mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

台風一過の山日和になるか

2017-10-23 17:22:25 | 日記
 
 朝方台風が通過したようだった。自転車置き場の屋根に落ちる雨音が高くなり、大粒だなあと思った。いつもなら雨でも、布団をあげるときに窓を開けるのだが、今日そうしなかったのはどうしてだろう。風が強くて吹き込むことを心配したのだろうか。
 
 TVは選挙結果のことばかりやっている。すぐに消した。新聞を読み終わり、朝食を済ませて歯の薬を飲んでいるときに、そうだ、痛みはもうないのに、まだこれを飲み続けなければならないのだろうかと思った。五日分をもらって、ちょうど半分飲んだ。受け取るとき、たしか、抗生物質とか言っていたが、どうするんだろう。薬局へ聞きに行けばいいんだ。外を見ると、陽ざしが出ている。風が強いらしく、ざわざわと木の葉の擦れる音がする。
 
「出かけてくる」
 と、洗濯物を干しているカミサンに声をかける。
「どこへ?」
「薬局。痛くなければ飲まなくていいか、聞いてくる」
「オチさんとこへ返すものもあったでしょ」
 と、言われて思い出した。肩が石灰化して痛んだとき、腕を吊るす補助具を借りていた。もうつるす必要はなくなり、洗っておいたのを返さなければならない。
「ああ、寄ってくるよ」
「ついでに高橋クリニックへ寄って、私の薬の処方箋を頼んでおいてくれる。あとで取りに来るからと言って」
 という。薬局のそばだ。
「ああ、いいよ」
 と応えて、診療カードと保険証を受け取り、家を出る。ドアの外に落ち葉が、風に吹かれて舞っている。もう一度玄関を開けて、
「落ち葉が舞ってるよ」
 と声をかける。
「うん、あとでやっとく」
 と、リビングの方から声が返ってくる。
 
 外は明るい。青空も見えている。風は強いが冷え込みはしない。上に長袖を一枚羽織っているだけなのに、歩いていると汗ばむほどだ。オチ医院では手渡すだけ。そこからずうっと住宅地を通って高橋クリニックへ向かう。大宮舌状台地の高低差を上ったり下ったりしながら、道路の陽の当たる側を選んで歩く。日影に入ると、やはりちょっと冷える。ごみの回収車が脇を追いこして行き、先の信号を右折しようとウィンカーをしばたたかせている。花見好きの朱い実が強い風に飛ばされてたくさん歩道に落ちている。
 
 高橋クリニックも受付に依頼するだけ。台風のせいだろうか、受診者は少ないようだ。薬局へ行って、聞き忘れたのだがと前振りをして、訊ねる。二種類の薬のひとつは全部飲んでくれ、もう一つは後の抜歯を控えているようだったら、飲んでおいた方がいいが、そうでなかったら、飲まなくても構わないと、丁寧な説明があった。医院も薬局も、応対が穏やかだ。素っ気なくもないが、愛想を振りまいたりもしない。要件を機能的にてきぱきと処理しながら、丁寧さを欠かさないといおうか。
 
 線路際の道を歩いて家へ戻る。戻りながら、このまま明日から晴れるのなら、どこか山へ行けるなあと思う。帰宅して、どこの山へ行くか、さっそく地図を出して探る。会津高原尾瀬口駅から4kmほど入ったところから登る荒海山1581mというのが目にとまる。駐車場から往復するルートは5時間半ほど。一部が滑り易くて手ごわいとある。下見にちょうどいいかもしれない。でも、せっかくだから、その北にある七ガ岳1636mも4時間半ほどで面白そうだ。そうだ、会津高原尾瀬口駅から徒歩1分という温泉に宿をとって、明日、明後日と登ってこようと、アプローチ、コースタイムを書きだし、地図をプリントアウトする。
 
