のは、よかった」とご満悦であった。
 
 もう一種は、オニカッコウ。石垣島では初めてだという。ところが、これが姿をみせない。Mさんは私たちが訪問する前にオニカッコウが来ていることを確認し、その鳴き声を録音していた。私たちはその音を聞いて、期待を膨らませた。しかし2日目早朝、ここぞという場所に足を運んだが、声も姿もみせない。雌雄の二羽がいることをMさんは声で確認している。夕方にも行ってみたが、気配がない。「場所を換えたのかなあ」とちょっと不安げであった。3日目早朝、やはりだめ。あちこち回ってお昼を摂っていたら、にわか雨が降った。Mさんは「こういう雨の後がいいだよね」と車を向ける。車を降りて、ここというところへ双眼鏡を向け、スコープを向けるが姿も声もつかまえられない。南東の方から黒い雲がやってきて、雨が落ちる。と、コッコッと響く声がする。「これ、オニカッコウの雌の声よ」とMさんは元気づく。しばらくして、コオウ、、、コオウ、、、と少し間合いをおいて良く響く雄の声が響き渡る。雨が落ちる都度車の庇に潜り込んでいた面々がにわかに活気づく。だが姿は見せなかった。そうして4日目の早朝、やはり同じ場所へ足を運ぶ。ほどなく雌も雄も声が響く。いるいると、渓を挟んで百メートルほどに近づいて腰を据える。何かが飛び込んだ。Mさんは雌は左へ、オスは右へ飛び込んだという。お目当ての枯れ木から30mほど右へ寄った枯木のあたり。しばらくにらんでいると、枯木の上に雄が姿を現し、コオウ、、、コオウ、、、と鳴き声を上げる。カラスより少し小さい。嘴が赤く尾が長い。しばらく姿をみせてから、オスは左の方二百メートルほどの森へ飛びうつった。私たちの視界からはう~んと遠くなったが、少し経って森から飛び立ち、私たちの頭上を越えて、もう一つ別の山の森へと移動していった。後で分かったのだが、カメラマンはバッチリと雌の姿もとらえていた。
 
 まるでドラマ仕立てのようなオニカッコウの現れ方ではないか。みせようというMさんの執念、ここのあたりにいるというわが掌を指すような確信。それらはいずれも、毎日のように(仕事の合間を縫って)石垣島の中を経めぐって、どこに何がいつやってきて、巣をつくり、卵を温め、雛が孵り、巣立ちしたということごとを細かく観察つづけていることによって、可能となっていると思われた。まさに神業は掌を指すようにして生み出されたと思った。