平野啓一郎『決壊』(新潮社、2008年)を読む。上下二巻、意外にもするすると読む。この作家がこんなミステリ仕立ての作品を書いているとは、思いもしなかった。
でも最後まで読んで、主題はミステリではなく、ある出来事によって人と人との「かんけい」が壊れていくことを克明に追っている、と読める。「ある出来事」というのが苛烈な犯罪でも、単なる「事故」でも、あるいは「病気」やその他の「災厄」でもいいと、読み終わって私は、感じている。一つの出来事が、それまでの「かんけい」と絡み合って、人々の内面に紡ぎ起こす「不安定」が、相乗して「かんけい」を壊していく。それに立ち会っているとき、たとえ傍目に観ている立場にいても、どんな言葉が繰り出せるだろう。
この小説のひとつの場面。人を殺す罪を犯した少年の母親が、住む処を変え名を変えてアルバイトをしているところへ、ヤンキーな若者数人が乗り込んでくる。(この後の文章は小説の引用ではないが)「あんた、あの子の母親だろう。どう責任をとるんだよ」と詰め寄る。脇にいた店長や買い物客が「あんた当事者でもないのに、そんなに責めんなよ」「ちゃんと法廷で始末することなんだから」と割って入る。するとそのヤンキーが「加害者と被害者の間でケリをつけたって、オレたちの(不安の)方はどうしてくれんだよ」と強弁する場面がある。はて私だったら、どう応じるだろうか。そう考えてみて、言葉が出ない。「法廷」は刑事罰や民事の賠償の話。刑事罰は少年法に守られて、この少年には提要されない。民事は、つまり金で解決をする。「オレたち」の(社会が受け取る)不安や気持ちはどうしてくれるんだと、私も思うところがある。これに応えられないなら、「近代社会とか秩序とかきれいごとを言うんじゃないよ」と、私の内心が思っている。
「出来事」自体が、犯罪者の生育歴中の諸問題をふくめて、「かんけい」の総体として噴き出す。そこにかかわった人たちすべてが、(その犯罪者の)言葉にせよ振る舞い方にせよ関わりにせよ、「かんけい」をもっている。それは一つひとつ解きほぐしていけるようには配置されていない。「出来事」が起こってから、物語りが紡がれるのだから、当然ながら「後づけ」である。だがもちろん、犯罪者が少年の場合、その両親は「かんけい」から逃れることは出来ない。でも「代わりに」刑務所に入るということはできない。いや、そもそも犯罪者が「刑務所に入る」ことで「罰を受けた」とする考え方自体が、心や気持ちの問題を埒外において、共同体とか国家の手によって「処罰」をしたと、己を納得させているにすぎない。
平野啓一郎のこの作品は、つまり、近代社会の「関係」がほころび始めていることに喰いついているのではないか。じつは、私たちの社会の、ほんの一つの「出来事」がじわじわと「かんけい」をつくったり壊したりしていると言える。たいていは(私たちの生来の)優柔不断も含めてブレ幅の中におさまっているけれども、それが少しでも逸脱していると、おおきく「かんけい」を崩すことにつながる。
トランプさんじゃないが、他人を攻撃するやりとり、乱暴な罵詈讒謗、それらもまた、既存の社会(の細々とした「関係」)を壊しているのだ。むろんトランプさんは「そうだ壊しているんだ」と意気軒高だが、私たちの暮らしまで壊されてはと、一国平和主義的に期待するわけにはいくまい。
世界は、長い安定的な関係世界を脱して、崩壊過程に入ったのか。そもそも安定的な関係世界というのは、一国平和主義的な一時の幻想にすぎなかったのか。恐ろしくも、面白い時代に踏み込みつつあるのかもしれないと、ちょっとステップアウトして感じている。