 いやそれよりもまず宿だ、と電話をする。すると、
「素泊まりですか? そう二食付きですか・・・。宴会が入っていて、申し訳ありませんね」
 と、断られた。もう一件、三滝温泉というのもあるから、そちらへも電話をする。
「いつですか? 明日はちょっと無理なんです。ごめんなさい」
 と、こちらは事情を尋ねることもしなかった。
 
 傍らで聞いていたカミサンは、「えっ」と驚いたような顔をしている。台風一過のウィークデイなのに、いっぱい? でも、どうしてなのだろう。いや一人というのが理由かもしれないと私は思った。ときどき、「お一人様はお断りしています」とはっきり言われたこともあるからだ。あとで、「素泊まりです」と言えば、良かったのだろうかと思ったりしているが、まあいい。ならば、日帰りで、七ガ岳だけでも行ってこようと肚を決め、山支度をした。

里神楽と現代の神楽

2017-10-22 15:31:15 | 日記
 
 おもしろもなふて身にしむ神楽哉  北枝
 
 と、立花北枝に詠まれた里神楽。その「神楽の魅力と課題」と題された「公開講座」に誘われた。文教大学の80周年記念事業で、二週にわたって行われたが、昨日のだけに参加。同大学の斉藤修平教授の講義と神奈川県に本拠を置く垣澤社中の公演。第一回のテーマは「伝統芸能・神楽の歴史と現代における異議と課題」、今回のテーマが「神楽の魅力と課題、そして展望」。それぞれに垣澤社中の公演がついている。第一回には、「舞」を中心とする神楽の実演、第二回には「楽しい神楽の実演」と題して「寿式三番叟」「八雲神詠」「山神」に「江戸流ひとつばやし」が披露された。
 
 神楽についてはまったくの門外漢だった私も、斉藤教授による大づかみの話がストンと腑に落ちる。記紀神話にはじまる御霊を鎮める(つまり、神に捧げる)神事としての「神楽之事」のかたわらに(民草も楽しめる)「神楽能」が出来し、猿楽の影響を受けて出雲流が生まれ、「神楽之事」(の要素)が徐々に少なくなって芸能化してきたという流れは、江戸好みとして関東でもてはやされ、里神楽として受け継がれてきているという。いまは「神楽能」を中心に「神賑わいという奉納芸能」になってきており、そのなかに「神楽之事」のニュアンスを探すように観ることをすすめるという教授の指摘は、簡潔で分かりやすい。と同時に、「神楽」をこうして概念的に規定するご自身の方法を「安定的に理解するためにカテゴリー化しているが、それが逆に、神楽(を担い演じる人たち)を縛ることにもなり、(それにこだわり続けると)衰退の危機を迎える」とみてとる、研究者への自己批評性を湛えた解析は、秀逸であった。と同時に、垣澤社中の(神楽の伝統を引き継いでいこうとする)苦衷にも、触れる思いがした。事実、後半の公演で、ちょうど新劇歌舞伎のように、ハロウィーンの習俗とかぶらせて演出をしていたのは、(私は、ちょっと違うんじゃないかなと思ったが)その表れであろう。垣澤社中も、垣澤勉さんがいまだ健在とは言え、三十歳くらいの娘・垣澤瑞貴さんが跡を継いで、演出全体を引っ張っているようだ。その若い世代のセンスを取り入れようと工夫しているのであろうが、ハロウィーンというケルトとキリスト教との混淆文化の「仮面」という表層だけをなぞるように取り入れるのでは、ますます「神楽之事」の要素が希薄になり、古典芸能を模した学芸会に堕していしまう。見ているのも、ちょっと気恥ずかしくなってしまう。
 
 ちょうど今年の三月ころから「お伊勢さんの不思議」を調べようと、少しばかり記紀神話の流れを読み解き、自分なりの「お伊勢さんと私」や「天皇制と私」に思いを及ぼしていたこともあって、神楽のありようが「記紀神話と私」の狭間に浮かぶようであった。たぶん猿楽の系譜に位置することに由来するのであろうが、公演を見て感じるのは、「神楽」は生きているものの側からみている「世界」、「能芸」は使者の側からみた「世界」という気がした。その狭間に「神」が位置していたものが、「神」が後景に退き生者が前景化するにしたがって、未開の感性が揮発してしまったように思える。
 
 長い間私は、「能芸」にしても「神楽」にしても、古典芸能が私の内部の何かとどうかかわるのか、感じとることができないできた。それがこの歳になって、内部の何かと触れあっているような感触を抱いている。この私の直感はたぶん、歳をとり、私自身の身が始原にむかっているからではないだろうか。いいのか悪いのか、わからない。北枝の句じゃないが、「身にしむ」ように思った。
 
 この「公開講座」の始まりと終わりに、素敵な舞台を見た。文教大の「打組 出津龍」の「人寄せ太鼓」と「送り太鼓」だ。40人ほどの学生がそれぞれ30分ほども、太鼓の演舞を行った。佐渡圀鼓童の作品を演じたり、八丈島、三宅島の木遣り、秩父屋台囃子、沖縄の残波咆哮、南部牛追い唄などなどを演じた。入れ代わり立ち代わり何基も据えた太鼓にむかい、しっかと腰を落として脚を据え、打ち据える撥の力強い動きに手と身体のしなやかな伸びがつれそって、なんとも見事な太鼓であるとともに、踊りであった。太鼓も喜んで爆ぜるような音を出し、かと思うと柔らかい響きを間合いに湛え、オフビートの打音へと変わる。それを打ち据える人たちの動きが、舞台の上に(後半では会場に)交錯し、40人ほどの人たちの群舞にみえた。
 
 太鼓の音というのは、「場」の集中を促す。小さく、あるいは鋭く響くベース音はリズムを作り、そこへ参入する次の太鼓の音を誘う。その打音のテンポとスピードを共有しながら、人の動きが形を成し、舞台の動きをつくる。そのときの一人ひとりの身のこなしが、人の身体はかくもしなやかで勁いものかと感嘆する。美しい。しかも、ただ単に、一つになっているがゆえの美しさではない。まだ形成途上にあることを隠さないかのように、弱いところを他のものが扶け、補って代わる。そこに、この集団の「健康さ」が現れて、微笑ましい。若い人たちもなかなかやるではないか。
 
 事情を知る人の話では、この「打組 出津龍」の演舞をつくりあげた学生たちのグルーピングは、15年ほど前に、わずか4人からははじまったそうだ。そうしていまは、ほとんど自分たちでビデオや譜面を読み、構成や演出をしているという。どんな集団編成をし、どう運営して今に至っているのかは聞かなかったが、こうしたことが(たぶん大学の授業以上に)彼らの貴重な体験になるに違いない。そう思って嬉しかった。
 
 なんだかこの太鼓が、神との出逢いをもつようになったら、「現代の神楽」にふさわしいと、ふと思った。

究極の「美」を求め続けて歩く世界

2017-10-21 09:28:53 | 日記
 
 この世に恵まれた人たちがいることは知っている。金銭や人間関係の醜い争いごとに悩まされることなく育つという環境もあろうが、出遭うことひとつひとつが己に問いかけ、それを胸中に育みながら、究極のところ、ことごとく己の裡側において完結する人たち。皮肉ではない。豊かな社会に生まれ暮らす人ならではの幸運と、今の私には思える。宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋、2015年)を読んでの第一印象である。
 
 「音」に心惹かれた一人の少年が、魅せられたわけを探求しつつ「音」が介在する「世界」にのめり込んでいく物語。ピアノの調律師とピアノとピアニストと、それが調律され、演奏され、それを聴き取る(人々の)場面に、「音」がどういう息遣いをして「かんけい」を紡いでいるか。そこに踏み込んで、自らの肌身に刻まれた原体験にスパークし、起ちあがる「美」の繊細さと人の手の関わる絶妙さを掬い取っている。究極の「美」を求め続けて世界を歩く人の姿がピュアである。
 
 作品中に何度も引用される原民喜のことばに、作家・宮下奈都の(主題的な)思いが込められている。
 
 《明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体》
 
 いまの、恵まれて育った若い人たちは、みな、この作家のようなのだろうか。穏やかでやさしく、他人へ刃が向かない。内省的で、ひたすら前向き。心裡に生じる不安も、不確定なことへの向き合い方も、自然(じねん)のように昇華されていく。もしそうだとしたら、現実に起こっている、醜悪な憎悪や嫉妬やヘイトスピーチや暴力や諍いは、恵まれない人たちの叫び声ではないのかと、「反世界」が私の内部で起ちあがる。
 
 この作家の作品に好印象を懐くだけに、「世界」と「反世界」の断裂に視線がひきつけられてしまうのは、私の業なのか。

疲れが全体化している?

2017-10-20 06:46:07 | 日記
 
 山からの帰りの電車で「疲れないんですか?」とmrさんから訊ねられた。たぶん、皆さんにしっかりついて歩き、下山してはビールをうれしそうに飲んで、それなりに正気を保っているのを気に留めたのであろう。
「いや、そんなことはないですよ。疲れが出ないだけです」
「ええっ、疲れが出ないって、すごいじゃないですか」
 と誤解されて、やりとりは終わった。
 
  四時ころ帰宅。十月初めの山行同様に、山行記録を書こうと思っていたが、体がほくほくして何もする気がしない。とりあえず、山用具を片付け、洗濯物を選択かごに入れて、メールをチェックするなどして、ぼんやりと過ごした。たいして疲れているとは思っていなかった。だが、何もする気がしない。
 
 下山して風呂に入ったというのに、もう一度風呂に入って床に就いたのが八時。小説を読みながら寝ようと思ったわけ。何時ころであったか、「電気を消して寝れば・・・」とカミサンに言われたのは覚えている。「鼾をかいていたのでのぞいてみたら、本を胸の上に広げたまんまでねていた」と、翌朝になって聞いた。鼾をかくと言われたのは、ほんとうに久しぶり。昔は大酒を飲んだときに鼾をかくと言われたくらいであったから、久しく(私は)鼾はかかないと思っていた。そういえば昨日の山小屋で「誰だったか鼾が聞こえて(寝られなかった)」とodさんが話していたときも、それが私だとは、つゆ思いもしなかった。
 
 昨日は朝から山行記録を書いた。途中、午前中2時間くらいカミサンを車で浦和に送り、帰りに買い物をして帰ったから、また、山行記録を書いた。ふと気づくと12時を回っていたので、お昼にしながら少しTVを観て、ふたたび山行記録を書く。そうこうするうちにカミサンが帰宅。彼女もお昼を済ませて録画していたTVドラマを観る。面白そうであったから、山行記録を書くのをやめて私もソファに横になってドラマを観る。じつは観ているうちに寝入っていたように思うが、ストーリーを理解するのに支障はなかった。
 
 3時頃から再び山行記録を書きはじめたと思う。ふと気づいたとき、なぜかまだ、午前中のように思っている自分に感づいた。ええっ、お昼の時間にならないのかと思いつつ壁の時計を見ると、午後4時を回っている。そうだ、お昼を済ませたんだと思い直して、どうしてお昼前だと思ったんだろうと、自分をヘンだと思った。
 
 山行記録を書き終え、ブログにアップ。そのあと、文章に写真を張り付け、pdfファイルにして山の会の人たちに送る。なんとか夕食前に作業を終えて、めでたく今回の山は終了したのだが、珍しく、太ももの筋肉痛がはじまっている。ほほう、こんな形で「疲れ」が出てきたかと思った。歯茎の一部も痛む。指に塩をつけ歯茎の手入れをする。今朝になって、歯医者に行かなくてはならない状態になっている。
 
 ま、こんなかたちで私の「疲れ」が出て来た。若い人たちは歩いているときに、脚の痛みや筋肉痛が出てくる。だが、気になるのは、鼾をかくことと午前と午後の時間感覚を一時とは言え失ったことだ。「疲れ」が出てこないのではない。「身」全体に広がって現れているのだ。そんな感じがしている。いやはや。

めでたし、めでたしの雲取山

2017-10-19 16:10:51 | 日記
 
 ★ 第一日目(10/17)
 
 秋雨前線とは言え、十月にこんなに雨が降ったろうか。そうは思っていても、「月例登山」の日程をどこへもっていっても雨続き。ま、様子を観ましょうと構えていたら、ちょうど予定の両日が「雨あがる」気配。喜び勇んで出かけた。10月17日(火)のことだ。

 当初プランでは西武秩父駅からバスに乗る予定であった。ところが山の会のメンバーに、「三峰口駅からタクシーを使って少しでも早い時刻にした方がいいんじゃないか」とアドバイスされ、30分ほど早く歩きはじめるように変更した。秋の日の落ちるのは早いと考えたからだ。雨がぽつりぽつりと落ちる三峰口駅には予約のタクシーが待っている。五人が乗れると言っていたのに、後座席に四人乗ってくれと運転手。前席にはコンソールボックスがあるから三人が並ぶのは運転の邪魔というわけであろう。我慢してスタート。秩父湖を通過するころには雨粒が大きくなった。まいったなあ。
 
 10時ころに到着。幸い用意を整えるのにありがたい小さいビジタールームがあった。そこで着替えて歩きはじめたのは10時15分頃。雨はしっかりと降っているが、「それほどでもないよ」とkwrさんはつぶやき、苦にしていない。それも三峰神社のスギの森に入ると雨の勢いは衰え、雨着が暑いほどに感じられる。鳥居を抜けるところに「こんな山と思っても」と大書したイラスト付きの看板がかかり、登山に関する注意が書き添えられている。ここは三峰神社の奥宮がある妙法が岳への参拝者もいるのだ。20分ほどでスギ林を抜け、稜線上のブナやツツジの広葉樹林帯に入る。雨も小やみになって明るくなる。odさんを先頭にしてゆっくりと登る。
 
 odさんはつい昨日「詩吟の発表会」に出演して新人賞をもらったと、mrさんが話す。ほほう、ならば先頭で唸って熊除けでもしてもらえればと茶化す声も入る。odさんの話では、山歩きをしてもすぐに息が切れるので肺活量を増やそうと始めた詩吟だそうだ。それよりも、雲取山というのは子どものころから「東京都の最高峰」と地図を見て知り、61年前からの念願の山だったそうだ。先日の山歩きのときにその話をしたら、msさんに「そんなに取っておかないで、さっさと登ればよかったんじゃないの」と言われたが、「根が臆病なものだから自分では登れないので」と、機会をうかがっていたらしい。でも今歩いているのは埼玉県。雲取山は都県境に位置する。
 
 1時間余で炭焼平。炭焼窯の石組みが残り、窯跡を詠んだ藤原のなんとか朝臣という歌人の歌を添えた説明板がある。まさか平安のころから「窯跡」であったわけじゃないだろうと笑い交わす。クヌギやミズナラ、カエデなど広葉樹の林には色づいた木の葉がたくさん落ちている。ところどころクリーム色の五枚の葉をつけたままのコシアブラが足元を埋める。地蔵峠。「海抜1500m」と表示がある。もう標高差400mを上っている。1時間40分。雨も上がり「あと標高差32m」という声にお昼の休憩が目に浮かんで登る勢いがよくなる。
 
 12時、霧藻ヶ峰。休憩所は締まっているが、板敷のベランダと外のベンチがちょうどよい。上空の雲は取れないが、下界に雲海が広がり、秩父の峰々の裾を覆い隠している。お昼にしていると、若い男の単独行者がやってくる。私たちの当初予定していたバスでやってきて、後を追ってきたようだ。そのあとに短パンにTシャツ姿のランナーがひょいと顔を出し、ささっと先へ姿を消した。(彼は雲取山を日帰りだよ)と話す。またあとに、夫婦連れの一組が来て、ベンチに腰掛ける。彼らも、雲取山荘を目指している。山頂の紅葉の色づきはよく、霧に霞んで幻想的な雰囲気を醸し出す。残念ながら霧藻を目にすることはできなかった。
 
 30分ほどののちに出発。15分ほどでお清平を過ぎ、急登になる。事前にガイドブックを読んでいたmrさんは「地獄の上りだって」と戦々恐々であったが、1時間20分で前白岩山1776mで「地獄」を抜け、「地獄がこれくらいなら悪くないね」と誰か。「いや、日ごろの行いがそう悪くなかったってことでしょ」と混ぜ返すと、「まるでもう亡くなった人みたい」と返される。そこから20分ほど下ると白岩小屋の屋根が霧の中に浮かぶ。人はいない。はたして土日には営業しているのかしらとおもうほど、寂びれている。おおむね500mごとに「雲取山4.2km→」という標識がしつらえられていて、「ええっ、まだ500mしか歩いてないの」と思い、また「あと2.2kmよ」と励ましにもなる。これはこれで、だいぶくたびれてきている証拠だね。
 
 その先がまた急登30分。白岩山1921mに着いた。「今日の雲取山荘が1840mだから、もう上ることはないよ」とkwrさん。たしかに道は軽く下りはするが、おおむね水平道。酉谷山へつづく長沢背稜や日原の方へ下る大ダワ林道を分ける。紅葉はますます色濃く、雲の中にあって秋深い気配が強まる。その都度振り返り、感嘆の声をあげながら先を急ぐ。16時、雲取山荘着。当初予定のコースタイム5時間20分に対して、5時間45分。お昼を時間を入れると、まずまずのペースでやって来た。
 
 「17日はちょっと団体さんが入っていて混みあいます」と言われて予約した雲取山荘は、ひっそりとしている。収容人員140名というからおおきいのだが、30名ほどしかいない。ここのところつづく長雨に団体さんがキャンセルしたのだろうか。10畳ほどの一部屋が割り当てられる。5人なら楽々だ。こたつも入れてある。濡れた雨着などは、上に上がる前にプレハブ小屋に干せるように乾燥室がある。女性陣が着替えている間に、私とkwrさんは石油ストーブの入ったフロアでビールを飲む。傍らのカウンターをみると「源作」という名の秩父ワインもおかれている。あとで呑もうと話していたが、着替えた後、持ってきた焼酎を呑んでおしゃべりをしていると夕食の時間になってしまい、ワインを味わうチャンスを逃してしまった。
 
 入口のフロアに記された「NHKの予報」では、翌18日朝も雨、のち曇りと「事前の山の天気」より悪い。だが、真夜中に目が覚め外のトイレに行ったとき、見上げた空の星に鮮やかさに驚かされた。北斗七星もオリオンも、いや、たくさんの星々がくっきりと輝いている。距離も近くなったかと思うほどだ。それほど寒くないのもありがたかった。
 
 ★ 第二日目(10/18)
 
 4時に目覚ましに起こされた。九時間は横になっていた。けっこう熟睡もしていたらしい。「なんでみんな、そんなに早く準備できるの」と、いつもぼやいているmrさんが手早く荷をまとめ終えている。晴れ渡る空に三日月と明の明星が南の空に浮かぶ。朝食は五時からだが、五分前には用意ができたと声がかかる。昔ほどではないが、サケの切り身、生卵、海苔とふりかけという「並み」の朝食。これで7800円だから、ありがたい。用意を済ませた人たちから山頂への道をとる。私たちは5時40分に出発。                                            
 いきなりの急登だが、ここは61年ぶりに念願を果たすotさんに先頭を歩いてもらう。山頂へ着く手前で陽が昇る。しばらく立ち止まって、朝日を浴びる。山頂はピーカンの晴れ。「富士山が見えるよ」と誰かが声をあげ、どこどこ? と樹林の向こうが見えないので訊ねる声が重なる。カラマツの林の向こうに、大きく背を伸ばした富士山がくっきりとした姿を見せる。その富士の東の方には大月市の上に雲海がかかり、大菩薩連稜を挟んだ西側には甲府盆地の(たぶん)山梨市とか笛吹市の上空を覆う雲海がある。「あの向こうの、ちょっと尖った山は何てえの」とkwrさんが聞く。山頂東側の摩利支天が特徴の甲斐駒ケ岳だ。アサヨ峰が連なり、その奥に仙丈が岳、その左に北岳が大きく丸い山頂をみせる。富士山手前には山頂にアンテナ群を乗せた三つ峠。「あ、あそこ登ったね」と三月の山行を思い出した声も上がる。国土地理院の設置した《雲取山「原三角測點」》の説明プレートが置かれている全国の三角点測量を行うに先立って。1883年に設置された測量の原点というわけだ。「旧字を使ってるね」とmrさん。でも設置されたのは「平成10年」とある。山頂でフィルムの動画撮影をしていた若い人の連れ合いが「写真を撮りましょうか」と声をかけ、私たちの撮影をしてくれた。お返しにこちらもカメラのシャッターを押した。若い男二人がくる。「早いですねえ」と声をかけると、「いや、この先にテントを張ってますから」と返事がある。なるほど、登ってくるにしては早すぎる。
 
 暖かくなった。雨着の上を取って下山にかかる。6時半。鴨沢のバス停までのコースタイムは3時間半。15分余裕があるだけ。はたして間に合うだろうかと、ちょっと心配になる。登山道わきのスズ竹に霜が降り、陽に当たってきらきらと輝いて見える。黄色に変わりはじめたカラマツが陽ざしを受けて見事だ。富士山は朝日を反射するカラマツの向こうに、相変わらずよく見える。富士山の上空にたなびく鱗雲が、肌にきりりと突き刺さる寒気の心地よさと合わせて、冬の到来を思わせて、なぜかうれしい。振り返るとカラマツの林を従えた高台に建つ雲取山頂避難小屋がまぶしく屹立して見える。陽光を浴びて南の七つ石山に向けて大きな斜面を降る。
                                   
  小雲取山のあたりでまた男二人のパーティに出逢う。
「早いねえ、鴨沢から?」
「ええ」
「何時に出たの?」
「4時半かな」
「そりゃ早い。すごいねえ」
 と時計を見る。7時だ。
 
 2時間半でここまで来るっていうのは……。私たちの下山3時間のところを2時間半で上ってきている。若いってのはいいねえと話しながら、歩を進める。ひょっとすると、3時間もかからないのかもしれないと、身びいきに思う。7時18分、奥多摩小屋脇を通過。コースタイムより10分ほど遅い。山頂で言葉を交わした若い人のテントがある。いいねえ、こうして山を愉しむって気分が、晴れている日は特によく伝わる。空一面に鱗雲が広がり、さわやかさが、いや増す。7人ほどのひとパーティがやってくる。けっこうな年寄りもいる。

「何時ころ出たの?」
「8時かなあ」
 と先頭の人。
「ええっ?」
 と時計を見ると、まだ7時半。
「あっ、いや、6時」
 と訂正する。なんだ、1時間半でここまで来たのか。小雲取山で逢った若い人たちに負けないスピードだ。この人たちに負けるわけにはいかないねえと思う。と同時に、彼らが1時間半なら、下りの私たちもそれくらいで鴨沢に着けるかもと思う。
 
「でも、それだと、9時のバスに間に合うよ」
 と、口にする。あとで考えると、この人たちは鷹ノ巣の避難小屋に泊まっていたかもしれない。そう考えると、出逢ったところまで1時間50分ほどのところに小屋がある。鴨沢からだと私が思い込んだのが、間違いだったのかもしれない。
 
 七つ石山と鴨沢へのトラバース道との分岐、ブナ坂に出る。鴨沢から1時間半と聞こえたから、七つ石山の山頂を経て鴨沢に降りても、お釣りがくるくらいだと、話す。じゃあ行こうかと、下山の先頭に立つkwrさんが山頂へ向かい始める。でも一瞬、何か違うぞと思ったから、トラバース道へ行きましょうよと声をかけ、鴨沢へのショートカット道をとる。あとで考えると、これが正解であった。
 
 右側が切れ落ちるように急斜面になっているトラバース道は、ずいぶん長く続いた。それを抜けると今度は、左側が切れ落ちた稜線の南斜面伝いになり、下の方の谷から水の流れる音が聞こえてくる。稜線上に上がると反対側の沢の水音も聞こえる。覗き込むが、どちらも沢は見えないほど下にあり、木が密生している。ブナ坂から45分の地点・「堂所」という地図上の通過地点の表示を探しながら下ったが、なかなかそこに行きつかない。ふと気がつくと、「平将門迷走ルート 風呂岩(すいほろいわ)」の看板がある。その下の方に「堂所←760m」と表示している。見落として、すでに通過してしまっていたのだ。9時。ブナ坂からすでに1時間15分。堂所からの「760m」を30分できているのかと、考える。ちょっと遅いかもしれない。
 
 下山の道はずいぶんしっかりしている。木々の間を分けてこぼれてくる陽ざしが気持ち良いくらいの下山者の姿を照らし出す。下から登ってくる人たちとすれ違う。聞くとここまで2時間だとか1時間だとかそれぞれに違う。「平将門迷走ルート 小袖」の看板を見る。下に「←鴨沢バス停60分、2.4km」と表示がある。時計は9時39分。10時15分のバスには、ほぼ万事休すだ。だが先頭のkwrさんはそれを見た様子もない。まあ、急がせても仕方がない。降りたら降りたところで考えるしかないと、肚を決める。下山してタクシーでも呼べばと話してはいたが、じつは、奥多摩駅にはタクシーの会社がない。いつかもタクシーを呼ぶとあきる野市から来るのだと聞かされて、あきらめたことがあった。そう簡単にタクシーも頼めない。10時のバスを逃すと、次は13時53分、4時間近く待つ。
 
 下の方に道路が見えると、誰かが声をあげる。よく見ると陽ざしを受けた下方の草付きが道路に見えたようだ。kwrさんとmrさんは坦々と歩く。ことに急ぐでもなく、のんびりでもなく、テンポは悪くない。道路が見え始める。ここに降り立てば、あと20分と目安がつく。並行して走る舗装路は見えてからぐいぐいと高度を上げ、こちらは緩やかに高度を下げ、ついに降り立った。9時55分。バス停まで20分というコースタイムなら、急げば間に合う。私が先頭に立つ。駐車場があるところから、「近道→」へ踏み込む。下から十人ほどの大学生らしいパーティが上ってくる。コンチハと声をかけ、顔も見ずすれ違って下りに降る。細い舗装路に出る。少し広い道に出る。あと五分。バスが来たら待ってくれと頼もうと上を見る。odさんが追いついてくる。彼女を先に行かせて時計を見て、「急げば間に合うぞ」と残る三人に声をかける。バスが見えた。残る二人は間に合うが、kwrさんが足を引きずっている。あと10メートル。「ゆっくり乗ってね」と声をかけ、私も乗り口に向かう。間に合った。kwrさんが乗ると同時に、ドアが閉まり、バスは発車した。
 
「まじめなバスだなあ」
 とkwrさんが声をあげる。たしかに。時刻表通りにやってくるなんて、まじめもまじめ、大真面目だねえと、笑う。それにしても、なにもコースタイムプラス15分という時間通りに歩かなくてもいいのに、kwrさんの先導も技能賞ものだと、あわせて笑った。
 
 こうして奥多摩駅に着き、十分ほどのところにある「もえぎの湯」で風呂に浸かり、温泉の上のお休み処で乾杯し、お昼にして電車の人となった。61年ぶりの念願がかなったおdさんばかりか、私たちまで晴れと眺望と乗り遅れればあと4時間は来ないというバスに間に合って、極上の雲取山になった。めでたし、めでたし。